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泡沫の憶で語る  作者: 鯨岡 朔
日も月も明けない
16/20

お世話になりました、さようなら


 薄く差し込む日の光に起こされる。ぼけやた視界に映る見慣れない天井に瞬きをした。そうだ、いつの間にか来ていたこの土地で宿をとっていた。重く怠い体を起こして、はっきりしない意識の中で夢のことを思い返す。変な夢だ。妙にハッキリとした部分もあって、こうして覚えている。

 寝ぼけた目で部屋の中を見渡す。天井と壁がぐにゃりと動く。まるで呼吸でもしているかのように蠢く様子に一気に目が覚めた。

 目を擦ってからもう一度よく見る。もう天井や壁は動いてはいなかった。無機質に、硬く、そこにいるだけだった。

 私は慌てて浴衣を脱ぎ捨てて、元々着ていた服に着替えた。部屋の鍵と持ってきた荷物を抱えて、小走りで玄関に向かう。そして踵で靴を踏みつけたまま逃げ出すように部屋を出るのだった。




☆ ☆ ☆




 部屋を出た私は鍵をかけてから長い廊下を急いで歩いた。喉がカラカラで、正直走るのはしんどかった。ともかく会計を済ませて此処から出たい。記憶を辿り、あと少しで宿の玄関口に着こうというその時だった。

 向こう側から見覚えがある顔が近づいてきた。ウェーブがかった長い髪を三つ編みにしてマフラーのように首に巻いているが、見間違える筈がない。


「クマリさん?」


 足を止めて声を話しかければ、クマリさんはニコッと笑う。


「あーあ、朝から僕に会ったね。これも何かのご縁ってヤツかな」


 クマリさんは慣れた足取りで私に近付いてきた。


「もう宿を出るんでしょ。僕も一緒に出るよ」


 そう言われた私はふと桃さんのことを思い出した。桃さんはまだこの宿に泊まるのだろうか。連絡先を知らないし、この宿に残すのは少し不安を覚えた。


「そういえばさっき若い女の子が宿から出て行くのが見えたよ。短い髪で眼鏡をかけた子」


 言われた内容に目を見開く。私の心を見透かしたようだ。本当に不思議な人で、神出鬼没というか怖い思いする前後には必ず現れるような気がする。でも怖い感じはしなかった。慣れ親しんだ友人のような感覚さえした。


「ヒイラギちゃん、いかないの?」


 促されるようにそう言われた私は足を踏み出した。誰もいない夜道を歩くような恐怖感に背中にべったりと貼りついている。私の歩く速度に合わせて、クマリさんも歩き出す。

 廊下を抜けて、開けた場所に出る。最初に来た玄関がそこにはあった。初めて見た時は立派だと感動してしまったが、今見るとゴチャゴチャと物を置きすぎている。散らかってはいないが、圧迫感があった。


「ひいらぎちゃん、もう帰るの?」


 甘えるように掛けられた声に振り返る。赤い着物を着て、日本人形のように化粧をした星来さんが佇んでいた。どこか寂しそうで、暗く落ち込んだ目に罪悪感が掠めていく。


「えっと、はい。そろそろお暇しようかなと。お会計したいのですが」

「ん」


 無表情のまま星来さんは伝票と思わしき紙を出してきた。記載された金額通りのお金を星来さんに渡そうとしたが、トレーを差し出される。私はトレーの上にお金を置いた。星来さんがそれを確認している間、ずっと黙ったまま横で見ているだけのクマリさんを盗み見る。そう言えばこの人はお会計をもう済ませたのだろうか。私の視線を軽々と受け止めたクマリさんは薄っすら微笑む。

 ふと星来さんの髪に糸くずがついているのを見つけた。私はなんとはなしに声をかける。


「あ、髪にゴミがついてますよ。取りますね」


 綺麗な髪についているゴミを取ろうと手を伸ばした。


「やめてくださいな!」


 怒声と共に伸ばした手を叩き落したのは、いつの間にか現れた女将さんだった。


「いくら綺麗だからと私の娘に勝手に触ろうとするなんて、お客様だからといって到底見過ごせません」


 星来さんを庇うように立ち塞がる女将さんに思わず先に謝罪をしてしまう。


「あの、すみません、でした」


 ゴミを取ろうとしただけなんですけど、と言いたかった言葉は喉の奥でつっかかる。女将さんの権幕に押されて、何も言えなかったからだ。叩かれた手の甲を引っ込めて、距離を取る。


