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閑話 テスラ・ウェイントンの決断


 グラスフィート領、俺にとってここは平和だが退屈な場所でもあった。


 平民出身ではあったものの水、土、光の三つの属性と平均より多い魔力量を持ち、頭もそんなに悪くなかった俺は親の多大なる期待を背負って学院に入学した。ここを優秀な成績で卒業し、更に上の学校に進むことが出来れば官僚や役所勤めも夢ではないからだ。

 地方の田舎出身で親父は何をやっても仕事が長続きしない、顔だけが取り柄の根っからの怠け者でそこそこ田舎美人の母親は生活費と親父の酒代を稼ぐために所謂娼館勤めをしていた。

 貧しい村では特に珍しい事でもない。

 親父はろくでもない男ではあったが暴力を振るうようなことはなかったし母は大切に育ててもくれた。明日の食事にも困るようなこともない生活はそれなりに幸せだったのだと思えたのは俺が上の学校に進学して半年も経たない時の事だった。

 

 学校は秋の収穫時期になると長期の休みに入る。

 学生寮は休みにも開放されているので遠い地方の生徒には故郷に戻らず勉強や図書館通いをしている者も少なくない。成績が良ければいい仕事先に就職ができて今までの生活を変えることもできるかもしれないとなれば当然かもしれないが、実際は子供の頃から家庭教師をつけられている貴族の子息達が優位なのは間違いない。それでもその状況に腐らず覆せる意志を持ってさえいれば平民にも不可能ではない。

 実際、上の学校に進学を許される成績上位者の三分の一は平民だ。

 俺は親父は好きではなかったが母はいつか楽をさせてやりたいと思う程度には大事だったし、もともと好奇心旺盛で勉強が嫌いではなかったので休みの日には図書館に入り浸り、本を読み漁っては成績を上位に保ち続けた。いい仕事に就ければ母も娼館等で働かずに済む、親父は知ったことではないが王都で就職できたなら母をこちらに呼び、二人で慎ましやかに暮らすことくらいはできるだろうと。


 無事に上の学校に進学が決まったのは新学期が始まる少し前、地元に帰るほどの時間的余裕はなかったので春に帰省できなかった俺は一年と半年ぶりに実家に戻ることにした。

 今までも村までの馬車代は安くはなかったが一年に一度くらいは母の顔を見るために家に戻っていたのだ。俺の顔を見るだけで母は喜んでくれたし、親父に隠れて貯めた金を生活費にと、それなりの金額を渡してくれていた。大丈夫だと断っても余分にあっても親父の酒代に消えるだけだからと。

 その金に助けられていたのは事実だったが、次第に痩せ細っていく母の姿を見ると切なかった。


 だが村に戻り、そんな他愛もない日々がすでに終わりを告げていた事をその日、知った。

 住んでいた家はもぬけの殻、綺麗に片付けられていたが埃が被り、生活の気配はない。

 理由がわからなくて母の勤めていた娼館に行くとその事情を聞かされた。

 強盗に襲われ、二人は半年前に亡くなっていたのだ。

 発見された時は親父は母を庇うように覆い被さり、母は虫の息だったという。

 連絡を寄越さなかったのは母の遺言で俺が勉強に打ち込めるようにという配慮だった。そして娼館の主から差し出されたのは渡すように頼まれたという母の最期の給料と貯金。家に置いて置くと親父がすぐに酒に変えてしまうので俺が就職する時に困らないようにと預けていたとのことだった。

 それを聞いた時、不思議と涙は出てこなかった。

 ただ、ぽっかりと胸に大きな穴が空いたような感覚はあり、フラフラと生まれ育った家に戻った。

 ここはもう俺の家ではない。

 借りていた土地だ、次の住人がまだいないのは強盗に襲われて命を落とした夫婦が住んでいたという縁起が悪い物件だからにすぎないだろう。ろくでもない親父ではあったが最期に母を庇って死んだということは、多分、親父なりに母を愛していたのだ。

