第八十三話 そこにいてくれることに意味があるんです。
そうと決めれば早速準備だ。
私は不謹慎にも少々ワクワクした気分で身を乗り出した。
「縄梯子、無理ならロープを用意して。後は板、動物の皮と紐、それから釘を」
「その程度なら検問所にも置いてあるかと思いますが?」
意気込んでイシュカに頼んだ私は思わずコケそうになった。
簡単に揃うのはありがたいことだが馬を急いで走らせねばと考えていただけに出鼻をくじかれた気分だ。
「あそこなら通る荷馬車などが故障した時や取り調べのために馬車や荷箱などを壊すことなどもありますからすぐに修理や応急処置ができるような物が常に置いてあります。有料の物も多いですけど」
なるほど理由を聞けば納得である。
荷物検査した時などに板を剥がしたり、縛られているロープを切ったりすればそれを直さなければ荷車や馬車を動かせない場合もあるわけで、当然と言えば当然だ。
だがまあそれならば話も早い。
私はイシュカに思いついた手段を語り出した。
それは運河に流れ込む排水路や排水溝を使っての侵入方法だ。
別荘、宿泊施設その他には湧き出る温泉を利用した床暖房設備がある。
温水が流れているということは当然だがそれを排水する排水管その他の下水道施設もあるわけで、だがこれらにも勿論侵入防止のための頑丈で立派な鉄格子が嵌め込まれている。
しかしながらそれが張られていない場所もある。
それは侵入困難な場所であるためだ。
別荘の温泉と床暖房に使われている排水溝は防犯対策のために他と比べるとかなり細いのだ。そこにそれなりに熱いお湯が勢いよく流れている上に、排水するための傾斜がついているそこは湯の花などでかなり滑りやすくなっている。普通に考えれば通れない。
そこで使用するのが初級の水属性魔法と件の道具だ。
薄めの板に革を乗せて釘を打ち、簡易スパイクを作ってそれを両手両膝両足につけ、ここを這って進もうというわけだ。別荘は塀から遠く離れてはいない、おそらく距離としては五十メートルもないはずだ。
不可能ではない。充分イケるはずだ。
「危険ですっ、その役目は私がやります。私も水属性持ちですっ」
まあなんとなくイシュカはそう言うだろうなとは思ったよ?
でも肝心なことを忘れてる。
私じゃなきゃ駄目な理由がそこにあるのだ。
「イシュカじゃあの狭い水路は通れないよ? そこから侵入されないようにって、そういう設計にしたんだから。それに水を凍らせながら進むなら即座に詠唱破棄で発動出来なきゃ水で押し戻されるし、流れる水を凍らせれば尚更通れるスペースは狭くなる。しかも流れてくるお湯で随時氷は溶けるんだ。
どう考えてもイシュカじゃ無理だよ。仮に向こうに行けたとしてもその後に二百の軍勢と戦闘になるかもしれないことを考えればイシュカは魔力を温存しておくべきだよ」
「ならばやはりビスク達が用意してくれた通路を使いましょう」
「それはダメ」
その提案を私は即座に却下した。
安易にそれを使うのは明らかにマズイと思うのだ。
それがわかっているからこそイシュカだって話をみんなに聞かれないようにこの場所まで引っ張ってきたんでしょう?
「イシュカも言ったじゃない。あそこには今、大勢の人がいる。
それを使えばあそこにいるみんなにそれが知られることになる。
多くの人に知られれば秘密はいつか漏れる。誰かがうっかり口を滑らせたり、魔がさしてあそこへの侵入経路として利用されることが出てくるかもしれない。
この先のことを考えればそこは万が一の手段として残しておくべきだよ。
他に方法がないならそれ一択だけど他に使える路がある。
そんなものを用意してあるのだということが知られれば他も疑われる。
私はいざという時に大事な従業員達を置いて我先にと逃げ出すような経営者だと思われたくない」
所謂世間体というヤツだ。
対面などを私は気にする方ではないけれど、それがあると従業員達の知られるのは心象よろしくない。実際あるだろうなと思われていたとしても、あると知られるのはどうかと思うのだ。この人はいざという時になったら自分達を見捨ててさっさと逃げる人なのだと思わせてしまったら、この人のために、この人と一緒に働こう、頑張ろうと考えてくれるだろうか?
