閑話 イシュガルド・ラ・メイナスの予感
彼が近くまで来ている。
この絶望的とも言える非常事態の中でそれは唯一幸運ともいえるものだ。
即座にバリウスに彼を迎えに行かせ、私は騎士団の訓練場に地理に詳しい者を集め、彼の考案したという縮尺地図を地面の上に作ることにした。
「副団長、これが何の役に立つというんですか?
この地図で充分だと思うのですが」
体格のいい男達が座り込んで土いじり。
これはなかなか滑稽な光景に思えなくもない。だが、
「必要だからです。
今、バリウス団長がグラスフィート伯爵家御子息を迎えに行きましたので」
ここは彼の地元ではなく、地理に詳しくはない。
ワイバーン討伐のための罠を仕掛けるために現地に確認にも赴いていたと聞いている。それがかなう状態でない以上、できる限り詳細なほうが良いだろう。
「それとこれにどんな関係が?」
「話によると彼はこのような平面ではなく、地図を立体的に作って思考し、地形を利用して罠を仕掛け、闘うそうですので出来得る限り正確に、詳細に作成して下さい」
「あの、御子息って子供、なんですよね?」
「はい、つい先日六歳になったばかりです。
ですが、彼は我々の取り逃がした九匹のワイバーンを相手に策を張り巡らせることによって討伐した天才児です」
前回の討伐参加者の中では出回っているものの信じ難い情報に疑う者も多い。
まあそれも致し方のないことだ。
バリウスの口から実際に聞いた私でさえすぐに信じられなかった。
「あの噂は本当なのですか?」
「事実です。今や彼はグラスフィート領の平民の間で英雄扱いです。一緒に彼と闘った兵士達が領民に自慢しているそうですよ。
それはバリウス団長も確認しています」
「あそこの御子息って、偵察個体も単騎で討伐したという信じられないような噂も流れていますよね?」
「それも噂ではなく、本当です。
しかも聞いた話によると彼の使っていた魔法は全て初級程度、ナイフの一本もその時持っていなかったそうです。
つまり知恵を使って倒した、ということでしょうね。
団長の持っていた討伐時間の最短記録は大幅に縮められ、彼によって塗り替えられました。その時目撃していた貴族の方々からも裏は取れています。まだ公にはされていませんがたまたま今回こちらに向かっていたのも、その功績を陛下に認められ、報奨を受けるためです」
私が団員の問いに事実を隠すことなく伝えると中庭はざわめきで埋め尽くされた。
「とにかく急いで下さい。彼ならばこの事態を変えられる策も思いつくかもしれません。確かに無駄になるかもしれません。
ですが何もせずに頭を抱えているよりもマシなはずです」
半信半疑な団員も私の切羽詰まった声に仕方がないという様子で従い始めた。
こんなものを作っている場合ではないのではという声もちらほら聞こえたが、そこはあえて聞こえないフリをして急がせた。
バリウスがグラスフィート伯爵家御子息を連れて戻ってきたのは予想よりも早かった。
「イシュカッ、連れてきたぞ。アレは出来ているかっ」
長い通路を慌ただしく駆ける音が聞こえてすぐ、バタンッと扉が開き、バリウスが飛び込んで来た。
「はい、完成してます。できるだけ細かいほうが良いということでしたので地理に詳しい者達に手伝わせ、出来得る限りの情報は集めさせました」
私の返事に強く頷くとバリウスは抱きかかえていた彼を地面に降ろした。
すると俯いたまま、よろよろと数歩歩いたところで彼は地面にヘタリこんでしまった。
「すみませんが水を一杯頂けますか? 気分が・・・」
血の気を失くした顔を見て状況を私はすぐに理解した。
「バリウスッ、急がなければならないのはわかっていますがこれではまともに話が出来ないでしょうっ、少しは考えて行動して下さいっ」
バリウスの馬を駆けるスピードは他の団員と段違いだ。
勿論馬の良し悪しも関係あるが体格に合わせた大きな馬、それを操る技術は常人とは違う。
それに付き合わせられたのならこうなって当然だ。
私がガミガミと怒鳴りつけていると彼は俯いていた顔を上げ、私達の喧嘩を制した。
「すみません、大丈夫です。動くのは厳しいですが話を聞くことは出来ます。
椅子と水を頂けますか?