 結局、母を守り切ることはできなかったけれど。

 空っぽの家をただ眺めているとそこかしこに思い出だけが残っている事に気づく。

 俺の頭の中に残る記憶だ。

 ひとつ、またひとつと思い出すたびにさっきまで出てこなかった涙が溢れ出した。

 涙は出なかったのではない、凍りついていたのだとその時気づいた。

 ひとしきり泣いたあと、二人の墓に花を添えると俺はそのまま学校の寮に戻ることを決め、娼館の主に挨拶すると一晩くらい村に泊まって行ったらどうだという言葉に首を横に振り、ここにはもう俺のいる場所はないからと応えた。


 戻る場所をなくした俺は学校を卒業すると試験をいくつか受け、なんとか商業ギルドに就職した。

 配属先によっては移動もあるということだったが帰る家のない俺にはどうでもいいことだ。暫く王都で仕事を覚えた後、グラスフィート領への勤務を命じられても特に拒む理由もなく、二つ返事で引き受けた。 

 穏やかで自然豊かなそこで、のんびり仕事をしながら暮らすのも悪くない。

 実際、商業ギルドでの仕事は俺に向いているかもしれないとも思った。

 毎日仕事に出掛け、朝は近くのパン屋で買って食いながら出勤し、昼は近くの屋台で昼食をとって夜は酒場で一杯引っ掛けながら夕食を食べる。

 稼いだ金のほとんどが家賃と食費に消えるような生活をしていたが養う家族も恋人もいない俺には困るようなこともない。恋愛というものに興味もなかったので多分俺は一生こんなふうに過ごしていくのだろうと思っていた。

 好奇心旺盛の知りたがり、新しいものには目がない俺は商業登録という仕事が気に入っていたし、新しく考え出された技術や商品などを逸早く見られるその職場は時に俺をワクワクさせてくれたからだ。

 俺は新しいものを見るのが好きだったが新しいものを作る才能には恵まれてはいなかった。

 想像力と技術、努力がものをいうそれは発想力に乏しく、飽きっぽい俺には厳しい。

 新しいものを産み出す力はひとつ発明、発見されるだけで大きく生活を変化させたりすることも、場合によっては莫大な富を得ることができる。

 簡単なものではないのだ。

 ひらめきという幸運は土台なしにはありえないことがほとんどだ。

 知識のない者や考えることを放棄した者には訪れないものだと俺は思うのだ。

 と、そう思っていたのだ。

 つい、三週間ほど前までは。

 

 始まりはマルビス・レナスという男が持ち込んだ、ブランコという子供向けに作られた遊具だった。

 彼はこの町でもそれなりに知られた男だった。

 特に仕事をする様子もなく、市場に、屋台に、酒場にふらりと現れては世間話をして帰っていく。いったい何をして生活しているのだと不思議がる者もいたが商業ギルドに勤めていた俺は彼の素性をよく知っていた。王都でも有名な話だったし、ギルドで父親と連れ立っている姿を何度も見ていたからだ。

 恵まれた環境に産まれた大店の息子。

 だが一年前の事件で彼はその手に持っていたほとんど全てのものを失った。

 彼が国外に買付に出ていた間に、彼の家族全てが王都のど真ん中で魔獣に襲われ死んだのだ。

 不思議というより不可解極まりない事件。

 なのにその調査と追求はあっけないほど簡単に終わり、彼らが経営していた店は彼の留守中にあっという間に有力貴族の名義に変更され、彼は俺と同じく一気に家族と帰る家を失ったのだ。彼は外国から戻るとすぐにその経緯と事実関係を調査していたようだったが数日もするとまるで姿を消すように王都から姿が消えた。

