味がしない食事
暖簾を払いのけるように飛び出した私はかなり気が動転していた。
ともかく桃さんを探してみよう、と目の前に伸びている広い廊下に足を向けた時だった。
「ひいらぎちゃん」
横から声をかけられる。ゆっくりと首を動かせば、先程会ったばかりの星来さんが立ち尽くしていた。
「ひいらぎちゃん」
もう一度名前を呼ばれたかと思うと、いきなり手を掴んで強く引っ張り出した。
「あ、待ってください。桃さんを――」
知りませんか、という言葉は続かなかった。
「もう、おそすぎ! ほら、いこっ!」
星来さんは私の手を掴んだまま走り出す。掴まれた腕が痛くなる。肩が脱臼するかと思うほどの勢いに、私は顔をしかめた。
昔話の、絵本の中に迷い込んだように、様々な表現がなされた古めかしいイラストが描かれた障子や扉を横目に走り抜けていく。日本史や古典の教科書でしか見たことがない物ばかりで、まるで異世界に迷い込んだみたいだ。
床を蹴りつける度に、ドタバタとうるさく響き渡る。子供が走り回っているような足音と、歴史がありそうな宿に似つかわしくない行動に、罪悪感が芽生え始めた。
その時だ。
「お客様、廊下は走らないでくださいませ」
頬を引っ叩かれるような、厳しい声が背後からした。電池が切れた機械のように、私は無理やり足を止める。私が止まった反動で、星来さんも走るのを止めざるを得なくて、此方側に倒れ込みそうになる。扇子のように広がる黒髪の合間からはふくれっ面の美しい顔が見えた。
おそるおそる振り返れば笑顔を貼りつけたまま女将さんが立ちすくんでいる。
「す、すみません」
反射的に謝ったが、女将さんは何も言わなかった。笑顔をはりつけたまま近付いてきた。自然と足が一歩下がる。星来さんが私を庇うように前に立つ。
「おかあさん、そんなにしからなくてもいいんじゃないかな」
「貴女は本当に優しい子ですね、星来」
――私が先に走ったんじゃないのに。
二人のやり取りを聞いていた私は口を開きかけて、何も言えなかった。言いたいことを言って、それで何になるのだろうか。ただ黙って、目と耳を塞げば嵐はいずれ過ぎ去る。
女将さんは先程と打って変わって、優しげな笑顔をうかべた。
「お食事の準備は出来ております」
そう言って案内されたのは黒く塗られた扉の前だ。金色の紐の飾りもついており、如何にも大事な部屋がこの先にあるといった雰囲気だ。
女将さんは慣れた仕草で扉を引くと、其処は広間のようだった。
古された畳が敷かれているが、よく手入れされている。天井には龍と虎の絵をメインに牡丹や菊の花が描かれている。名前は分からないが透かし彫りが入った木の板が天井のすぐ下にはめ込まれており、時代劇のセットの中に入り込んだ気分だ。
部屋の中央には黒塗りされた高級そうなテーブルと座り午後地が良さそうな座椅子が置かれている。
テーブルの上には色鮮やかな料理が用意されていた。脚が付いた黒いお盆の上には豪華な海産物、くりぬいた柚子や南瓜を皿代わりにした料理、花の形に切られた野菜たち、筑前煮を思わせる煮物からお正月の料理のような煮物まであった。
「さあさあ、どうぞお座りになって」
促されるがまま座椅子に座る。星来さんも隣に座った。箸は二膳あるから、本当に夕食を一緒に食べるようだ。少しだけ気分が重い。
こんなご馳走を前にしても空腹を感じなかった。先程の脱衣所の注意書きが脳裏に過った。
『当家で出された飲食を口にしてはいけません』
他の注意書きはまだ分からなくもないといった内容だった。他人に水をかけていけないのは、なんとなくマナー違反だと思う。浴衣で温泉に入るなというものも。持ち込み飲食を禁止しているのは、衛生面で断る事が多いとは聞いたことがある。