少し休めば調子も戻ると思いますのでまずは私が呼ばれた事情と解決しなければならない事態をその間に説明して下さい」
側にいた団員にすぐに持って来させると彼は私達が用意した立体地図を眺めながらちびちびと水を飲み私達の説明に頷いている。
バリウスから聞いてはいたが本当にこうしてみるとワイバーンに立ち向かっていくような子供には見えない。以前見たことのある伯爵に面立ちのよく似た、繊細で女の子にすら見えそうな中性的な容貌にすらりとした肢体、イメージとまるで違う。ひそひそと小声で話す団員も疑念の目を向けている。
彼はその視線を不快に思ったのか、チラリと視線をそちらに流したものの特に文句を申し立てるでもなく、私達に質問と状況を確認しながらスタンピードを起こしている魔獣達の種類と特徴、好物、その習性を細かく尋ね、奢ることなく、丁寧な言葉で私達に協力を要請し、策は立てるが実行するかしないかは私達に任せるといい、責任の所在を後で追求されないようにと書面を求めてきた。
それはある意味、当然の権利と主張であるがこの状況で冷静にここまで対処できるあたり、明らかに普通の子供と一線を画している。
それをバリウスが受け入れるとひどくなったざわめきに一瞬、眉を顰めただけで作成された地図の周囲を歩き始め、イビルス半島の括れ付近でピタリと歩みを止めた。
そして一気に外壁と海岸線への対策を語り始めた。
私達が手を出しあぐねていた、討伐手段とその対処法を。
開いた口が、塞がらなかった。
あれほど私達が面付きあわせ話し合っていた時間はいったいなんだったのか。
噂というものは誇大吹聴されるのが常。
だが、これは逆、過小評価され過ぎだろう?
たいしたことない?
たまたま偶然が重なって功績を上げたに過ぎないだけ?
そんなはずはないだろう?
これだけの策を事情説明を聞いている時間を含めても一刻ほどで練り上げる。
これが偶然であろうはずがない。
不信感丸出しだった各班の隊長達も最早驚きを通り越し、あっけにとられ、あんぐりと口を開いている。彼の異才ぶりを知っていたバリウスでさえ固まって指示をすぐに出せなかった。
私に資材の手配等を指示を出すと再び地図の周りを彷徨き始め、やってきた二人の部下が彼の思考を邪魔しないよう、斜め後ろに控えるとブツブツと呟き出した理解し難い彼の言葉を手早く紙に書き始め、次々と対策や、罠、仕掛けや兵の配置に至るまで纏め上げていく。
それを見れば彼が呟いていた彼の言葉の意味と真意がわかる。
バリウスが彼には補佐する人間が二人いると言っていたがこの男達のことかと悟る。
彼の口から語られた最初の対策を、更にその穴を埋め、二重、三重にと防衛ラインを構築していく。
これだけでも充分だと思われるのに、それは彼らが昼食を取った後も続いた。
足りない資材の手配、代用品や運搬方法の提案からその危機管理対応まで、彼の思考は止まることがない。ハルスウェルト様の足りない言葉をロイが補い、マルビスがまとめ上げ更に提案する。その意見を取り入れ、また彼が思考し、新たに作戦が改良され、練り上げられる。その繰り返しだ。
『自分では倒すための力が足りない。ではどうすればそれをカバーできるのか、そのカバーを可能にするためには何が必要か、その必要な状況を作り出すにはどうすればいいか、そうやって足りない物をどうすれば補えるのか自分が納得するまで考える。実際、これだけの提案をしながらアイツはまだ考えることを俺が止めるまで止めなかった』