答えは否だ。
みんなが私に付いて行こうと思ってくれているのは何が起きても率先して先頭に立とうとするからではないかと思うのだ。
だとすれば逃げ道を用意しているのだと断言してしまうような行動は如何なものか?
それに私はやっぱり仲間を見捨てて逃げるような人間にはなりたくない。その存在があったとしても私は果たして使うだろうか。
それを使うような事態ということはみんなも戦っているということなのだ。
そこで生き延びたとして、後の人生、後悔に泣いて暮らす生活なんて真っ平ゴメンだ。
私の心配をしてそう言ってくれているのはわかる。
だからこそここは謝るべきだろう。
私はイシュカに向かって頭を深く垂れる。
「ゴメン、イシュカ。これは私の我が儘なんだ、許して?」
下げた頭の上からイシュカの声が降ってくる。
「その言い方は狡いですよ?」
「うん、わかってる。でも私は私の生き方を曲げたくない。だからゴメンね」
そう言って謝るとイシュカは諦めにも似たため息を漏らした。
気苦労かけて、ホント申し訳ないって思っているよ?
でもこういう私だからこそみんなが付いてきてくれるのだろうと父様や団長達が言っていた。ならば私はこの生き方を変えるべきではないと思うのだ。
少なくとも私がハルウェルト商会のトップに立っている限りは。
後継者が見つかって隠居できるようになったらこの性格も少しは変わるはず・・・ないだろうな。
幾つになっても私はみんなに心配をかけていそうな気がする。
「時間がない。急ごう」
私はイシュカの腕を取ってみんなのいる場所に戻って行った。
隠し通路のことは勿論秘密にして私はウォルトバーグの目を盗んで中に入る方法をみんなに提案した。
ガイは面白そうに笑っていたけれど、他のみんなは反対のようだ。
理由は簡単。危険だからだ。
一応落ちても流されていかないように腰にロープを繋いでおいて引き上げてもらうつもりはあるけれど、足を滑らせれば真っ逆さま、運河にドボンと落ちる運命だ。そして多少風が強くなってきているとはいえ周囲には民家のない静かな夕闇の中、そんな音が鳴れば耳聡い者なら気付かれるかもしれないわけで、しかしながら代替え案を用意できる人はなく、結局それが施行されることになる。
中に入れたら入場門側の入口を開けてもらって連隊長達と合流だ。
イシュカとライオネルには水路近くで縄の端を握っていてもらい、ガイをはじめとした残るメンツは入場門側に移動、あちら側の見張り番などがいないか確認も兼ねて警戒してもらう。
団長達も向こうが片付いたら駆けつけてきてくれるという話だし、到着は夜半過ぎにはなるだろうが半数は護送に残ったとしてもかなり心強い援軍だ。
そうして仕事と役割分担を割り振っているとレインがキッと強い視線で前を見据え、一歩前に出た。
「じゃあ僕はハルトについて行く。子供なら通れるんでしょ?」
えっ・・・と、一瞬、レインの言葉にみんなの動きが止まった。
レイン、話をちゃんと聞いていたのかな?