でも此処で出された飲食を食べてはいけないとなったら、宿泊客は飲まず食わずになるから持ち込み飲食禁止と矛盾する気がした。
硝子に綺麗な彫り細工が施されたグラスを差し出される。赤紫色の液体だ。グラスの中身を覗きこめば影が落ちて、赤黒くなった。まるで血液の色のようなそれに、思考の裏である光景が過った。
水の中を走る、毛細血管みたいな赤黒い何か。
「どうぞ。採れたての葡萄で出来たジュースです」
上からそう囁かれた。女将さんの声だ。優しく猫を撫でるような甘い声。
天井がギッギッと小さく鳴き続ける。風で軋んだのだろうか。
断るのは失礼だと思い、グラスを受け取った。ひんやりとしたグラスが手の体温を奪っていく。喉を一度鳴らしてから震える唇をつけた。一気に傾ければ甘酸っぱい液体が流れこむ。口に溜めてから飲み込んだ。あ、この味は知っている。本当に葡萄ジュースだ。市販の物より美味しい気がする。
良かった、本当に美味しい葡萄ジュースだ。馥郁たる、芳醇な味ってこういうことを言うのかな。
風が止んだのか、家がギシギシと鳴る事はなかった。
「どうぞ、召し上がれ」
その声に誘われるがまま箸を手に取り、目の前にあった海鮮の皿に伸ばした。船の形をした木の皿に、花弁のように並べられて綺麗だ。
この赤身の魚はマグロだろうか。マグロと思わしき魚を一切れ取ってから醤油につけて口に運ぶ。舌の熱で溶けていく脂っぽさの中に旨味がある。新鮮だからなのか、臭味もない。
今度は白身魚を一切れ取る。先程の赤身魚と違い、さっぱりとして美味しい。
「星来もそれ食べたい!」
私が食べている様子に触発されたのか、星来さんも箸を取って食べ始めた。着物の袂を捲り上げずに手を伸ばすから醤油皿に付きそうだ。
とっさに手を出しかけた私より先に、女将さんは彼女の着物の袂を持ち上げて、洗濯バサミのようなもので帯に止めてしまう。
お腹が空いていたのであろう星来さんは嬉しそうな顔で頬張っている。何をしていても本当に綺麗な人だ。
そんな星来さんの横顔を見つめる女将さんは優しく温かな笑みを浮かべていた。
「星来さんって本当に綺麗ですね」
思わずそう言えば女将さんは誇らしげに笑みを深くした。
「そうでしょうとも。手塩にかけて育ててきましたからね」
「本当にすごいですね。私も星来さんみたいな美人になりたかったです」
女将さんは返答しない代わりに鼻で笑ってみせる。
胸に何か突っかかる違和感を覚えた。言葉に表せないけれど、言い方を失敗した気がする。何かまずいことを言ってしまったのだろうか、と考え込む。
ああ、もうなんだか、ボタンを掛け違えてしまった服を着て、外を歩いている気分だ。
「子供の姿を見れば親がどれだけ愛情をかけてきたか、ご理解いただけるでしょう」
言葉の形に成っていない思いがのしかかってくる。察しろと言わんばかりの空気が、首をしめてくるようだ。
この人の、こういう雰囲気は苦手なのかもしれない。
「ときに……、年若いお嬢さんがこんなところに一人でいるなんて、のっぴきならない事情でもあるのでしょうか」
視線が落とされる。首下からお腹にかけて値踏みするように見られた。
言外に『悪い遊びをしているんじゃないか。なにか面倒事に巻き込まれているのじゃないか』という嫌悪と好奇が入り混じっている。
家が分からないとか帰れないとかは言わない方が良さそうだ。多分これは正解じゃない。相手の機嫌を損ねる回答だ。
星来さんは私に興味がないのか、先程からずっとご飯を食べている。此方を見向きもしなかった。とても気まずいし、此処から出たい。
不自然じゃない言い訳を考えて、考えて、ゆっくりと口を開く。
「し、自然いっぱいな場所に来たくて。テレビでよくやる一人旅とかソロキャンに憧れてたんです」
どうにか思いついた言い訳を述べてみる。