そう言っていたバリウスの言葉を思い出す。
つまり、彼、ハルスウェルト様はまだ納得していないのだと。
彼のそんな様子に、反感や不信感を募らせていた班長達の顔には、もうそんな色は見られなかった。
その日の夕方、食事から戻ってきたバリウスに彼が口喧嘩をしていたと言っていたレスティに見張りをつけてくれと言われ、何故かと問うとその事情を説明された。
レスティがハルスウェルト様の護衛から外れていた理由を聞いて私は怒りが湧いてきた。
よりにもよって、彼を自分の護衛にしようといていたというのだ。
それを彼に看破され、口論となり苦情を申し立ててきたという。
見当違いも甚だしい。
ハルスウェルト様は護衛対象であり、しかも爵位においてもレスティより上の存在。それにも関わらず、非常事態には自分の部下の安全を優先させるから自分の身は自分で守れと言われたと腹を立てていたのだと。
護衛相手の戦力を当てにして自らの身の安全を確保しようとする。
それは最早護衛ではない、ただのお荷物だ。
バリウスが辞表を早急に提出するようにとレスティに申し付けたが明らかに逆恨みしている様子が伺えるので完全に騎士団から出て行くまで監視をつけてくれと言われ、すぐに私は手配した。
その後もハルスウェルト様は騎士団に留まり、事態が変わればそれに対しての対応を即座に模索する。
これだけの策を考えたのだから問題ないだろうとは、最後まで彼の口から出てくることはなかった。
その姿を見ていた団員達の中に、もう彼らを見下す者はいなかった。
ただ一人を除いて。
イビルス半島の噴火が収まり始めると外壁にも追突して積み上がる魔獣の死体も少なくなり、海から上陸してくる数も減った。絶望的とさえ思われていた最初の頃を思えば驚異的とも言える。
終息も見え始めた時、退団届けを出し渋っていたレスティがとうとう行動を起こし、見張らせていたガスロに捕らえられ、私のもとに連れてこられた。
「ほらっ、さっさと歩けっ」
後ろ手に縄をかけられ、引っ立てられてきた罪人に同情の余地はない。
「私は子爵だぞ、準男爵であるお前にこんな扱いを受けるいわれはないっ」
「そんなもの知ったことか、騎士団を追い出されればお前は平民。伯爵家の御子息、しかもよりによってハルスウェルト様の毒殺を企んだお前は大罪人以外の何者でもない。文句を言われる筋合いはない」
ガスロの言葉にレスティが憎悪の込められた目で睨み上げる。
こんな馬鹿が我が騎士団に居たのかと思うと情けないのを通り越し、恥ずかしくさえ思う。
「アイツはこの俺を馬鹿にしたんだ、許せるハズがないだろうっ」
その言葉に殺意すら涌いた。
「お前のどこが馬鹿ではないと? 私には馬鹿どころか後先のことも考えられない、猿にも劣る阿呆にしか見えないが?」
「男爵家の妾腹にそんな事を言われる筋合いはない。
こんな扱いが許されていいはずがないだろう、訴えてやるからなっ」
確かに私の母は男爵の妾、だがここは騎士団、実力主義の社会だ。
「どうぞ御随意に。それが赦されるのならば、ね」
それにハルスウェルト様に手をかけようとした時点でこの男の未来はすでに潰れている。
私は執務机の引き出しの鍵を開け、中から一枚の紙を取り出し、馬鹿な男の前につきつけた。
「これが目に入りますか?」
私はガスロに背中を蹴り飛ばされ、膝をついた男を冷たい視線で見下ろした。
「権力の大好きなお前ならばこれが何かわかるでしょう?
