閑話ー『雉』
「柊木さん、大丈夫かな」
民宿に入るまで見届けたから平気な筈だ、と自分に言い聞かせる。頼りないところもあるが、大丈夫だとは思う。頭ではわかっているが、何故か一抹の不安が拭いきれない。
民宿に入っていく柊木の後ろ姿と別の誰かの後ろ姿が重なる光景が脳裏にこびりついて離れない。
忘れようもない記憶が映画のように動き出す。別の誰かの後ろ姿が乱暴にドアを開けて出て行く。それを観客のように眺める自分が、其処にいた。
頭を一つ振ってから記憶の上映会を退席する。
「明日の朝、行ってみるか」
気にかかるから考えてしまうのだ。せめて見送りくらいは行こう。
そう決意して歩き出した時だった。
「なんでまだいる」
声がした方向を振り返ったが、誰もいない。訝しみながら前を振り向いた時だった。
「帰れ」
目の前には女性が一人いた。いつの間にか前方にいたのか。正確には少女と言って差し支えない年齢に見える。
まず印象に残ったはその特徴的な声だ。甲高いような、それでいて独特な調子を残した声音だ。
外見も個性的だ。黒と茶色のまだらな髪を胸の下まで垂らしており、服装は原色だけを使っている。いわゆる原宿系ファッションというヤツだろうか。正直に目が痛くなりそうだ。
「オマエね、まだ若い身空なんだからこんなところにいるんじゃないぞ!」
あと中身は今時の若者を説教したがる年配を思わせる。正直こういった説教には正直辟易する。我ながらうんざりした口調でこう言った。
「こんなところと言っても、帰る場所が此処なんだから仕方が、ない」
話しかけて、何処か違和感を覚える。そう、仕方がない。此処に来るしかなかった。どうしてそう思うのだろうか。
それを見た彼女は勝ち誇ったように笑う。
「そう思えないか? じゃあ、ほら、帰れ!」
「帰るよ! この先にあるアパートで友人とルームシェアしているからそこに帰る」
「ちーがーうー! そうじゃない!」
その場で片足を何度も踏み鳴らしながら、喚き散らすような彼女の言い方に思わず耳を塞ぐ。耳の中でいつまでも反響していると思わせるような特徴的な声質だ。頭がキンキンする。
「というか初対面で突っかかる御宅はどちらさまですか?」
話題を変えようと話しかけると、彼女は目を瞬かせる。
「由貴だ! 由ある貴さと書く!」
「……いや、説明下手か。すぐに漢字が出てこないぞ」
顎に手を当てて考え込む。
「理由の『由』に、貴族の『貴』?」
「そうだぞ!」
「よしたか、って男の名前だと思うが」
「それがどうかしたのか」
目の前にいるのはどう見ても女性である。――自分の名前の読み方を間違えているとかないよな?
「ゆき、じゃなくて?」
同じ漢字で違う読み方をすら女性名なら一般的にもこの読み方だろう。
「ゆき? もしかしてあだ名か!?」
「は?」
「わはー! あだ名付けてもらったの初めてだ! 決めた! オマエはアタシのこと『由貴』って呼んでいいぞ!」
ツッコミしかない。
同じ音である雪は静かなのに彼女は真逆な正確なようだ。一秒に一字は何かしら話している気がする。要は非常にうるさいということだ。
そう思ったが、口に出さないで手を前に差し出す。牽制ではない。握手という意味で、だ。見た目が外国人っぽいから、ついハンドシェイクを求めてしまった。
「俺は久保寺芙だ」
由貴はきょとんとした様子で突き出された手と自分の顔を交互に見る。ややあってから得心がいった様子で歓声を上げた。
「あー! これが握手っていうヤツか! アタシ、これ初めてするかも!」
「はい?」
その言葉に違和感を覚えて反応したが、その前に由貴が嬉しそうに小さな両手で包み込む。それから勢いよく上下に振り出した。シェイカーでカクテルを作っているような振り方に肩が脱臼するのではないかと危惧する。