結構危ないかもしれないんだよ、みんなが顔を顰めるくらいには。
面白がっていたのはガイだけだ。
危ないからと心配するよりも、ガイは私は口に出しら絶対曲げないってわかっているからなのだろう。何故だって前に聞いたら『御主人様は俺らみたいな脇役じゃねえからな』と言った。
『物語の主人公はこんなところでくたばったりしねえだろ?』と。
どういう意味だと尋ねたら、『そういう星の下に生まれてきたヤツは何があっても生き残るようにできているのだ』と。
益々意味がわからなかったが、そのうちわかるとも言われた。
確かにウェルトランドの劇場でロングラン公演が決まった恥ずか死ぬあの物語の主人公は私だけど、多分ガイが言いたいのはそういうことじゃないのだと思う。
とにかくガイ以外はみんな反対するぐらいだったんだ。
考え直すように説得しようと口を開きかけたところで、それを遮るように再びレインが主張した。
「イシュカじゃ無理だけど僕なら付いて行ける。
ハルト一人より僕もいた方が確実だよ。いつもハルトが言ってるじゃない。一人で出来ないことも二人なら出来ることがあるって。他じゃ全然敵わないけど、強化魔法無しの素の体力、力、剣の腕なら僕はハルトより上だ」
いやいや、確かにそうだけど。
ついでにガタイも負けてはいるけれど。
それでも危ないとわかっている場所に子供は連れて行けない。
お前も今は子供だろうと言われると返す言葉はないのだけれど。
なんとか思い留まらせようと試みる。
「氷の上を這って進むんだ、すごく冷たいよ?」
「それはハルトも同じでしょ? ハルトがやるなら僕もやる」
しかしレインの決意は固いようで意見を変えようとしない。
拳を握り締め、真っ直ぐに私を見てくるのだ。
これはもう親である閣下に止めてもらうしかないと振り返ると、閣下まで頷いてレインをこちらに押し出してきた。
「ハルト、邪魔にならぬというなら悪いが連れて行ってやってくれ」
いやいやいや、止めて下さいよ、閣下。
大事な御子息でしょうが。
なんで私が一人で行こうとした時は危険だと止めようとしたくせに、そうやって自分の息子を押し出してくるのかなあ。
立派な男にするための教育も時と場合を考えましょうよ。
私がへにょりと困ったように眉を曲げると、それを見て閣下は苦笑した。
「レインは其方に守られ、助けられるだけの男になりたくないのだよ。
其方の隣に並び立つためにな。
此奴は此奴なりに其方に追いつこうと必死なのだ。
心配はいらぬ。万が一のことがあっても其方に責任を取れなどと言わぬよ。それは此奴の望むところではないからな。
そうだろう? レイン」
「うん。好きな人を自分の手で守り抜けてこそレイオット家の男、でしょ?」
「そうだ、その通りだ。よくわかっているじゃないか、レイン」
・・・・・。
やはりこれは最早閣下の洗脳ではなかろうか?
普通の女の子ならよろめきそうなセリフだが、残念ながらもう少し育ってもらわねば、やっぱり私の守備範囲からは外れてしまっているわけで。
このまま育てばとびきりのイイ男に育ちそうなのは間違いないが、六人目の婚約者は今のところ考えていないのだ。口説き文句も不意をつかれると弱いのは自覚しているが、それでもトキメかないのは横にいる閣下の指導が入っているせいだろうが目の前で盛り上がっている親子を拒否しきれなく、結局レインも一緒に排水溝を進むこととなった。
きっと私のこういうところが団長に押しに弱いとか、優柔不断と言わせる理由なんだろうなと思ったのだった。
準備万端整えて、後のことは任せ、私は縄梯子を排水溝の横の位置まで降りると静かに呪文を唱えた。
閉ざされているだけあってかなり暗い。
一本道だから迷う心配はないのだけれど、少しだけ戸惑った。
深く考えずにナイスアイディアと思って興奮してたけど・・・
私はゴクリと唾を呑み込んだ。
思っていた以上に暗い。いや、真っ暗だ。
暗闇というのは苦手なので灯りを灯したいところなのだが、どこから光が漏れるかわからないことを思えば使うべきではない。
大丈夫、心配ない。
ここは知らない場所じゃない。
この先にはマルビス達がいる別荘がある。
深呼吸して気を落ち着かせつつ観察する。
歩みを始めれば初級程度の氷魔法でも問題ないだろうが、まずはある程度広範囲、というか細長く、遠くまで冷気を伝わせる必要がある。足場を確保しなければならないからだ。
手を伸ばすと触れた瞬間からビキビキビキッと小さな音を立てて排水溝の溝が凍りついていく。
ただでさえ冷える晩秋の空気に冷気が加わり身震いする。
暗い上に凍えそうなほど寒いなんて最悪だ。
排水溝の中は風がないだけマシなんだろうけれど。
だがとりあえずこれで道は確保出来た。
向こうに着いたら真っ先に温泉にドボンと浸かろうかな。
冷えた身体には熱い湯船が一番だ。
ゆっくり堪能する時間はないだろうが、ちょっとくらいなら許されるだろう。
とはいえ、最低限の指示だけは出さねばなるまいが。
そんなことを考えながらレインを従えてのしのしと排水溝を両手両膝につけたスパイクで身体を固定しながら這って行く。滑りそうになると両手足を突っ張って身体を支え、流れてくるお湯で氷が溶け始めると氷結魔法で道を作る。これの繰り返しだ。結構な筋力を使う。これは明日筋肉痛かなと考えていると背後からレインの声が聞こえた。
「ねえ、ハルト」
何か問題でもあったかと振り返ればレインがジッとこっちを見ていた。
「ハルトって今、呪文唱えてないよね?」
ああ、そうか。そうだった。
つい無詠唱で魔法を使っていたけれど、考えてみればこれは普通ではなかったんだっけ。
私は少し考えてひとまず口止めしておくことにした。
「その話は後でするよ。だけどとりあえずみんなには内緒にしていてもらってもいいかな?」
「みんなって、父上達にもってこと?」
「そう。ウチのメンバーでも知らない人は結構いるよ。知ってるのは側近とごく一部の人だけ。一緒に戦うことが多いメンバーは気がついている人もいるかもしれないけど」
そういやあ側近でもキールはまだ知らないんだっけ?