陛下の書状です。
この緊急時においてハルスウェルト様の安全を確保するため、それを脅かす存在があれば排除の許可を与えると。
ハルスウェルト様は既にこの国の重要人物なのですよ。
団長が万が一の事を考え、陛下に許可を頂いてきました。つまり、今ここで私やガスロがお前を斬り殺したところで何の問題もないんです」
貴族という生き物の中には自分の利権やプライドを守るためなら手段を選ばない者が一定数存在する。
彼らには国の危機や民の命など関係ない。
自分の身と財産さえ無事ならば気にも止めはしないのだ。
目の前の唾棄すべきこの男のように。
私は書状を突き付けたまま、敢えてにっこりと笑ってやった。
「だが、お前如きの首を切り落としたところで剣が錆びるだけ。
そんな簡単に楽にさせてやる義理は私にはないんですよ。
プライドの高いお前には屈辱こそ相応しい罰でしょう、死ぬまで流刑地で罪人として過ごすがいい。
ガスロ、牢屋に繋いでおいて下さい。バリウスに報告してきます」
私は蒼白したその男の顔を私は二度と振り返ることなく、バリウスのいる訓練場へ報告のために向った。
一週間も経つとハルスウェルト様は既に騎士団の中に溶け込み、気軽に団員達と会話を交わしていた。
体格のいい団員達に囲まれると彼の姿はすっかり隠れてしまうのだが声変り前の高い子供の声はどこにいてもわかる。
ついぼんやりと彼の方を見ているとマルビスに声をかけられた。
「ハルト様が気になりますか?」
絶えずにこにこと笑っているが腹の底は見せない侮れない男だが、ハルスウェルト様の事を語る時はまるで違う顔を見せる。
自分の事の様に自慢げに語る姿は恋する男さながらだ。
無理もない、あれだけの方であれば心酔して当然だ。
気にならないわけもない。
「ええ、あの方は不思議な御方ですね」
「全くです。私はハルト様ほど魅力的な方を見たことはありません。
あの方の魅力は頭脳や知識等、目に見えるものだけではありません。
もっとも尊敬すべきはハルト様の持つ器だと私は考えています。
あの方の前では生まれも育ちも、身分ですら関係ありません」
誰にでも分け隔てなく接するのを見ていればわかる。
ハルスウェルト様は伯爵家御子息という立場を感じさせない。
蔑みの態度さえなければ敬語など気にもしない、全ての人間を家柄や立場に関係なく等しく平等に人柄を見て判断する。だが甘いのではない、彼はあの馬鹿を赦すことなく、その理由こそ自らの口から語りはしなかったものの自分の護衛から排除した。あの後ポーションや毒消しの手配をバリウスに頼んでいたのも、おそらく奴を警戒してのことだろう。彼は部下の身の安全を図るため自らを標的にさせるよう仕向けていたことがあの馬鹿からの事情聴取で判明した。
無茶なことをするとも思わないでもなかったが、何か対策を立てていたらしい。狙いを自分一人に向けさせることにより警戒しやすくしていたようだ。おそらく、守る対象が増えればそれだけ警戒範囲が広まると計算しての行動だったのだろう。ランスとシーファという専属護衛が来てから明らかに肩の力が抜けていた。全くもって恐れ入る。
あれでまだ六歳なのだ。末恐ろしいというか、頼もしいというべきか。
どんな大人になられるのか楽しみでならない。
どういう育ち方をすればあの様になるのか実に興味深い。目が離せない。
「ハルト様の価値観は独特です。人と違うということをあの方は個性だと言います。個性があるから人は面白いのだと」
「個性、ですか?」
個性的という言葉は普通に考えるならあまり人を褒める言葉ではない。
「はい。それはその人を形作っている魅力なのだと」
つまりハルスウェルト様にとって個性的という言葉は面白い、興味深いという意味が強いようだ。
彼のまわりにはさぞかし変わり者だが有能な人物が集まってきているのだろう。
そうなるとこの一見して普通に有能に見える男もどこか変わっているのだろうか?