 そんな彼は暫くすると俺の勤めていたグラスフィート領の町にふらりと現れた。

 何かを探すように、求めるように色々な場所で見かける彼。

 俺も時々屋台や酒場で顔を合わせ、多少の会話を交わすことはあったがあくまでもそれだけ、似たような過去を持つ彼に多少思うところはあったが俺の過去を話したことはないので知らないはずだがお互い、家族が他にいないことくらいは会話の中で知っていただろう。

 明るく陽気に振る舞っているが楽しそうな笑顔は見たことがない。

 時折、暗く、思い詰めたような焦燥感に満ちた目で遠くを見ていた彼は二週間ほど前に劇的という表現がまさに相応しいほど変貌したのだ。


 朝早くから貴族の子供向けに作られたそれを抱え、ギルドに飛び込むように駆け込んできたマルビスを目にした瞬間、俺は思わず目をまるくした。

 まるで別人だった。

 目を輝かせ、商業登録用紙を催促するとマルビスはペンと定規を取り出し、提出書類を記入するために備え付けられたそこで書き始めた。ペンを走らせる音が部屋に響き、夢中でそれを書き終えると俺にその実物を持って図を交え説明し、俺が頷くと登録申請料金を支払い、再びバタバタと足音をさせて帰っていった。呆然と彼を見送ってから再び書類に目を落とすとそこには二人の名前が書かれていた。

 代理人、マルビス・レナス。申請者、ハルスウェルト・ラ・グラスフィート。

 他人に興味のない俺でも知っている名前、グラスフィートの文字。

 領主一族を示すそれは、この後、何十回と目にすることになった。

 翌日、そのまた翌日と、マルビスは毎日のように申請書を持って現れるのだ。

 それも一通、二通といった数ではなく、時には数十件という束を抱えて。

 覚えがある限りではこんなに大量の申請書が同じ人物から持ち込まれたことはない。

 当たり前だ、新しいものはそんなに簡単に生み出せないからこそ価値がある。

 だというのにこんな驚くのを通り越し、呆れるような数を持ち込まれては有り難みも薄れてくる。同じ系統の、例えば鍛冶職人が何かを新しい物を作り、それに関係、付随するものを一気に申請登録するといったようなことならば納得もできる。だが数の桁が違うだけならまだしも、驚愕すべきはまるで分野の違うものが次々と持ち込まれている点だ。

 前代未聞だ、用意した申請用紙が空になり、急いで大量発注をかける事態など聞いたことがない。

 代理人の名前はマルビスの他にもロイエント・ハーツという最近商業ギルドに登録されたばかりの男の名前もあったが申請者には決まってハルスウェルト・ラ・グラスフィートの文字。

 いったいどうなっているのだと思い、いつも書類を提出し終わると駆け出すように出ていくマルビスが珍しく足を止めた時に思い切って尋ねると彼の口から出てくるのはハルスウェルトという新しく彼の主になったというその人物の話ばかり。ハルスウェルト様がどうした、ハルスウェルト様がこうしたと、まるで恋する少年のように目を輝かせ、惚気でも語るように次から次へと讃える言葉が飛び出すのだ。

 そして入荷したばかりの申請書をあるだけ全部買い上げると急ぎ足で、というより、まるでスキップでもしそうな足取りで駆け出して行った。

 俺はそれを見送ると、再び空になった申請書を発注するためにギルドの階段を降りていった。

 今度は三倍の量の発注をしようと思いながら。

 

 その翌々日、マルビスはまたこの商業登録受付までなにやら荷物を抱え込んで姿を現した。

 二日間、主と遠出をすると言っていたのでこの来訪に驚くことはなかった。

 ほぼ日参という言葉が相応しい頻度でここに現れていたのでおそらく今日あたり何か新しい商品の登録にくるだろうと予想はついていた。

 つい最近まで至極暇な部所だったはずのここは現在の担当者は俺一人だが王都を超える申請数にさすがのギルドも重い腰を上げ、新しい担当者が今度やってきて二人体制になることになっている。

