閑話 ロイエント・ハーツの覚悟
この御方はいったいどこまで私の想像を超えていくのだろう。
私は最近驚かされてばかりだ。
リゾート施設下見の際にみせたマルビスと対等に意見を交わす姿にも驚いたが、その時みせた料理の手際にもびっくりさせられた。
でもそんなものはまだ序の口だったのだ。
王都からの魔物討伐部隊の後方支援派遣要請は想定内。
二十匹のワイバーン相手なら大部隊派遣もあり得ると予想していたので当然そうなるだろうと。しかし、ハルト様の出陣要請だけは避けられるだろうと旦那様とも考えていたのだ。
この国では十二歳以下の子供の戦争の参加は認められていない。
だがその戦争という言葉の解釈を利用してハルト様の功績を妬む者に嵌められた。
領地防衛の総指揮と責任者を押し付けられたのだ。
ステラート領地での大部隊派遣による短期決戦、その作戦自体が悪いとは私も思わない。だがハルト様の指摘されたように相手は空を飛び、制空権を持っている上に繁殖期。こちらが思うように動くとは限らず、グラスフィート領地への侵入の可能性もゼロではない。
にもかかわらず、我が領地の軍隊の大半はステラート領地の後方支援に奪われ、ハルト様に預けられた兵士はたったの三十人。万が一のことがあれば全滅さえあり得る、大人の男どころか歴戦の猛者でも逃げ出すような戦地なのにもかかわらず、ただの一度も怯まず、逃げ出そうとしなかった。
即座に自分の成すべきことを考え、行動に移し、こちらが驚くような作戦を次々と立案、周到に準備は整えていく。その統率力も、判断力、決断力、作戦立案と実行能力も明らかに並外れている。
更に私を驚かせたのは防衛部隊に向かっての当日の演説だ。
「私はみなさんに無理強いするつもりはありません。
今からでも私についていくのが不安だと思うのなら帰って頂いても責めるつもりはありません。これは私の意地であり、意志であり、覚悟です。ここで逃げ出して護るべき誰かが犠牲になったとしたら私はきっと今日の日を一生悔やみ、悪夢にうなされ、後悔する。
そんな日々を私はこの先、送りたくない。
私の後ろには私の大事な人がいる、その人達を護りたいというのは私の我儘。それに付き合う義務は貴方達にはありません。でももし私のように護りたいと思う誰かがいるのならどうか私に力を貸して下さい。
そして危険だと思えば迷わず逃げて下さい。
無理をする必要はありません。
私が護りたいと思っている人達の中に貴方達も入っていることをどうか忘れないで下さい。
全員無事で帰らなければ意味なんてないんですから」
まさか、そんな言葉が出るとは思いもしなかった。
逃げてもいいなどと、そんな事を言う指揮官の話など聞いたことはない。
退くな、前に進め、命を惜しむな。
そんな言葉なら当たり前のようによく聞く。
だが、この言葉を聞いて逃げ出す者は一人もいなかった。
当たり前だ。たった六歳の子供が大切なもののために後悔したくないから戦うのだ、自分達を犠牲にするつもりはないのだと言われ、逃げ出すような者はもとより兵士などに志願しない。まして本来護るべき対象である子供を戦地に置いて逃亡するなど恥以外の何ものでもない。
そして、ハルト様はその演説通り、九匹という数のワイバーン相手に見事有言実行を果たした。
武力ではなく、知恵と工夫、戦略によって。
町が湧くのも当然のことだ。
むしろ湧かないほうがおかしい。
たった六歳の子供の成した偉業ともいうべき功績はその日のうちに一緒に戦った兵士達によって瞬く間に広がり、知れ渡る。ハルト様は五日という短い間に圧倒的な実績を持って兵士達の心を掌握し、そして、それは我が領地の兵士達だけにとどまらず、領民へと伝播する。