私の視線に気付いた様子でマルビスが話し出した。
「私は以前にも一度だけ、貴方にお会いしたことがあるのですよ。
私の姓はレナスと言います。一年ほど前のレナス商会一家惨殺事件、覚えておいでですか?」
言われて記憶が蘇ってきた。
王都のど真ん中で魔獣に食い荒らされたような状態で遺体が発見されたという大商人一家。
あの後、我が騎士団も魔獣捜索に駆り出されたが魔獣も他の犠牲者も見当たらなかったという不審な事件。それにも関わらず上から圧力がかかり、あっという間に捜査は打ち切られた。そう言えば唯一外国に買付に出ていた長男が何を逃れ、一ヶ月ほど経った頃、遺体の所在や事件の捜査結果を聞きに来て対応したのを覚えている。その名前までは覚えていなかったが、マルビス・レナス、聞けばそんな名前だったかと思い出す。
彼が王都に帰ってきた時は既に家族は火葬され、商会はヘネイギス伯爵に乗っ取られた状態だった。
早すぎる名義変更は明らかに手筈が良すぎた。疑ってくれと言わんばかりの状況であるにも関わらず、裏で手を回したのか彼の物になるはずの店はその貴族に渡り、彼は家族も、帰る場所も失った。
いわくつき。さぞかし世間は彼にとって冷たく厳しいものであっただろう。
「あの後も私はそれなりに悲惨な目にあいました。ですが大多数の者が私を忌避する理由もあの方にとってたいした問題ではないそうです。
そんなことで私を嫌う人間ならば、それは見る目がないか、私の価値をわかっていないだけだから気にする必要はないと。すごいですよね」
そう、嬉しそうにマルビスは語る。
大概の人間は巻き込まれるのを避けたがるだろうし、縁起が悪いとか呪われていると言って近づくのを嫌がるだろう。
私にはそこまで言い切れる器と度胸はない。
「あの方は英雄だとか天才だとか言われることを嫌います。
周りの人が支えてくれるからこそであって自分はそんなものではないと。
本当に個性的な御方ですよ」
それは凄いというよりも豪胆というべきだ。
肝の据わり方が半端ではない。
個性的という言葉で片付けられない度量の深さ。
だがだからこそ彼、マルビスというこの有能な男を手に入れ、彼の手腕はハルスウェルト様のもとで遺憾なく発揮されている。
「幸せそう、ですね」
私の呟きにマルビスは微笑んで応えた。
「はい、間違いなく。
私は自分がまた笑えるようになるとは思いもしませんでしたから」
羨ましいと、そう思わずにはいられなかった。
死に場所を探しているにも似た自分にはマルビスの笑顔は眩しかった。
私の過去はマルビスほど暗いものではない。
あの馬鹿の指摘通り、私は男爵家の妾腹。母は街でも評判の器量良しで通りがかりの父親に見初められ、愛人となった。父は母を愛していたし、母もそれなりに愛情を持っていた。だが父が貴族であるために正妻にはなれず、貴族の暮らしも合わなかった母は私と二人、与えられた小さな家で生活していた。生活費も支払われていたし、食べるのにも困らなかったので母に愛されて育った私は特に不満もなかった。
だが、生活が変わったのは私が八歳の時だ。父の正妻は嫁いでから五年過ぎても子供を妊むことがなく、私は跡取りとして男爵家に入ることになった。母は私と離されるのを良しとしなかったが母の両親、祖父母達は慰謝料として払われた庶民には多額の金に目が眩み、私は父に引き渡された。
最初は良かった。
父の正妻とは折り合いが悪かったが正式に跡取りとして迎えられたため対応もそれなり、だが私が引き取られて一年後、正妻が身籠り、私に腹違いの弟が出来たのだ。
それから私の扱いは目に見えて変わった。