 片付けても片付けても終わらない仕事に好奇心が人一倍と自覚のある俺も悲鳴をあげたのだ。

 書類というものは受け取るだけが仕事ではない。

 当然のことながらそれに付随する処理や手続きが発生する。

「お前の上司の頭の中はいったいどうなっているんだ、こんな商業登録が立て続けに持ち込まれるなんて異常だぞ」

 そんなふうに洩らした嫌味もニコニコと笑顔でマルビスに流される。

「次はいったい何を持ち込んできやがった、食いもんか、道具か、それとも他のモンか」

「染め物技術です」

 一瞬、テンポ良く交わされていた会話が途切れた。

 当然だ。今まで様々なものが登録に持ち込まれていたが全て商品、技術に関係しているものはなかった。

 グラスフィート領はのんびりとした田舎で目立った特産品や工芸品はない。

 特筆すべき特徴がないのだけが残念な地域だったのだ。

 だがもし、そこに新しい産業、技術が誕生すれば一気に変わる可能性がある。

 何もないということは、逆説的にいうならどんな色にも染まりやすいという事だ。

 マルビスが無言でカウンターの上に布袋を置いたそれをひったくるようにむしり取る。

 出てきたのは茶色一色に染められた絞り染め。

 複雑な染ムラが規則的に並んでいるそれを俺は食い入るようにして一枚一枚丁寧に目を通す。

「これは試作段階のものでして昨日複数の染料を使い、染められたものがコチラです」

 再びカウンターの上に置かれたそれを今度は丁寧に取り出した。


 見たことがなかった。

 いや、正確にいうなら絞り染めという技術自体は存在している。

 だがそれはもっと単純な、こんな花にも似た、幾何学模様をしていない。

「如何でしょう? ここまで複雑な模様を描く絞り染めは登録されていないと思うのですが」

 自信満々でマルビスはその中の一枚を手に微笑む。

「これは絞り染めなのか? 手描きではなくて?」

「今までの絞り染めとはまた少し違うのですが」

「それはそうだろう、ここまで複雑なものは見たことがない」 

「貴方がそう言うなら問題無く商業登録は通りそうですね。受付、お願い致します」

 スッと俺に向かって差し出されたその書類を受け取り、視線を走らせ、詳細を確認すると、そこに書かれたこの技術の命名と申請者の名前。

「スウェルト染め・・・って、またお前の上司の発案か?」

「はい、本当に素晴らしい発想をお持ちの方で」

 それで済む問題なのか? 

 百歩譲って商品ならばまだわからなくもない。

 尋常ではない数ではあるが複数の開発者がいて代表者の名前が申請者になることも有り得るからだ。貴族ならお抱えの職人や料理人が複数いたとしても不自然ではない。

 だが技術となると話は変わってくる。

「頭がおかしいの間違いなんじゃないのか? 

 今まで一度にいくつか持ち込む奴はいたが系統はだいたい統一されていた。

 なのにお前んとこの上司は食いモンから家庭道具、子供の遊具、その他多岐に渡る。

 その上今度は染色技術だと? 

 こんなポンポンポンポンと思いつくなんて頭がイカレてるか変人かのどちらかだぞ。

 いったいどんな奴なんだ、見てみたいぞ」

 信じられないとばかりにぼやくとマルビスは右手をスッと左下に差し出した。

「こちらにおられますが?」


 へっ? 今、コイツ、なんて言った?