翌日来訪した緑の騎士団団長にもすっかり気に入られ騎士団に勧誘されていた。
ここまでくると驚くというよりも唖然、呆然、表現する言葉も出てこない。
普通ならもっと自分の功績を誇って然るべきなのにもかかわらず、ハルト様は変わらなかった。
アルフォメア様やウィルヘル厶様を見下す王都からの遣いだという貴族を機転と皮肉を効かせて自ら矢面に立ち、言葉でやり込めて退場。まさしく痛快そのもので私は笑いを押さえきれなかった。
なんて人だ、まったく。想像もつかない。
王都からの呼び出し、登城ですらハルト様にとっては面倒事、些事でしかないというのは態度でまるわかり、栄誉も名声もまるで興味がない。むしろ邪魔だと思っているようだ。
私は何故、ハルト様に今までもっと積極的に関わろうとしなかったのかと悔やんだ。
たった六歳、私の歳の三分の一にも満たない子供。
なのに強烈な引力を持って私を惹きつける。
多彩な才能、膨大な知識と智略、規格外の魔力と驚愕の七属性持ち。
こんな事実が他領に知れ渡れば大変なことになるのは間違いない。
今でさえハルト様には噂を聞きつけた貴族達から毎日のように見合い話が持ち込まれているのだから強引に話を進めようとする輩も間違いなく出現する。
旦那様とマルビスと私は王都からの使者が帰った後、三人で話し合いの場を設けた。
「ある程度予想していたとはいえ、思っていた以上に展開が早いですね」
旦那様の書斎で最初に切り出したのはマルビスだった。
彼は優秀な男で旦那様や私以上に情報収集能力が高く、まだこの屋敷に来て間もないというのに今では欠くことのできない存在になっている。
「こういう言い方は好きではないのですがハルト様はまさしく『金のなる木』です。使い方次第で巨万の富にも成り得ます。他国にまで知れ渡ることになれば王族も交えた奪い合いになりますよ」
旦那様は大きくため息をついて頭を抱えた。
「やはり、そうなるか」
ある程度の予想はしていたし、対策も考えていた。
だが展開が早すぎる。
ハルト様の価値を理解していないのは最早当人であるハルト様のみだろう。
能ある鷹は爪を隠すとはよく言ったもので全く気が付かなかった。
いや、そうではない。
私達が気付こうとしなかっただけでハルト様の才覚の片鱗はそこかしこに存在していた。ハルト様は三男、跡継ぎ候補からも外れていたためにこのお屋敷での立場はそう高くなく、時折倒れる以外のことで私達を困らせる事もなく手の掛らない御方であったためにあまり関わろうとしなかった。
私達はそれに甘え、彼の才能にも気付くことができなかった。
時間がないのはある意味、私達の自業自得。
自ら撒いた種に他ならない。
「あの方には向けられる悪意を跳ね除ける意志と力はありますが隠されたモノには鈍感ですからね。
立場上、どうしても避けられない場合も出てくる可能性も否定できません」
あの人の強さを疑っているわけではないがグラスフィート家の爵位は伯爵、それよりも上の公爵、侯爵、辺境伯辺りの上位貴族からゴリ押しされると拒絶するのは難しい。今回の件についてもそうだ、本来十二歳前の子供であるハルト様には戦闘参加の義務はないはずだった。おそらくこれからもこういった横槍は入ってくるだろう。場合によってはその功績を妬む者にお命を狙われることすらあるかもしれない。
私の進言に旦那様は暫し考えた後、決断した。
「護衛を増やす必要があるな」
「それは勿論ですが、まずはハルト様を他領に奪われないための大義名分も必要になってくるでしょう。ハルト様がいなくなればリゾート計画も頓挫してしまいますからね」
まだ公にされていない計画ではあるがこの事業はハルト様なくして成功はありえない。