所詮妾腹、そんな言葉をよく耳にするようになり、虐げられることこそなかったが男爵家での私の居場所はなくなっていた。もともと降って湧いた話、男爵家の跡取りの座に興味も未練もなく、私は学院卒業と同時に男爵家の家督を継ぐ資格を返上し、父親との縁を切ると家を出て騎士団の寮に入った。学院卒業前、一度だけ母と生活していた家を覗きに行ったが、器量良しだった母には新しい夫と息子、産まれたての娘がいて私の戻る場所がないのを知り、私は母に会うことなくその場を立ち去った。多少は寂しいと思わないでもなかったが幸せに暮らしている母の生活を壊すほどではない。
私は一人で生きて行こうと決め、騎士団に入った。
最初に配属されたのは騎士団の中でも特に殉職率の高いという赤の騎士団。
帰る場所も待つ者もいない私は命知らずで自ら最前線に立ち、闘った。
だが私は死神に嫌われているらしく過酷な任務の中でも生き残り続け、功績が認められ、緑の騎士団に昇進することになった。そこでも私は常に最前線に立ち、死線をくぐり抜け、そしてバリウスの目に止まるようになった。
彼は戦闘力こそ桁外れだが生活能力に欠け、放っておけば自室や執務室をゴミの山に変え、提出しなければならない書類を積み上げるような男だった。一緒に暮らしていた母もバリウスほどではないが片付けが苦手なところがあり、私がよく片付けや掃除をしていたのだ。ある日、とうとう堪忍袋の緒が切れた私が団長として模範になるべき存在がこんなことでは困ると怒鳴りつけたところ、彼に気に入られ、側近として仕え始め、それまでの功績も認められ、その頃殉職した副団長の空いた席についた。
側にいつもいる奴が畏まった態度では気が抜けないと言われたため、団員がいないところではバリウスと呼び捨てにしているが他の団員の目があるところでは名前に団長とつけるようにしている。だが感情的になるとつい、呼び捨てにしてしまうことがあるのだが、周囲は私をバリウスの秘書扱い、書類仕事から逃げ回る彼を追いかけ回し、捕まえては机の前に座らせて監視する。
緑の騎士団は私にとって居心地は悪くなかったが、執着があるでもなく、家族や恋人を持つ団員がいれば変わりに危険な任務に出かけていたので最初の頃は死にたがりと呼ばれていた。
別に死にたいと思うほど世を儚んでいるわけでも、恨みがあるわけでもない。
ただ何があっても生き続けたいという執着がないだけだ。
厳しい闘いが起こる度、殉職する団員の遺骸を前に悲しむ家族の姿を見ていると生き残っている自分に罪悪感を覚えた。
確かに私が死ねば、バリウスや他の団員は悲しんでくれるかもしれない。
だがそれだけだ。それは私でなくとも、他の団員でも同じ。
私が特別というわけではない。
仲間の死を悼み、出来るなら代わってやりたいと思ってもそれが出来るわけではない。
仲間の死に次第に慣れていく自分が怖かった。
そんな折、バリウスから聞いたグラスフィート伯爵家の三男、ハルスウェルト様の話を聞いたのだ。
たった三十人の兵士を指揮して犠牲者を出すことなく九匹のワイバーンを討伐したという彼の話に私は興味を持ち、期待した。もしかしたら彼ならばこの現状を変えてくれるかもしれない、私にこの恐怖から逃れる術を教えてくれるかもしれないと。
そして彼は私の目の前で、その可能性を示してくれたのだ。
だから私はその話がバリウスの口から伝えられた時、飛びついた。
「イシュガルド、お前はハルスウェルトの弟子になる気はあるか?」
その日の夕方、バリウスに執務室に呼出され尋ねられた。
「その件は断られたのではなかったのですか?」
確か説明するのが苦手なので講義も弟子も無理だと昨日バリウスが嘆いていたはず。
「ああ、断られた。だがアイツに一昨日聞いてみたんだよ、お前の考え方が真似できそうなヤツはいるかと、そうしたら真っ先にお前が上がった」
私の名前が?
