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泡沫の憶で語る  作者: 鯨岡 朔
日も月も明けない
13/20

不思議なひと



 浴衣の裾を蹴りつけるように早歩きで廊下を進む。本当に気分が悪くて、気持ちが悪い。そのまま大浴場の前を通り過ぎようとした時だった。


「おや、他の宿泊客がいたんだね」


 馴れ馴れしく話しかけられた声に振り向けば、クマリさんがいた。廊下に置かれた長椅子に足を組んで座っている。相変わらず長い髪をまとめずに、長椅子の上に乱雑に投げ出されている。まるで蛇がとぐろを巻いているようだ。当たり前だが、浴衣を着ている。多分宿が貸し出している物だ。

温泉の中でうたた寝した時に見た夢だと思っていたけれど、この人実在したんだ。じゃあ、あの夢は予知夢的なものだったのだろうか。

確かめるように名前を小さく呼んでみる。


「クマリさん」

「初めて会ったのに、僕の名前を知っているのかい?」


 そう言いながらも彼は驚いた表情を見せなかった。名前を知っていて当然だという対応に、私は意を決してある事を聞いた。


「ゆ、夢で会いました?」

「あれー、もしかして僕ってば口説かれているのかな」


 袖で口元を覆ってみせてから、彼は声を上げて笑っていた。

 なんだかギャグを滑った芸人のようだ。私はしどろもどろになりながら更に訊ねる。


「あ、えっと、温泉一緒に入りましたよね……」

「え、なにそれ。僕が女湯に忍び込んで入るようなタイプに見えるってこと?」


 あ、なんか違うっぽい。さすがのクマリさんも少しだけ身を引いて苦笑いしている。というよりドン引きされている。

 どうやら本当に初対面らしい。名前を知っている初対面なんて可笑しな話だが、此処に存在するのだから納得するしかなかった。

 とりあえず私は頭を下げて謝罪した。


「すみません、寝惚けていました」

「もう夜も更けているからねえ」


 クマリさんは長椅子の空いているスペースを指でさしながら、人懐っこい笑顔を見せる。悪意がない様子に緊張していた体が少しずつほぐれていく。


「浮かない顔をしてどうしたの? 僕で良かったら話を聞こうか」

「あー……、いえ、大丈夫です」


 その場から動かずに首を横に振った。

 一瞬だけ夕食の出来事が過ったが、それを誰かに話そうという気分にはなれなかった。私にはあの言葉を否定できるほどの経験はないし、多分世間一般から見たらそうなのかもしれないとも思ったからだ。


「何か嫌な事を聞いても聞き流せばいいんだよ。大人が必ずしも正しい答えを出せるとは限らない」


 体が強張る。何も話してもいないのに、見透かされたような回答に驚きを隠せなかった。クマリさんをまじまじと見つめれば、彼はクスクスと笑っている。

 温泉の時も思ったが、不思議な人だ。

 少し考え込んでからクマリさんが指をさしていたスペースに座った。不思議と胃のムカつきは落ち着いている。ちょっとだけ気分が楽になった。


「やっぱり、ちょっと話してもいいですか」

「もちろん。僕は君と仲良くなりたいからね。仲良くなるためにまず会話が大事だ」


 似た台詞を何処かで聞いたような。その時は抵抗あったけれど、今は素直にその言葉を受け入れられた。

 現にクマリさんと会ってから息がしやすくなった気がする。友好的な態度だからかなあ。


「君と仲良くなるためなら朝までだって付き合うとも」


 ナンパみたいな言い方に思わず笑った。私がそうしてほしいと本当に希望すれば、きっとクマリさんは朝まで話を付き合ってくれるだろう。それが分かっているからこそ、そう言われて嫌な気持ちはしなかった。


「クマリさんって……、モテそうですね」


 本心から零れ出た言葉に、彼は少しだけ顔を傾ける仕草をする。覗き込むように顔を見られて、思わず身じろぐ。


「それは君もいいなって思っているってことかな」


 うわっ、その台詞が自然と出てくることが本当にモテる人っぽい。恋人は常にいましたっていうタイプだ、きっと。


「まあ、悪い人ではないと思っています」


 残念ながら私には男女の駆け引きの極意なんて分からない。彼氏なんていたことないし。だから素直に思ったことを口にした。


「へーえ?」


 頬杖をつきながらニヤッと笑ってみせる態度にちょっとだけ警戒心が芽生えた。身体の位置をずらして身構える。これはもはや防衛本能に近い。


「その意味ありげな返答の仕方はやめてください。前言撤回したくなります」


 クマリさんは屈託なく笑いながら「ごめんごめん」と謝る。


「それで何かあったの?」


 親しい友人のような言い方につられて、私は整理しようともしなかった思考を口にした。


「えっと、本心では相手を良く思っていなくて、それを笑顔で隠して、丁寧で優しい言葉で伝えてくるのが怖いなあって思っていただけです」


 そう言葉にして、溜息をつく。なんだか上手く言えない。でも敢えて言葉にするならそれしかなかった。まるで胸の中で大きな塊が栓をして、何かを考えたり思ったりすることを止めているみたいだ。