奇想天外な発想、商品開発、合理的で斬新なアイディア、ハルト様はこのリゾート開発事業において必要不可欠な存在、代わりなどいない。
「何か妙案はないものか」
旦那様と私が必死に頭を悩ませているとマルビスがあっさりと言い放つ。
「ないこともないですよ」
「あるのかっ」
「少々強引ではありますが」
もったいぶったような言い方に旦那様は次の言葉を促す。
「ハルト様をリゾート計画の責任者に据えてしまうんですよ、名実ともに」
グラスフィート家の事業となっているので今現在の時点でリゾート開発の総責任者は旦那様になっているが事実上、経理に関すること以外はほぼ責任者であるハルト様が取り仕切っている。
それを変えたとしてなんの違いがあるというのか。
すると彼は商人らしく、商売していく上での視点を利用した案を提示した。
「リゾート施設は土地から動かせないものですからね。当然その土地から責任者を強引に動かすにはそれなりの保障と金額が必要になります。しかもハルト様は商業登録を多数持っておられるので更にその金額は上乗せ、半端な貴族に払える金額ではありません。そうですね、それを払えるとしたら最低でも公爵クラス、それも財政にゆとりがあるところでないと難しいでしょう」
「それでも公爵と王族は残るのか」
財政にゆとりがあるという条件からいくと該当する貴族の数は二つ。
ハルト様の価値は金貨などには代えられないものだ。
例え多少の赤字になったとしても手に入れてしまえば湯水のように湧き出すアイディアに元などあっという間に取れてしまうだろう。
今回の討伐戦がそのいい例だ。
国とステラート領が派遣した四百という数の兵のための人件費、兵糧、怪我人や殉職者の保証、遠征費その他諸々の掛かった金額は金貨五千枚はくだらないだろう。対してハルト様の使った金額は諸経費合わせても金貨百枚ほど、ワイバーンの素材を手に入れたことを加味するならば大幅のプラス、普通ならばありえないどころか話をすれば頭がおかしくなったのではと疑われるような事態と顛末だ。
旦那様としてもハルト様を領地外に出したくないのは当然のところだろう。
だがハルト様を自領に迎えるのが出来ないと仮定して、次に他領の貴族が打って出てくる手で考えられるのは・・・
「それでも嫁入り候補の送り込みは避けられません」
あれだけ魅力的な御方が放って置かれるはずもない。
ハルト様が今の現状を受け入れている理由を考えればそれはなんとしてでも避けて差し上げたい。
「それも手がないこともないのですが。多分ハルト様は頷かないでしょう」
「あるのかっ、いいから申してみよ」
「平民を婚約者、第一婦人候補、もしく伴侶候補でも構わないのですが据えてしまうことですよ」
マルビスが提示したのはなんとも単純な、それでいて実に効果的な方法。
「なるほど、そうなるとハルトと結婚させようと思うなら空いている席は第二以降。貴族ならまず嫌がるであろうな、平民の下になるのは。上位貴族であればなおさら」
確かにそれならば他領の貴族の嫁入り、介入は避けられる。
「ですが、無理、でしょうね。後で婚約破棄すればいいと言っても納得しないと思いますよ」
ハルト様の望みとは違うものになってしまう。この国の法律は生活に責任が持てる限り重婚が許されているが、代わりに正当な理由なくして離婚も難しい。婚約ならばまだ幾分かマシではあるがそれでも賠償金と親族全員の同意のサインが必要となる。平民相手ならば貴族相手よりもその金額も低くはなるであろうがハルト様がそれを良しとされるとは思えない。
「ならば口説き落としてしまえばいい。ロイ、貴男なら出来るかもしれませんよ?」
いきなり話題を振られるとは思わなかった。
しかも口説き落とすって、私がハルト様の婚約者になるということか?