「アタシ、握手初めてしちゃった!」
アイドルの握手会ならいざ知らず、一般人と握手してこんな喜ぶ人間はまずいないだろう。今日は出逢って早々から可笑しな言動をする女の子とよく出会う日だ。
「でも手汗がすごいぞ! 握手って言うのはお互いの手汗を交換するものなのか?」
「違いますけど!?」
あまりの言い草に反論したが、服の内側でこっそりと手の甲を拭いた。女性にそう言われるのは、何とも言えない気まずさがある。そして体や服がぐっしょりと濡れている事に気付く。
たしかに今日は暑い。山の中も蒸し暑かった。でもこんなに汗を搔いているのに今の今まで気づかなかったなんて。
「帰るか」
「そうだ! それがいいぞ!」
由貴は嬉しそうにはしゃぐ。彼女を一瞥してからアパートに向かって歩き出す。
「ちょっとぉ!? そっちじゃないですけど!」
「いや、こっちだから!」
「オマエ、図体でかいのに帰り道もわからないのか! しょうがないなー! アタシが特別に案内してあげるぞ!」
「結構だ!」
そう大声で叫びながら走り出す。由貴も何かを喚きながらその後をついて走った。途中で何度か巻こうかと曲がりくねった道を通ったが、彼女は諦めが悪かった。
結局鬼ごっこ状態で体力の限界まで駆け抜けて、目的地についた頃にはふたりとも満身創痍だった。
「おま、暑いのに、走らせるな」
「ア、アタシは、道案内、して……あげ、たく、て…………!」
ゼーゼーと乱れる息をどうにかして整える。そしてドアの横に備え付けられているチャイムを鳴らす。――知らない奴がいるのにチャイムを鳴らすのは得策ではないかもしれないが、まあ悪い奴ではないから問題ないだろう。なにより喉が渇いて死にそうだ!
中からパタパタと歩いてくる足音が近づいてから、ガチャリと鍵が回る音がする。ややあってからドアがゆっくりと開いた。
「おかえりなさい、芙」
「ただいま、鈴音君」
扉の向こうから出てきた見慣れた友人――鈴音君はニコッと笑いかける。鈴音君は後ろにいる由貴に目を留める。そうだよな、こんな面白可笑しいファッションの奴がいたらびっくりするよな。
息も絶え絶えに顔を上げた由貴はフラッと鈴音に向かって歩き出す。そして両手を軽く広げてから次の瞬間。
「水くれー!」
切羽詰まった様子で抱き着いてきた由貴に対して、鈴音君は困惑した様子で受け止める。
「えっと、どちらさま?」
「名乗らせる前に水―! 洗面器でくれー!」
鈴音君に抱き着いたまま由貴は叫び続ける。
「いや、いきなりそんなことしたら鈴音君が困るだろー!?」
一足先に部屋に上がり、コップを掴む。乱暴に水道水を注いでから、水の入ったコップを彼女に渡す。由貴はひったくるように奪って勢いよく飲んだ。
「危うく干し肉になるところだったー!」
「なるか!」
「おかわり!」と元気よく空のコップを突き出す由貴に対して、呆れ返った。優しい鈴音君は言われるがまま、冷蔵庫にあっただろうペットボトルの水をコップに注いであげていた。
「うはー! 誰かに注いでもらうなんて殿様気分!」
また変な事を言っている。
なみなみに水が注がれたコップをもう一度勢いよく飲む。それから鈴音君に対して大声で挨拶をし始めた。
「アタシは由貴! ゆきって呼んでくれ!」
「ボクは鈴音です。よろしくね」
「そっかー! よろしくな! はい、コップ」
空のコップを渡されても鈴音君は怒ることなく片付け始めた。
その図々しさにいよいよ頭痛がしてきそうだ。こめかみを揉みながら由貴に近付く。
「お前なー、少しは礼をい――」
「あ、大いなる悪を正すべき天照す空から舞い降りし御使いという名前も捨てがたい! そっちを名乗れば良かったか」
「クソダサいからやめろ」
――ダメだ、日本語が通じない。
最早二の句が継げない。言葉の代わりに大きく嘆息するのだった。