「星来、他には何もされていない?」

「お会計をしてもらっただけよ」


 トレーの上に置かれた紙幣を一瞥してから女将さんは私を軽く睨みつけた。まるで犯罪者でも見るような厳しい眼差しにたじろいでしまう。


「言いづらいのだけど素行が悪そうな女とは関わらない方がいいわ」


 耳を疑いたくなる言い様に下唇を噛む。目の前にいる女性は後ろにいる星来さんに向かって、言葉を続ける。


「あの子はね、最初に来た時に派手な外見の男と一緒に来ていたのよ。そんな人と一緒にいるくらいなんだからあの子もロクでもないわ」


 多分きっと芙さんのことだ。たしかに派手な外見だけど芙さんは決して悪く言われるような人物ではなかった。言い返そうと口を開いたが、上手く言葉が出てこない。助けてもらった人を庇う事すら出来ないなんて、少し自己嫌悪に陥りそうだ。今だって奥歯をきつく噛んで、嵐のような暴言に俯いたままだ。


「最近の若い子って本当にだらしがないのね。私は大人だから貴方のためを思って敢えて言いますけどね、それじゃあ将来困りますよ」


 最近の若い子、というワードに夢の中で見た光景がよみがえる。男性とこの宿で働いていた女性従業員との不倫。女性従業員は若々しい見た目だった。私を通して、彼女に怒りをぶつけている。何故かそう思った。


「男にかまけて、周りの迷惑を考えずに目の前の快楽や楽な事に飛びつくなんて浅ましい。人としてどうかしています」


 女将さんの物言いはやっぱり苦手だ。人を抉るための言葉選びが上手過ぎて、耳を塞ぎたくなる。心臓がバクバクと大きく脈打つ。

 視線を逃がす。クマリさんは相変わらず笑ったままだ。子供の遊びを見守る親のような慈愛さえ感じられる。続けて星来さんに視線を留める。

 星来さんは何の感情も浮かべていない両目で私を見つめたままこう言った。


「うん、おかあさんが正しいと思う」


 機械的な返答にびっくりしてしまう。星来さんは顔色一つ変えることはなかった。


「あの、星来さん。これでいいんですか?」


 何もかも母親に支配されて選ぶことさえ出来なくなっている状態が良い事とは思えない。


「だっておかあさんが代わりに考えてくれるじゃない。私は何も考えなくていいの」


 他人事のような口ぶりに首を横に振った。それは違う気がする。でも何がどう違うのか、どう正せばいいのか分からなかった。そもそも私が正すべき事なのか、それすらも曖昧だ。


「せっかく、ひいらぎちゃんとお友達になれそうだったのに残念だなあ」


 女将さんは勝ち誇ったように笑顔を浮かべた。


「星来はね、このままでいいんです。だってほら、私の言う通りにしているから正しく生きられているじゃないですか」


 選択肢がないまま家にいることが果たしてそうなのだろうか。


「お客様はお若いから分からないのでしょうけど」


 小馬鹿にするように言われた台詞に項垂れる。面白そうに見学していたクマリさんは肩を揺らして笑っていた。

 スキップでもしそうな足取りで近づいてきた彼は、そっと耳元で囁く。


「あれがあの親子にとって善いことで、それを壊そうとするものが悪いものなんだ。ヒイラギちゃんが自分の正しさを押し付けるように、相手もそうしたいだけさ」

「……それは」

「自分の考えに賛同すれば正義で価値があるもの。反対する者はみーんな敵ってこと。たとえ反対意見の中に一般的に見れば中立的で常識的な意見があってもね」

「……でも……」


 口から何も言葉が出てこない。耳を塞ぎたい。何も聞きたくない。でも彼は言葉を止めてくれなかった。


「一方的に相手を殴りつける正義は心地よいだろう? 一方的に相手を憐れ見下すのは優越感に浸れるだろう?」


 そこまで言うと、ひとの気配が遠ざかる。顔に落ちてきていた熱が冷めていく。


「今の僕は一方的に言葉を投げかけているように、ね」


 クマリさんの言っている事は少し難しい。力強く立ち上がって正義を思うのが悪いものではないと思いたい。そうでなければ人間は迷子になってしまう。

 でも、相手に受け入れてもらえるように解決策を一つも提示できないまま否定するのは、空っぽの正義なのかもしれない。


「もごもごとして、はっきりと言葉になさってはいかがですか」


 一際厳しい口調で女将さんに咎められた私はその場で深々と頭を下げた。


「……お世話になりました。ありがとうございます」

「今のままだと将来困りますよ」


 駄目押しと言わんばかりの一言に何も返さなかった。

 親子に背を向けて立派な造りの玄関を出る。来た時はあんなに素敵に見えていたのに、今はもう段ボールで作った張りぼてにしか見えなかった。

 ……それとも大人になればこの家を立派だと思える日が来るのだろうか。女将さんの言う通りだったと思う日が来るのだろうか。なんだかそれが少し怖いと思う。



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