そんな無茶な、いったい幾つ年が違うと思っている、親子と言われても通るような年の差だ。
私が反論するよりも先にマルビスが先を続けた。
「ハルト様の年上好きは耳聡い貴族の間ではすでに知れ渡っています。これから送られてくる見合い相手もそれなりの歳の方も出てくるかもしれません」
「そうなると相手の都合のいいようにされる可能性もある、か」
旦那様が難しい顔で思案する。
いくら大人顔負けの知識や戦闘力を誇ろうとあの御方はまだ子供、この間の下見の際の二人乗りで私に見せた表情からもさすがに色恋にまで長けているとは思えない。年上の、強かで計算高い女性や美しくとも我儘で浪費家の女性が送り込まれてくる可能性もあるれば、自領に対して過剰な便宜を計られて我が領地の財政が破綻する可能性があることも否定出来ない。
この男が言いたいのはそういうことだろう。
「今回の登城で賜る褒美の代わりに王家の庇護を求めるという手もあるが、どちらにしろ、ハルトの婚約者の席を空けて置くのは得策ではないな」
その結論に達するのは当然の結果だ。
仮に庇護を受けられたとしても、まだ子供の作れないうちであればよいであろうが数年先、後四年もすれば既成事実を作られるか、でっち上げられれば逃げ場がなくなることも考えられる。
「望まぬ相手を押し付けられるのと好意を持った相手との婚約。どっちがマシかと問われれば考えるまでもないことかと。ハルト様がロイを意識しているのは傍目にも明らか。貴男がその座に納まればそういう輩の虫除けになると同時に常に貴男が傍に控えることでまとめて護衛が可能な分、警備の壁も厚くすることができる」
話だけ聞けば実に合理的な方法だ。
「とはいえ、これはロイ、貴男の人生にも関わってくる話、無理に押し付けるつもりはありません。
旦那様の許可さえ頂けるなら私がそのお相手に立候補しても構いません。
これから口説かせていただかないといけないのでそれなりに苦労しそうではありますが、ハルト様に本気のお相手が現れたら側室か愛人に下がればいいだけのこと。私はハルト様のお側から離れるつもりはございませんので、そこに愛人の肩書が加わったとしてもなんの不都合もありません」
計算高い、と言い捨てるにはこの男の覚悟が伝わってきて私は押し黙った。
旦那様は暫し考えた後、その提案を受け入れた。
「いいだろう、そなたの案を採用しよう。但し、条件を二つ、つけさせてもらう。
ハルトの意思を尊重すること、婚約の際には同時に離婚調停の同意書を用意することだ」
「当然のことかと」
後で揉める事になっても離婚調停の書類さえ揃っていれば婚約破棄も離婚も難しいことではない。何かあってもその書類を盾にすることも、離婚を押し進めることもできる。
離婚の際に一番大変なのは親族全員の同意とサインを集めることだ。
だが彼の親族はすでにこの世にいない。書類の用意は造作もないだろう。
「事が事なだけに公にすることはできないが、この二つの条件が満たせる者であれば他の者でも構わん」
「それは条件が飲めるのなら、ハルト様の御心を射止めさえすれば平等にチャンスが与えられる、そういう認識で構いませんか?」
「その認識で構わん。但し、この件はあくまでも内密に、だ。無論、ハルトにもだ」
決定は下されてしまった。
ここで私が反対したところで代案も用意出来ない以上、現時点でハルト様をお守りするのには最善の策であろうことも理解できる。
「リゾート計画責任者の件についてはいかがいたしますか?」
「そちらもそなたの案を採用する。
確か、成人前の代表者には保護者、もしくは代理人が必要であったな?
そちらに私の名前を入れるとしよう。書類の準備が出来次第持ってくるが良い」
「承知致しました。そうなると候補地の選定は急いだほうが宜しいかと」
「明後日からだ。その日にはロイの予定も空けておく」
「では手配はお任せ下さい。私は自分の仕事に戻らせて頂きます」
トントン拍子に決定が下され、予定が組まれた。
マルビスは退室の挨拶を済ませるとさっさと出ていってしまった。
