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泡沫の憶で語る  作者: 鯨岡 朔
日も月も明けない
11/20

なにかがおかしい


 大浴場から上がり、脱衣所に戻る。

 体に付きまとっていた湯気が一気に無くなって、外気に晒される。火照った身体には心地よい冷たさだ。

バスタオルで拭ってから手早く下着を身につける。渡された浴衣に袖を通せば、ほんのりとお香の匂いがした。懐かしい。おばあちゃんの家の線香の匂いと似ている気がする。

 桃さんは浴衣ではなく、私服に着替えていた。彼女の人柄を表した落ち着いた雰囲気の服装だ。

人の着替えを見るのは失礼だとは思うが、その横顔に安心感があるため気が付けば視線で追ってしまう。芙さんと似た雰囲気があるから落ち着くのだろうか。


「どうしたの? 柊木さん」


 視線に気付いた桃さんはニコッと笑いかけてきた。


「いえ、じろじろと見ちゃってごめんなさい」


 頭を一つ下げてから浴衣の帯を締める。適当に蝶々結びにしておけば問題ないだろう。横目で桃さんの方を見れば、既に着替え終わった彼女はバックの中を漁っていた。ガサコソを何かを探しているようで、不意に「あっ」と声を上げる。


「柊木さん、良かったらこれ食べてください。外で買ってきたものなんですけど、私お腹いっぱいで」


 差し出された物はおにぎりだった。コンビニのおにぎりのようで綺麗に包装されている。味はツナマヨと明太子だ。桃さんが好きなおにぎりの具なのかもしれない。


「地元のお米を使ったおにぎりなんですけど、美味しいんです」


へえ、と口に出しながらおにぎりを受け取る。本当に美味しそうだ。一瞬だけ夕餉をサービスするという女将さんの言葉が過った。

 でも、おにぎりを少しだけ食べたい気持ちもある。というより気分が完全におにぎりを欲している。


「お茶もありますよ。あとこれも」


 渡されたのは緑茶のペットボトルとお菓子だった。お菓子の方にはくるみの羽二重餅と書いてある。手のひらでコロンと転がるくらい小さくて可愛いお菓子だ。それに一口サイズで食べやすそう。

 ぐう、とお腹が小さく鳴る。食欲に忠実な体だ。

 桃さんはクスクスと笑いながら「今食べちゃったら?」と声をかけてくれた。


「ありがとうございます」


 せっかく頂いたのだし、お菓子の方を食べようかな。

 キョロキョロと見渡してから、出入り口付近に長椅子が置いてあることに気付く。あそこでなら食べられそうだ。

 長椅子に腰をかけてから、ふと変わったルールが書いてあったプレートのことをなんとはなしに思い出した。視線が動いて、注意書きが書いてある場所の方を見やる。身を乗り出せば此処からでも見える筈だ。そこまで何かを確認したい訳ではなく、ましてや深い意味はない。ただ、他にはどんな事があったっけという軽い気持ちで見ようと思っただけだ。

 上半身をつんのめらせるように屈めた。

 改めてプレートを見たらシンプルな内容になっていた。


『当宿では持ち込み飲食は禁止しております』

『当家で出された飲食を口にしてはいけません』


 その二つだけが大きく書かれている。

 目を擦ってから、もう一度よく見る。やはり書いてある注意書きは二つしかなかった。おかしい。大浴場のマナーみたいなのも書いてあった筈だ。

 それになんだか不気味。まるで今から食事するのをわかっているかのような書き方で、今この瞬間も誰かが監視して注意しているみたい。


「桃さん、これって」


 そう問いかけようとした時に誰も居ないことに気付いた。長椅子を蹴っ飛ばすように立ち上がって、先程まで彼女がいた場所に大股で近づく。荷物がなく、其処に誰かがいた形跡すらない。

 脱衣所は広々しており、伏せられた籠が一個ずつ納められた棚が壁際に、反対側にはドライヤーが設置された洗面台がある。一番奥が大浴場に繋がる扉。扉の手前側に個室トイレがあった。

 少なくとも大浴場とトイレ以外に誰かいたらすぐに気付く。

私一人しかいない貸し切り状態に、不安と恐怖が募っていく。怖くて注意書きの方が見られない。

 大浴場かトイレに行ったのだろうかと浴衣を着たままで奥の扉を開けた。


「桃さんー!」


 大浴場から物音ひとつしなかった。むしろ誰かがいる気配もない。湯気でむせ返るほど温かい場所なのに、酷く寒いとさえ感じた。


「桃さん、いますか!」


 トイレの前でも叫んだが、返事はない。

声もかけずに先に出て行ってしまったのだろうか。

 この脱衣所は出入り口が一つしかない。先程まで座っていた長椅子が出入り口側にあるから、出て行くとしても私の前を通過しなくては通れない筈だ。

 ――まるで神隠しにあったみたいだ。

 そう考えた時、背筋がゾッとした。蟻が体中を走っているような不快な感覚が全身を襲う。


「桃さん!」


 大きな声でもう一度叫んだが、自分の声が虚しく響くだけだった。どこに行っちゃったのだろうか。宿泊している部屋に戻っただけならいいのだが。

 ともかく一度ここを出てから他を探してみよう。

荷物を纏めて、脱衣所を出る前に一度だけ振り返る。

 やはり誰もいなかった。

 けれども変化はあった。あの注意書きが掛かれたプレートの内容が変わっていた。今度はたった一文だけ大きく書かれていた。


『服を着たまま大浴場をご利用にならないでください』


 ヒュッと喉が鳴る。叫び声すら上げられず、頭の中が真っ白になった。此処はなんだか可笑しい。今すぐこの宿を出ようか。でも見知らぬ土地を夜に歩くのは別のリスクがある。

 宿の中に、もしかしたら桃さんがいるかもしれない。何か用事があって声もかけずに出て行ってしまったんだ。そうだよね、

 自分が立っているのかの感覚すら鈍くなる。歩いているのか、動けないのか。そんな簡単な事にすら意識が回せない。

 問い詰めるように大きく書かれた注意書きから目を離せない。

 暖簾の外でドサッと物音がした。荷物を落としたような音だ。

 我に返った私は、足先に力を入れて暖簾に向かって走り出す。たった数メートルの距離なのに、百メートル走でも走っているかのように時間の流れが遅く感じた。


 怖くて振り返れないまま、私は脱衣所を後にするのだった。


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