 クマリさんは最後まで聞き終えてから、こう言ってきた。


「それは言いたいことを言っただけかもよ?」

「いいたいこと……?」

「自分の意見を乱暴にまっすぐ伝えれば相手を確実に傷つける。だから笑顔と敬語で誤魔化すんだ。服の下で皮膚をつねるようにね」

「それって……でも言っている内容は最終的に変わりませんよね。それをする意味ってなんですか?」

「意味はあるよ。少なくとも悪者ではなく、善い人のフリは出来る」

「相手が傷ついても?」

「感情的になることは子供っぽく、良識がないと思われがちじゃないか。でも冷静に伝えれば、『自分は貴方のためを思って言ってあげた』って言えるとは思わない?」


 自分の本音を笑顔と敬語で飾って相手に伝えれば、相手を思った事のように見える。ということなのだろうか。でもそれは我が身可愛さからくるもので……。

 ――やっぱり意味がわかりません、それは自己中です。

そう言いかけたが止めた。頭の奥で、ゴトッと重い石が動くような嫌な感じがしたからだ。これ以上考えたら思い出したくないことを溢れ出てしまう。

長く息を吐いてから目を閉じる。今、自分が言うべきではない言葉を口にしそうになったことに罪悪感を覚えながら。


「……まだまだ私が子供ってことはわかりました」

「それも本音を隠すための敬語かな」

「いえ、自己反省をするため、と思いたいです」


 クマリさんはジッと見つめてから手を伸ばしてきた。蛇のような指が前髪に触れて、撫でるように髪を梳かす。

 額にじんわりと灯る他人の体温がくすぐったくて、落ち込んでいた気分を引き上げてくれた。

 クマリさんは少しだけ笑ってから、唐突に話題を変えてきた。


「甘い香りがする」

「え?」


 お風呂に入ったからだろうか。甘いものなんて食べていない。あ、でもさっき葡萄ジュースは飲んだからそれだろうか。


「あ、あの、夕飯に葡萄ジュースを飲みました」

「夕飯は葡萄ジュースだけだったの?」

「いえ、海鮮も食べました。多分マグロとホタテとか」


 数切れだけですけど、と心の中で付け加えておく。

 クマリさんは大袈裟に体を引いてみせた。基本的にずっと笑っている人だったのに、何故か今はすごく可哀想な存在を見るような憐れみの眼差しを向けられた。え、なぜ。


「葡萄と海鮮の組み合わせって良くないらしいよ」

「そ、そうなんですか?」


 クマリは唇に手を当てて、綺麗に微笑んでみせる。


「今晩たくさん吐いちゃうかもね? 食べた物が全部出るくらいに」


 それって笑って言う事!? っていうかそれは食中毒では!? あ、でも組み合わせだからちょっと違うか!?

 もしかしてさっきお腹が痛かったのはそれが原因か。え、どうしよ。

 顔から急速に冷えていく感覚がした。これが血の気が引くということなのだろうか。そういえばなんだかお腹が痛くなってきた。

 胸の下が絞めつけられるような痛みが込み上げてきて、荷物ごと押さえるように両腕で庇って前屈みになる。それに気持ち悪くなってきた。吐きそう。


「へ、部屋に帰って、寝ます。お話してくださり、ありがとうございました……」


 のろのろと立ち上がり、部屋に向かって歩き出す。ギュウと低い音をたてて、お腹が騒ぎ始めている。吐くか、下痢をするか。どちらか分からないが、トイレが近い場所にいたい。


「吐いた後はしっかり水分とった方がいいよ、お茶とかさ」


 ありがたいアドバイスを背中で受け取りながら、私は生まれたての小鹿のように前進する。


「ヒイラギちゃん、おやすみ」


 へらりと彼が笑った気配がした。

 なんで名前を知っているのだろうと一瞬だけ思ったが、体が訴える絶不調の方にすぐ意識が向けられるのだった。


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