 俺はピキンッと音がしそうなほどの勢いで表情が固まり、油の切れた機械のようにぎこちない動きで首を下に向けた。

 カウンターの向こうに見えたのはひょっこりと覗いた子供の頭。

 身長はほぼ俺の半分、まるで目に入っていなかったその人物は一歩足をひくと、貴族に相応しく、優雅に礼をしてみせた。

「ハルスウェルト・ラ・グラスフィート様、私の上司になります」

「初めまして、一応マルビスの上司で貴方がいうところの頭のイカレた変人にあたるハルスウェルトです。どうぞハルトとお呼び下さい。以後、お見知りおきを」

 マルビスに紹介されて軽い皮肉混じりに自己紹介した彼の名前、いや、名前は散々提出された書類に書かれていたので知っている。俺が驚いたのは、その愛称のほうだ。

「ハルト? ・・・ハルトって最近何処かで聞いた覚えが・・・」

「それはそうでしょうね、ここに籠もりきりで殆ど外に出ることのない貴方でも流石に名前くらいは御存知のようで安心しました」

 人の悪い笑みを浮かべてるマルビスが目に映った。

 ハルト、そうだ、ハルトという名前。この一週間、町のあらゆるところで耳にしていた。

 王都の騎士団と隣の領地の騎士団、総勢四百名近い兵士がとり逃した、ニ十匹中、九匹という半数近い数のワイバーンをたった三十人の兵士を率いて倒したという領主家の三男坊。

 俺の顔から血の気が引いた。

「・・・グラスフィート領の英雄って」

 そう、確か呼ばれていたはずだ。

 彼がいなければこの町は地図から消えていたかもしれないと。

「まあそうですね、そういう呼び声もあるようですが御本人は恥ずかしがって謙遜しておられるようなのでその呼び方は控えて頂いたほうがよろしいかと」

 まるで自分のことのように胸を張って自慢げにマルビスが言う。

 まだお小さいのに、と、町人達は言っていた。

 だがこんなに小さな子供だとは思いもしなかった。

 この時ばかりはさすがに俺はもっと他人の話を聞くべきだったと猛烈に後悔し、とりもあえず高速で頭を下げた。頭がカウンターの上に衝突して、ゴンッと大きな音がしたが痛みなど感じている暇はなかった。

「スミマセンッ、これは大変な失礼を、申し訳ありませんっ」

 いや、頭を下げるだけじゃどう考えても足りないだろう。

 俺は即座にその場所で床に座り、伏せて謝罪した。

 マズイマズイマズイ、貴族の、しかも英雄とまで呼ばれている御方になんてことを。

 俺の顔色は最早真っ青を通り越し、真っ白になっているに違いない。

 慌てふためく俺の頭上からクスクスという小さな笑い声がきこえた。

「大丈夫ですよ、気にしてませんから」

 そんな言葉じゃ普通済まされないだろう?

「私は少しは気にした方がいいと思うのですが」

「ガラじゃないよ、私は怖がられたり畏まられるより気軽に話しかけてくれるほうが嬉しいもの。そういうわけなので顔を上げて下さい。私が変わっているのは間違いないでしょうし」