いろいろ考えなければならないことはあるがとりあえずは私も自分の仕事を片付けなければハルト様のお側に戻ることも出来ない。マルビスがついているとはいえあの男だけでは心配だ。
いや、違うな。大変になるではあろうがあの男がついていなくても、多分私がお側にいなくてもハルト様はきっとなんとかしてしまうだろう。
ただ、私がお側にいたいだけなのだ。
私が止まっていた仕事に取り掛かろうとすると旦那様に呼び止められた。
「ロイ、お前はどうしたい?」
いきなり何を? 問われた理由と意味がわからない。
困惑している私に向かって旦那様は話を切り出した。
「これから人手が足りなくなるのは必至なので新たに二人雇い入れる話はしたと思うのだが、様子を見てからにはなるがそのうち一人はハルトにつけようと思っている。望むならこちらの仕事に戻しても構わないがその前にお前の意思を確認しておこうと思ってな」
それはハルト様のお側から離れて旦那様のもとで以前のように働く、そういうことなのだろうか。
ふいにハルト様の顔が過ぎったが、私は雇われている身、御命令とあれば従うだけだ。
「私は旦那様の仰せの通りに・・・」
「本当にそれでいいのか?」
念押しするように問われて私は押し黙った。
「お前がこの家に来て何年になる?」
「八年になります」
あの時、旦那様に助けて頂いた御恩を忘れてはいない。精一杯お仕えすることで少しでもそれに報いようとしてきたのだ。
「その間、お前は充分に働いてくれた。勿論、このまま私に仕えてくれるというなら歓迎する。だが他にやりたい事があるならば止めはしない」
「それは私はお払い箱ということですか?」
「違う。歓迎すると言ったであろう? 私としてはこのままお前がいてくれた方がありがたい。だがお前には他に仕えたい主がいるのではないか?」
旦那様の言いたいことは理解した。
私がハルト様のお側に戻りたいと思って仕事をしていることに旦那様は気づいておられるのだろう。
それは私自身も自覚はある。
だが、だからといってその言葉に甘えてあっさりとあの御方の傍に行くわけにはいかない。私は今でも旦那様を尊敬しているし、御恩を感じているのだから。
「今すぐ答えを出す必要はない。だがその答えを待ってやれるのは王都から帰る前日までの間だ、よく考えてから決めれば良い。
だが決断できぬのであればいずれお前の居場所はあの男に取って代わられるぞ? あやつはあの子の傍らにいるための手段を選んではおらんからな。負けるぞ?」
私の迷いを見て取ったのか旦那様は私に猶予を与えて下さった。
あやつというのはマルビスに間違いない。
取って代わられる?
もともと私はハルト様のお目付け役として旦那様に承った。
旦那様に命令されれば元の仕事に戻ることも理解していたし、区切りが付けばお役目御免で執事の仕事に戻るだけだと思っていたのだ。
急に与えられた選択肢に私は戸惑いを隠せなかった。
二日後、私達は残り三つの候補地のを回るために早朝出発した。
私と二人乗りはまだ緊張なされるのか、目が合うと真っ赤になって俯かれる。
こういうところはまだ年相応なのだとホッとする。
宿に着くまでの間、視察される以外は馬に乗りっぱなしであったのだが特に疲れたご様子もなく宿に到着すると最上階の四人部屋しか空いていないのを聞いた時、マルビスが計ったのかとも思ったが、流石に離れたこの土地まで小細工はできないだろう。疑いの目を向けた私に特に動揺した様子もない。
ベッドが一つ足りないくらい、たいしたことではない。
私がソファか床で休めば済む話、問題はない。
そう、この時は思っていたのだ。
ハルト様が話し合いを終えた後、ソファに向かうまでは。
「何をやってるんですか?」
私はハルト様の行動を見て頭痛がした。
「いや、明日も早いからさっさと寝ようかと」
「何故貴方がそこになるんですか?」
「だって護衛の二人にはしっかり休んで貰ったほうがいいから二人ともベッド譲ったんでしょ? それは私も納得だし、そうなるとこの中の一人がソファで寝るなら一番体の小さい私がここの方が合理的でしょ」
そうだ、そうだった。
ハルト様はこういう御方だった。