「ああ、そうなのですね。此処は自然がいっぱいですものね。でも若いうちからフラフラと出歩いて変な遊びを覚えては駄目ですよ。将来結婚できなくなってしまうから。女が三十過ぎても結婚できないなんて世間的には本人に問題があると思われてしまうものです。そんな大人になるのは厭でしょう?」
「……はあ、そうですね」
結婚なんて、考えたこともなかった。
不意に思考が別の方向に飛んでしまう。何年か、何十年か後には自分も赤ちゃんを抱っこしているようになるのだろうか。そんなこと想像もつかない。どんな大人になるかも思い描けないのに。
「若いうちに男を覚えるなんて尻軽女になっては将来不幸になりますよ。せっかく此処まで育ててくれた親御さんを悲しませてしまいますからね。親を悲しませるなんて子供として一番最低なことです」
まるで私がそうだ、と言わんばかりの台詞だ。背中に冷や汗が流れる。
「そうですね、両親を悲しませたくないです」
早く、会話が終わってほしい。
視界がぐにゃりと歪む。渦に巻き込まれていくようだ。身体を洗っている時に見た排水口の光景と重なっていく。泡と、お湯と、――血が混じって渦を作って暗闇に呑み込まれていく。
当たり障りなく相槌をうちながら、どうしようもない息苦しさに苛まれる。此処は牢屋みたいだ。閉め切られた障子は鉄格子で、女将さんの言葉は手錠だ。
胃の奥がキリキリしてきて、痛い。まだそんなに食べていないのに。
「あら、話しすぎてしまいましたね。年寄りの話なんて若い人にはさぞつまらなく聞こえるでしょう? ささっ、ご飯たべてくださいな」
会釈してから、誤魔化すように口に入れたホタテは無味無臭の塊に変化する。醤油もつけたから味がある筈なのに。なんだか、美味しくない。私がおかしくなってしまったのだろうか。
耐えきれなくなった私は箸を静かに置いた。カタン、と立てた軽い音が妙に室内に響く。
「……あの、今日は疲れてしまって。こんなにたくさん用意していただいて申し訳ないのですが、部屋で休ませてください」
声を絞り出してそう言ってみた。
「そうですか。長旅でお疲れのところを無理に引き留めてごめんなさいね」
声は優しげだ。顔を見るのが怖くて、視線を外してしまう。
嫌そうな顔、ではなく、またあの能面みたいな貼り付けた笑顔を見るとどうしたらいいのか分からなくなるから怖いのだ。間違えているのに、指摘すらしてもらえず謝る機会も与えられないのが、すごく怖い。
「お客様、朝餉はいかが致しましょうか。御粥を作ってお持ちしましょうか」
「いえ、大丈夫です。朝ごはんはいつも食べていないので」
「そうですか」
無機質な声につられて、少しだけ顔を上げてしまう。
女将は少しだけ唇をヒクつかせている。――せっかく親切で言ってあげたのに、という声が聞こえてきそうな表情だ。
「親切にしていただいてありがとうございます。お部屋はどちらですか」
心の中でない交ぜになっていく感情を全て無視して、なるべく笑顔で質問する。でも多分引き攣っていると思う。
女将さんはルームキーを差し出しながら扉の向こうを指差した。
「紫陽花の間を用意しています。此処を出たら右に曲がったらまっすぐ進んでいきます。突き当り左手側が紫陽花の間でございます」
「え、ひいらぎちゃん。もういっちゃうの?」
星来さんはようやく顔を上げて、残念そうな顔で見てきた。何も答える気になれずに、私は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。ご飯を残してごめんなさい」
私は荷物を持って、彼女達から逃げるように用意された部屋に向かって早歩きで向かう。
胃の奥で何かがせり上げて、吐きたくなるのを我慢しながら。




