第一話『空の向こう』
”ワープ”とは離れた二つの場所のショートカットになるものを指す。
実際にパワーアップするために使う重力という力は強大かつ不安定で、たかが人間が操れないため使用は禁じられている。
しかしそんな遥か昔に定められたルールを、セイティは知るはずもない。新しく制定された規則さえ彼が把握するかも疑わしいことであるが、それはそれとして。
黒豆のように小さいエネルギーは望まれたまま徐々に凝集していき、ゴルフボールからテニスボールに、テニスボールからサッカーボールへと大きくなっていく。手に乗っているわけではないが、セイティは思わず一歩下がって、それの成長を見守る。
しばらくして黒い球の直径が二メートルを超えると、セイティはエネルギーの注入をやめて、こんな偉業を達成してしまったと自分を称えた。
「よし、行こうか」
この黒い物質に踏み込むとどこへ行くのか、もちろん彼も考えなかったのである。ただ、セイティはどんな場所であれ、彼なら対処できる、という謎の自信に満ちた。
普段通りに歩いて”ワープ”に入る。微かに引き寄せられ続けるという奇妙な感覚がある。大したことではない。やろうと思えばブラックホールの重力だって打ち消せるのだから。
そう思いながら、どぷんと未知の地へ。
……どぷん?
と彼が思う時はもう遅い。足場が消えて水に囲まれる。ふわふわした雲はどこだ、なんてことよりも空気の確保が先だ。
ワープを作った時と同様に、詠唱や予備動作一切不要だ。ぽこぽことガラス玉のように酸素が空気になり、彼の首以上を包もうとして、空気を与える。……と思って全力で空気を吸おうとした彼は大きな間違いを犯した。
作成されたばかりの空気は水から逃げようとして、彼から離れて上へ泳いでいく。つまりセイティが吸い込んだのは空気ではなく水である。
いくら彼であっても、生物としての、そして生まれて初めて命の危機を直感した。自分から逃げた空気を追うように彼も上を目指そうと四肢を動かした――。
もはやそれも間違いだ。全力で泳ぐためか、頭が無防備に、そして力強くぶつけてしまったのだ。水圧に流されたのではない。壁のような堅いものに当たったのだ。
溺れる、死ぬ。と押し返された彼はそう思いながら、朦朧として身体を動かそうとするが、膨大なエネルギーでも強化魔法でも酸素を欠けた肉体を操ることができるはずもなく、彼は意識を手放した。
知らない土地で命を落とす。残念ながら、これが世界最強まで登り詰めた男の末路であった……。
「……人間?」
海底へ沈んでいく彼を、誰かが受け止めた。その”誰”は、人型でも四肢の先に鱗が生えたり、背中に小さな鰭が出ていると、明らかに人間とは違う外見をしている。
「このままじゃ確かに死んでしまうわ……」
魚類の特徴を持つ、外見が少女に見える者は、セイティの顔に手を翳す。すると透明な膜が彼を覆う。少女は安心した表情になって、彼を連れて行った。
何時間が経ったのか、セイティは目を開ける。涼しく滑らかな表面に横たわっていると感じ、いつものように呼吸もできる。まさか、と彼は目を覚ました。
「ついに俺も水中呼吸の魔法をできたのか! さすが俺!」
「そんなわけないでしょ。バカなの?」
声に振り返ってみる。そこに立っているのは先ほど彼を助けた少女だ。
「わたしが助けなかったら死んでたわよあなた」
「おお……。うろこ人間……」
「何よ、人を珍種みたいに。命の恩人なのよ? それにうろこ人間なんて呼ばないでくれる? わたしは」
「知ってる。あんたは人魚」
「魚人よ」
二人は同時に言った。少女は彼をまじまじと見て、彼は彼女に困惑した視線を投げる。
「いやその見た目、にんぎ……」
「魚人。あんたバカなのかしら。人間に近い見た目なのだから当然、魚人よ」
「ま、どっちでもいいけど」
「失礼ね!」
「そんなことより、ここは天国か?」
バカでも一度溺れかけても最初の目的は忘れなかった。超重力ワープというショートカットを作って、空の向こうへ行くことが目的だった。
「天国? なに言ってるの。ここはアクアマーメイドロンド、海の中よ。空ならここからでも見える。海の境界線が空なの。言っておくけど、泳いでも届かないわよ?」
少女は上を指さす。確かに部屋に天井がないように見え、水面の模様は遠くても見えるようだ。
「届かないってどういうことなんだ?」
「そのままの意味ね。この世界は今じゃ水の中だから。人間のあなたでもこの水に守られてるのよ」
どういうことだ。少女の言葉をセイティには理解できるはずもない。