横目でマルビスを見ると腹を抱えて笑っていた。
「どういう理屈ですかっ、普通は従者がこちらです」
「ロイとマルビスじゃソファからはみ出しちゃうじゃない、まだ夜は冷えるんだからそれはダメだよ」
「貴方がここのほうがダメなんですっ、とにかく私がこちらで休みますから貴方はあちらへ」
「ロイじゃソファは小さいよ」
「大きい小さいの問題ではありません」
どうぞとばかりに一番立派な扉の前で開けて待っていると納得していない御様子でこちらに歩いてくる。
そしてそこにあったベッドを見ていい案を思いついたとばかりに振り返った。
「じゃあ、こっちのベッド大きいからロイとマルビスが二人で眠ればいいよ。私はそっちの部屋で」
「それは慎んでご辞退いたします」
すると今度はマルビスに拒否された。
まあ、当然だ。私もそれは辞退したい。
「貴方ならともかく大の大人が男同士でその気もないのに一つのベッドなんて冗談でも嫌ですよ。それくらいなら私が床で眠ります」
この男はなんてことをっ、明らかに前の言葉は余計だ。
そんな事を言えばハルト様がどうなされるかなど考えるまでもない。
ハルト様は物事を理屈ではなく合理的に考える。
自分の身分が一番上であることなど全く考慮しない。
普通に考えればそれはありえないことであったとしても自分が納得したなら受入れてしまうのだ。
「私とならいいの?」
「マルビスッ」
咎めるような私の声に涼しい顔でシカトを決め込むとハルト様に唆すように彼は言った。
「命令すれば良いのですよ。貴方は私達の主なんですから」
「だって二人とも私の奴隷じゃないよ」
「そうですね、だから本当嫌なら断ります。
まあ私は断りませんが、多分ロイも。どうしますか? ハルト様」
ハルト様が私達二人の顔を見比べる。
気分は複雑だった。
最近、ハルト様はマルビスと行動を共にすることが多く、明らかに二人の距離は近づいている。
私は選ばれないだろう。そう思って視線をそらした。
私は見たくなかったのだ。自分以外が選ばれるところを。
「・・・じゃあ、ロイでお願いします。ロイが嫌じゃなかったら、だけど」
私の予想に反して暫し逡巡した後、ハルト様が選んだのは私。
驚いて思わず勢いよく私は振り返った。
「私では駄目なので?」
ニタニタと顔を近づけて問うマルビスの顔をハルト様は平手で押しのける。
「マルビス、目が笑ってるもん。絶対からかう気満々でしょ。だからヤダ」
「そんなつもりは毛頭ありませんが」
「そのセリフ、嘘臭いよ」
ムッと唇をへの字に曲げて言い返し、手の平を退けもしないマルビスの顔を押し退けて私に視線を向けた。
「で、どうします? 貴男が断るならもう一度私が立候補しますが」
「わかりました。では御一緒させていただきます」
マルビスの襟首を掴み、ハルト様から引き剥がし、私は平静を装って答えた。
この男は油断ならない。
「まあ、今回は貴男に御譲りしますよ、ロイ」
意味深な言葉を私に残し、手をヒラヒラと振り、マルビスはもう一つの扉へと消えて行った。
部屋に二人きりになると少し緊張されているようだった、
ぎこちない動きで着替えると一人分のスペースを空けて素早く毛布の下に隠れてしまった。壁の方を向かれているのは照れ隠しか、本当にこういうところはお可愛らしいと思う。
私は着替え終わるとその隣に滑り込んだ。
ビクリと一瞬だけ、背中が動いたが後は特に反応もなく動かない。疲れたご様子も見られなかったがやはり馴れない馬での移動に気を使われたのだろうか。
私は向けられた普通の子供と変らない、小さな背中をじっと見つめた。
特に身体が大きいわけでもない、なのに時折とてつもなく大きく感じるのは気のせいではない。
ハルト様は、この背中に責任という大きな荷物を背負わされてもどうして挫けずにいられるのか、私は不思議でならない。
だからこそ見ていたいと思ってしまう。
旦那様が御指摘された通り、私はこの御方の傍にありたいと望んでしまっている。
見てみたいのだ。この人がご自分で切り開こうとしている未来を一緒に。
だけどそれが私に許されるのだろうか?