疑問に思って首を傾げた私にその時にハルスウェルト様と交わした話の内容をかいつまんで教えてくれた。
「その理由を聞いて俺も納得した。そこで陛下とも相談したのだが最近急激に功績を上げ続けるアイツを妬んで陥れようとか始末してやろうとしている奴等の影がチラついていてな、アイツを失うのはマズイという話しになった」
「まあそうでしょうね、対魔獣に対してならあの方は千の兵にも勝ります」
他国と戦になったとしてもハルスウェルト様なら楽勝だろうと会話の中で言っていた団員に対して彼は無理だと応えた。何故かと問われると彼は人は感情や本能だけで動く生き物ではなく、意志と信念、プライドなど様々なものを背負って闘うので予測がつかないから難しいのだと言った。しかも自分は人のそういうものを読むのが苦手で考え無しに動くのでロイやマルビスによく呆れられたり叱られるのだと。
グラスフィート家の誇る天才児にも欠点があるのかと笑いをかっていたのは覚えている。
「そこでアイツに優秀な護衛を付けることにしたのだが、ならばついでにアイツの側でアイツの考え方や戦術を学ばせたらどうかと思ってな。だから正確にいうならアイツに弟子という認識はなく、名目は専属護衛、転属ではなく、出向扱いだ。
正直、お前に抜けられるのは痛い。
だが俺達の代わりはなんとかなってもアイツの代わりは今の王国にはいない。そして俺達がこれから増やさなければならないのはアイツの様な考え方を持った人間だ。だからお前にその気があるのならこれから二年、アイツが学院に入学するために王都ヘやって来るまでの間、護衛任務をしながらそれを聞き、尋ね、学ぶつもりがあるかと聞きたいのだ」
「行きます、いえ、行かせて下さい」
迷うことなどない、これは私に与えられたチャンスなのだ。
「即答だな」
当然だ、教えるのが苦手というなら側にいて、警護しながら何度でもわかるまで尋ねればいい。
ハルスウェルト様はそれを嫌がる方ではない。
聞けば何度でも教えて下さる方だ。
「彼の考え方、発想力は絶望的だと思われた今回の件でさえひっくり返します。それを学ぶ機会を与えられて受けないのは馬鹿のする事です」
「そうだな、俺もそう思うよ。
アイツが自領に戻るのは一週間後だ、それまでに準備は整えられるか」
「明日にでも大丈夫です。
足りないものならあちらで揃えればいいだけのことですから最低限のものだけ持って向かいます。残りの物は保管が無理なら処分して下さい」
もともと持っている荷物は少ない。私用であまり街に出ることもないので今までの給料も殆ど手つかずで残っている。それを使えばいいだけだ。
心踊らせている私にバリウスが付け加えて言った。
「一つだけ言っておくぞ、イシュガルド。
二年後、もしどうしてもアイツの側を離れたくないと思ったとしても、必ず一度は、アイツが学院にいる間だけでもここに戻って来い。
そして側にいたいと願うならお前の代わりになる者を仕込んでからにしろ。そいつらにお前が二年間で学んだものを全て伝えてからなら俺は止めないからな」
「どうしてそんな事を?」
これは任務でしょうと首を傾げるとバリウスは困った顔で微笑った。
「アイツは生粋の人タラシだ。
お前が骨抜きにされたとしても俺は驚かないだろうからだ」
この私が?
まさかと思いつつも絶対ないとは言い切れなかった。
彼はここに来て僅か一刻程で魔獣騎士団各班長達の見る目を変えた。
僅か十日余りの短い期間で騎士団員達に自分の存在価値を認めさせた。
緑と赤の両騎士団においては彼を尊敬する者も少なくない。
ハルスウェルト様は様々な意味において規格外、とても個性的な方なのだから。