「普通はそう言われると怒るものなんですけどね」

「だって個性的ってことでしょう? 普通なのは構わないけど平凡は褒め言葉じゃないよね。だったら私は頭のイカレた変人でいいよ」

 いったいどういう理屈だと思いつつも怒りを買わなかったことにほっとする。

「・・・だそうなので、顔を上げても大丈夫ですよ。こういう御方なので。

 他の貴族の方なら名誉毀損で訴えられるか無礼打ちされても文句言えませんよ」

 マルビスのいうことは尤もだ。

 どうやらこのハルスウェルトという子供は相当変わっているようだ。


 悪口と思われても仕方ない軽口を皮肉一つでさらりと流し、許容する。

 まるで俺より年上みたいな言葉と態度、度量の深さ。

 こんな貴族、というより、こんな人間(ひと)もいるのかと驚いた。

 のっそりと立ち上がると改めてマルビスに紹介される。

 軽く会話を交わしていると彼、ハルスウェルト様の言葉に嘘偽りがないこともわかってくる。マルビスが自慢げに語っていた理由もわかってきた。

 これは間違いなく『人たらし』と呼ばれる種類の人間だ。

 珍しく一通しかない申請書にこれだけかとマルビスに問うと彼は頷いた。

「ええ、申請はそれだけなのですが、ひとつお願いしたいことがありまして」

「なんだ?」

「ハルスウェルト様の商業登録一覧をお願いしたいのですが」

 一覧っていうとこの三週間ほどのもの全部か。

 通常ならば半刻もあれば出すことの出来る書類だが、彼の場合は数の桁が違う。提出数だけなら百以上、却下されたものや審議がかかり保留になっているものもある。現在通っているものは約半数、今日にも追加でいくつか認可が降りるだろうし、保留になっているものも最低半分は登録されるのではないかと俺は予想している。

 これだけ大量の商業登録を持っている人間はこの国にはいない。

「今日の分は入れなくてもいいのか?」

「入れると特急でどのくらいかかりますか?」

 俺はトントンと、カウンターを指で鳴らしながら少し考えてから答えた。

「明々後日、だな。今までの分だけなら夕方には出せる」

「明日の朝には間に合いませんね」

 う〜ん、とマルビスが唸った。

「何か理由があるのか?」

「ええ、実は明日王都に向かうのですがハルト様が登城なさるのでその時に旦那様に持っていって頂こうかと思っているのですが、流石に無理がありますよね」

 なるほど、この布を王族に献上する前に出来れば登録を済ませておきたいということか。

 新しいものだと薦めても確かに登録が済んでいるのといないのとでは印象が違う。俺は無精髭を撫でながら思案を巡らせ、暫くの間考え込むと一つの手段を思いつき、顔を上げた。

「手がないこともないぞ」

 その言葉にため息をついて下を向いていたマルビスが弾かれたように顔を上げる。 

「ここでは最速で明々後日だが、王都でなら明後日だ。但し、三倍の特急料金はかかるがな」

 地方で提出された書類は一度王都に集約され、正式に承認され、戻されている。

 つまり逆は無理でも王都にこれから向かうのなら可能なのだ。こちらに戻される前に向こうで止めてしまえばいい。商業ギルドの身分登録証明書は国内共通だ。 

「ここで二枚、今までのものと今回提出分を入れたものを作成する。

 サインと承認の印を押せるのは今までの分だけだが今回の分を入れたものは認証が通れば王都のギルドで確認してサインと印を貰えば問題ないはずだ。勿論、リスクがないわけではない。この染め物技術の登録が通らなければ二通分の特急料金はドブに捨てることになる。

 俺は通るだろうとはふんでいるがこればかりは運もあるからな、絶対ではない」

「ここで二通分、王都で一通分の特急料金というわけですか」

「ああそうだ。で、どうする?」

「それでお願いします」

 マルビスは一瞬も躊躇わなかった。

「わかった、手配しておく。依頼書三通分の特急申請用紙だ」

 そう言ってカウンターの下から三枚の紙を取り出し、マルビスに渡した。

 すぐにペンを取り出して書類を彼が書き始めるとハルスウェルト様はカウンターからひょっこりと顔を出して、俺に商業登録について尋ねてきた。

 マルビスに聞いていないのかと尋ねると説明だけではわかりにくいこともあって理解しにくいから要領書とか判例集みたいなものはないのかと聞かれたのでギルドで発行されている本を差し出した。

 本は庶民にとっては高額だ。

 ほとんどは仕事をしながら覚えるのが常識で買う奴は滅多にいない。

 ハルスウェルト様は差し出したそれを受け取り、パラパラと中身を確認するように流し読むと即座に買うと決断し、財布代わりの袋を懐から取り出すと金貨を五枚、差し出した。

 以前、マルビスから聞いた話では彼は無駄遣いをするような人物ではなかったはず。不思議に思って聞いてみると子供とは思えないしっかりとした答えが返ってきた。

「これから新しい商売しようと思うなら詳しく知っておいて損はないでしょう? 