私は十年前、旦那様によって救われた。まさに、この命を。
私は特筆すべきこともない、ごく普通の家に産まれ、育った。
父も真面目で近くの商店街に勤める働き者であったし、母もそんな父を支え、昼時には市場の屋台で売り子をして家計を助けていた。二人は子供の私から見ても仲が良く、優しく美人な母は私の自慢だった。
私が学院に通うことになっても、『久しぶりにお父さんと新婚気分を満喫しながら待っているから大丈夫よ』と、そう言って私を送り出してくれたのだ。
だが、事件は私が十三歳の時、起こった。
私は学院での成績もよく、上の学校にも進むことが出来た。
母はそれを自分のことのように喜んでくれていた。
そして久しぶりに家に戻ると進級祝いにたまにはみんなで美味しいものを食べに行こうと、二人で父の職場まで迎えに行ったのだ。道すがら二人で何を食べに行こうかと相談しながら歩いていたことは今でも覚えている。そして父の職場に着く途中、目撃してしまったのだ。
父の浮気の現場を。
母は昔から情が深いといえば聞こえはいいが、嫉妬深い、ヤキモチ焼きなところがあった。
後から知ったことだが父は母を愛していたが気の多い男だった。
度々浮気を繰り返していたらしく、私の知らないところでよく喧嘩もしていたらしい。子供にそれを見せなかったのは彼らなりの愛情だったのだ。そして、この日、運悪く私達は父が母以外の女と抱き合ってキスを交わしている現場に遭遇したのだ。
幾度も繰り返される浮気に母は激昂し、近くの屋台の店主から刃物を奪い取ると父とその相手に向かって刃を振り下ろした。そして目の前で起こっている惨劇の事態がのみ込めず、震えている私に今度は刃物を振り上げてきた。だが騒ぎを聞きつけた貴族とその護衛によって私はその刃から逃れられ、恐怖で震える私を見た後、母は私を道連れにすることを諦め、その場で自分の喉を突き、息絶えた。
喉から吹き出した母の血は私の上に降り注ぎ、目の前が真っ赤に染まっていく光景は衝撃だった。
私は数日間、起こった事実を受け止めきれず、呆然として過ごした。
この時、私を助けて、一週間ほど世話をしてくれたのが旦那様だ。
生きる目的と術を失って、どうしてあの時一緒に死なせてくれなかったのかと責める私に、
『卒業したら私のところへおいで、母君と食べられなかった美味しいものを一緒に食べよう。君はまだ世界を知らない。世の中にはもっと楽しい事や嬉しいこと、悲しい事もあるんだ。それを知ってもなお君が死を望むなら私が叶えてあげるから』
と、そう約束して。
そして私は卒業を待ち、旦那様の元へと来たのだ。
死にたいと思ったのは一時の激情。
時間が経ち、落ち着いた私はもう死にたいとは思っていなかった。
正直に言えば、私は恋するのが怖い。
私には浮気者の父と、嫉妬深かった母の血が流れている。
私は今まで極力そんな感情から逃げてきた。
なのに私はハルト様から目を離すことが出来ない。
この御方の放つ強烈な引力は私が目を反らすことを許さないのだ。
私がジッとその背中を見つめているとふいにハルト様が振り返り、至近距離で視線が絡んだ。
「眠れませんか?」
私の問いにハルト様は迷ったように口を開いた。
「・・・視線が」
「ああ、申し訳ありません。つい、魅入ってしまって」
つい、不躾にも食い入るように見つめてしまった。
「ただの子供の背中だよ?」
「貴方がただの子供なら、こんなに迷わなかったでしょうね。
私を選ぶとは、思いませんでした。最近、随分とマルビスと親しげでしたから」
「やっぱり、迷惑だった?」
「いえ、光栄ですよ。本当にあなたは何人誑し込むおつもりですか?」
あの時、貴方がマルビスを選んでいたら私は眠ることなどできなかっただろう。
息をひそめ、この部屋の様子を伺いつつ朝を迎えていたに違いない。
「貴方に出逢って、話をして、関わりを持つと殆どの人間は貴方に夢中になります」
「そんなこと、ないと思うけど」
「自覚したほうがいいですよ? そのうち独り占めしたい誰かに閉じ込められるかもしれません」
特に私が、とは言わなかった。
ハルト様を独り占めしたいと思っているのは私だけじゃないはずだ。
そしてそんな人間はこれからも増えていくだろう。
「貴方は不思議な方ですね、知っていますか? マルビスがあんなふうに笑うのは貴方の前だけなんです。
マルビスだけじゃありませんよ、貴方が変えたのはもっと大勢の人間です」
「ロイも?」
勿論、とも言わなかった代わりに私は問いかける。
「どう思います?」
「わからない。けど、少しは私のこと好きになってくれると嬉しいかな。だってロイの一番は父様でしょ? 私は誰の一番でもなかったから」
その言葉に私は息をのんだ。
「父様も、母様も、みんな好きだし、愛してくれてるのもわかってるよ。でも私は三男だから優先されるのはいつも兄様達だったし、妹達が産まれてからはアリシアとエリシアに手がかかるのわかってたから仕方ないって思ってた。私は手がかからない子供でいる方が良いってわかってた。
少しだけ、ほんの少しだけだよ。本当は淋しかったんだ。
だからかな? 私は自分の大好きな、誰かの一番になりたかった」
この人が好きな人と一緒になりたいとこだわる理由。
それは私達がこの御方に甘え、与えて差し上げられなかったものそのものだ。
寂しくないわけがない。
そんなはずはないのに私達はそれに気付かないふりをしていた。
「私は時々みんなの過大評価が怖いよ。私はそんなに凄い人間じゃない。強いんじゃなくて、臆病だから私はカッコイイ男になりたいって思うんだよ。いつだって怖くてたまらなかった。体が、震えてた。一度挫けてしまったら、立ち上がれなくなるって強がって、負けるもんかって睨み返してたんだ」
ハルト様の強さの理由が、見えた気がした。
「でも、本当はみんなに嫌われるのが怖かっただけなんだと思う。
幻滅した? 私は自己満足でみんなを護りたいって思ってるんだよ、多分」
幻滅などしない、貴方を嫌いになどなるわけがない。
「強がってたけど、本当は誰かにギュッて、抱きしめられたかっただけなのかも。
よくやったって、褒めてほしかっただけなのかも。単純だよね、ホント」
私達は褒めただろうか?
ハルト様のなさる行動を嗜めるばかりでこの人の本当に欲しい言葉を差し上げていただろうか?
「私、誰かの一番になれるかなあ。大好きな人の、一番になりたい」
震える声、向けられた今にも泣き出しそうな背中。
もし、私にこの背中を抱きしめる資格があるのなら・・・
「駄目だなあ、弱音を吐くようじゃまだまだだよね。私の目指すいい男にはほど遠いかも。ごめん、今の忘れて。大丈夫、明日にはいつも通りに戻るから。もう寝よ」
もう、止めることは出来なかった。
伸ばした手はその身体を引き寄せ、思い切り抱きしめていた。
すっぽりと腕の中に納まっている小さな背中、すぐ近くに感じる自分のものではない鼓動と体温。いきなりの私の行動に硬直されているのはわかったが私は手放すことが出来なかった。
少しでもこの御方の不安を和らげて差し上げたい。
私はできる限り優しい声で語りかけた。
「貴方は本当に何もわかっていないのですね。貴方はそのままで充分魅力的なんですよ。
完璧じゃなくていいんです。欠けてる方がいいんですよ。でないと、側にいる人間は自分などいらないのではと思ってしまうでしょう?」
どうか貴方には私が必要なのだと思わせて下さい。
自惚れでも構わない、私がいなければ駄目なのだと信じさせて下さい。
私は貴方の傍にいたい、それがどんなカタチであったとしても。
「なんとなく、わかってたような気がしますよ。強気に振る舞いながらどこか怯えていて、破天荒に見せながらも周囲に気を使う。貴方はひどくアンバランスだ。何故だろうって考えていたんです」
私は貴方に伝えたい、貴方が必要なのだと。
貴方でなければ駄目なのだと。
「自分に自信がない貴方には鬱陶しいと思われるくらい伝えるのが丁度いいみたいですね。
ならば私はこれから何度でも何回でも、貴方がもういい、解ったというまで教えてさしあげますよ。
貴方は誰よりも強くて、心優しい、魅力的な人なんだと。みんなを夢中にさせる素敵な人だと」
これからは貴方が欲しい言葉は私が差し上げる。
それは嘘偽りなく本心だ。だから迷わず口に出せる。
それを貴方が望むなら。
翌日、挨拶のキスに真っ赤に染まるハルト様を見て、私は覚悟を決めた。
旦那様にハルト様のもとで働きたいと願い出ることを。
御恩はリゾート計画を必ずや成功させることでお返しすると。
そして何かを察したらしくニヤニヤとしているこの男に近いうちにライバル宣言することを。
私は誰にも負けるつもりはない。
誰にもこの居場所は渡さないと、この日、私は決めたのだ。