 私が思ってたより随分登録範囲が広いみたいだし。後で使用料や追徴金がかかってくると赤字にならないとも限らない。そしたら金貨五枚なんてあっという間だよ」

 確かにその通りだ。

 そういう料金はナメてかかると痛い目をみるものだ。

 安いと感じていた使用料も数が嵩めば何倍にも膨れ上がる。

 商品というものは一つ売ってそれで終わりというものではない。

「コイツが側にいるならコイツを使えばいいと思うのですが」

 そう言って俺は申請用紙に記入しているマルビスを指差した。

 彼はこういったことに詳しい、聞いてしまうのが一番楽だし簡単だ。

 だけどハルスウェルト様は大きく首を横に振った。


「マルビスは信用してるし頼りにもしてるよ。

 でも私は彼におんぶに抱っこしてもらいたいわけじゃない。

 組織のトップである以上最後に責任を取るべきは私でしょう?

 知りませんでした、わかりませんでしたは許されないことも多い。

 私は責任を部下に押し付けるような上司にだけは絶対になりたくない。

 私はまだ子供で守られる立場であることが多いし、出来ないことも多いけど私が守れるものもあると思うから、対等は無理でも負担にはなりたくない」


 なんて潔いのよい、理想の上司とも呼べるような信念を持っている御方なのか。

 これをこの歳の子供が言うのか、俺は笑いが込み上げてきて思わず爆笑した。 

 いったい何人の大人がこの子供と同じことを胸を張って言えるだろう。

 まして彼は貴族だ。

 本来、庶民に全て責任を押し付けて逃げたとしてもある程度見逃される立場だ。

 なのにこの御方はそんな人間にはなりたくないと断言する。

 ワイバーンの群れから領民を守るという偉業をしておいて、守られる立場であることが多いと言い、それでもなお自分が守れるものがあれば対等であるために守りたいと言うのか。

 すでに貴方は守っているではないか、この町に住む、何千という民を。

 そして呼ばれているではないか、この町を守った『英雄』と。


「なるほど、コイツが惚れ込む理由がわかりましたよ」


 これは納得せざるを得ないではないか。

 惚れこまずにはいられない、なんという引力。

 しかも彼はその自分の魅力を欠片も理解していないのだ。

「人手、足りてないんですよね? 俺を部下に雇う気はありますか?」

 ズルイだろ、マルビス。

 この人を独り占めするのは許されていいはずないだろう?

 俺の申し出にハルスウェルト様は少し迷ったような顔をするとマルビスを見上げた。

「私としては優秀な部下は一人でも欲しいところですがこれからも申請を出すのに彼がここに居てくれた方がありがたい部分もあるんですよね」

「逆だな、俺がいれば申請が必要なものかどうかすぐにわかる。

 申請を出すにしても書類を上に回しやすく仕上げて提出すれば処理も早くなる。まあよっぽど出来の悪い奴がくれば別だがそれはないだろう」

 確かに俺の仕事は速いかもしれないが俺が部下になることの利点をここは推しておくべきだ。

「どうして?」

「ここのところのグラスフィート領からの申請の量が半端ないからだ。

 下手な奴を寄越せばパンクするのが目に見えてる。

 普通王都でも商業登録されるのは日にニ、三件程度だ。

 それを三人の人間が処理している。

 グラスフィート領ではこのニ週間ほどの間に百件近い申請が持ち込まれた」

「凄いね」

 まるで他人事のように言うんですね。

「凄いって、申請者は貴方ですよ。

 代理人はコイツかロイエント・ハーツって男になってましたが」

 突っ込まれて思い当たり、あっ、とハルスウェルト様は声を洩らした。

「だって、私じゃどれが申請対象かわからなかったから。

 マルビスがロイと二人で私の部屋で使ってたものをチェックして説明させられたり、図解させられたりはしたけど、私、説明下手だし」

「ハルト様はそれが新しい商品として売り出せるものだと自覚なく作ったり、使ったりしていたのですよ。ただこうしたほうが便利だからとか、自分が食べてみたかったからとかそういう単純な理由で」

 つまりはここ最近持ち込まれていた大量の申請は既に出来上がっていて、以前からハルスウェルト様が使われていた物等で、それと知らなかったために今までそのままで放って置かれ、マルビスが目にすることでその価値が見出され、届出された、と、そういうことか。

 なるほど、一気に大量に出てきたのはそういう理由もあったのか。 

「そうなると申請ラッシュはそろそろ止まるのか?」

「いえ、明日から十日ほど王都に参りますのでその間は止まりますが、試作段階に出されているものが何点かありますし、まだ屋敷の中に申請した方がいいものがある可能性も否定出来ない。それにこの方はいきなり何か閃いて走り出すこともあれば、帰宅するとこのような物を作っていることもあるので」

 そう言ってマルビスが視線向けたのは今日持ち込んだ布の山。

「そんなにおかしな物を作っているつもりはないんだけど」

 ハルスウェルト様に自覚はない。

「と、いうことなんです」

 肩を竦めて言うマルビスに俺は再び笑いがこみ上げてきてゲラゲラと笑いだした。

 何年ぶりだろう、こんなに思い切り笑うのは。

「こりゃあマルビスの苦労もわかるな。で、どうなんだ? 俺を雇う気はあるのか?」

「その胡散臭い格好をなんとかしてくれるなら私としては是非欲しい人材ではありますが」

 確かにこの格好は貴族に仕える人間のする格好ではないかと自分の姿を省みる。

 今まで自分の外見など気にしたことはなかった。

 そんな金のゆとりはなかったし、働き始めてからも洗濯はしていたが破れている訳でもないので必要とも思わなかったからだ。

「マルビスが決めていいよ。どちらにしろ人手は増やすつもりだったし、私じゃ必要な人材はわからない。マルビスもロイも働き過ぎだからね、二人が少しでも休めるようになるのならそれに越したことはないもの」

「もっと働けとは言わないんですか?」

 普通、貴族は俺達の都合や休日など考慮しない。

 勿論そうでない人間もいるが、自分達を上の存在だと認識している彼らは使い捨てて当然としていることが多いからだ。だがこの御方は違うらしい。

「なんで? 休息は大事だよ? 優秀な人材は大事にしなきゃ。

 マルビスやロイの代わりはいないんだから」

 何を当たり前のことをと断言した彼に俺は決断する。

「是非とも俺も加えて下さい、格好は貴方の下に入るまでにはなんとかしますよ。

 ようは伯爵家に出入りしても問題ない程度に体裁を整えればいいんですよね」

「本人に変える気があるならそちらは私がなんとかします」

 俺はどうやら彼の元で働けることが確定したようだ。

 ならばせめて彼に恥をかかせない程度の体裁は必要だ。もっともそんな小さいことを気にするような御方にはみえないが周囲は違う。

 この方はいくら貴族らしくないとはいえ間違いなく貴族なのだから。

「じゃあ決まりだ、よろしくテスラ」

 俺に向かって手を差し出された小さな手をしっかりと握り返すと彼らから提出された書類をさっさと仕上げ、今日にも退職願いを提出せねばと頭の中で考えていた。


 産まれてこのかた、俺は自分を幸運だと思ったことはない。

 だが誰かが言っていた、人生はプラスマイナスゼロ、どこかで帳尻が合うようになっているのだと。

 この言葉を聞いた時、そんなことはない。

 ツイてない奴は何処ヘいってもツイてない。

 生まれ持ったものを変えることは容易くなく、ついてまわる不幸を振り払うのは難しいと。

 しかし、俺の人生はこの子供(かた)に出逢うことでプラスに転じるのかもしれない。


 ハルスウェルト様には本気で俺にそう思わせてくれるだけのものが確かにあった。



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