でもキールは戦闘に直接関わってくるのは皆無だし。
「イシュカやガイも出来るの?」
「出来ないよ。でもだいぶ発動までの時間が短くなってきてるからそのうち出来るようになるんじゃないかな」
それを聞いてレインはどこかホッとしたような顔をした。
歳も経験も違うから気にする必要ないと思うけど。
ウチの専属護衛陣は訓練の甲斐あってだいぶ詠唱時間が短くなってきたけどイシュカとガイでさえまだ無詠唱での詠唱破棄は無理だ。ガイは声を出さずに発動するのは出来るようになってきたけど即時発動はまだ無理だし、イシュカは逆に小声で呟いているけどかなり呪文を省略出来るようになってきたので発動時間がかなり短縮されている。アレは要は慣れなのだ。
「落ち着いたらレインにも教えてあげるよ」
「本当に? 本当に僕にも教えてくれるの?」
「私は出来ない約束はしないよ」
恐る恐る聞いてくるレインにそう答えるとぱああっっとレインの表情が明るくなった。
「僕っ、頑張るよっ」
別にそこまで必死にならなくても、レインはその歳にしては充分強いよ?
それを口に出すとお前が言うなって言われそうだから言わないけど。
その後は無言でガシガシと氷の上を簡易スパイクを使いつつ必死に登る。
暗くて殆ど見えない穴グラの中。
真っ暗な場所は苦手なのに今は不思議と怖いとは思わない。
多分レインが後ろにいてくれているからなんだろうなって思う。
一人じゃないってことはそれだけでも心強い。
私の強張っていた顔にも少しだけ笑みを浮かべるゆとりが出てきた。
急がねば。
限られた時間はどんどん少なくなっていく。
そうこうしている内に遥か遠くに点のように見えていた僅かな明かりが随分と大きくなってきた。
もうすぐ出口だ。
すっかり冷えてかじかんでしまい、ブルリッと身体を震わせる。
両手足を必死に動かして残る僅かな距離を必死に這って私達は進んだ。
排水溝から顔を出すとそこには見知った顔が覗いていた。
フリード様とマルビスにジュリアスだ。
「ほらっ、やはりハルト様でいらっしゃったでしょう?」
「本当だ。よくわかったな、マルビス」
意外なメンツに私が驚きながら排水溝から抜け出した。
三人が何故ここにいたのかといえば、別荘から荷物を通用門に運んでいたウチのメンバーがこの排水溝の横を丁度通った時にいきなりビキビキビキッと音が鳴り、冷気が漏れ出て来たのを目撃、これは何事かと思いマルビスに連絡に走ったということだ。そしてそこに居合わせたジュリアスがフリード様を呼びに向かい、マルビスが様子を伺っていたがザッカザッカという遠くから次第に近づいて来ている音に、これは間違いなく私だと確信していたらしい。
そこでロープを垂らして引っ張り上げようと提案したが、ジュリアスに連れられてやって来たフリード様に『待った』をかけられ、様子を見ていたと。
省略するとこんなところのようだ。
マルビスが感心しているフリード様に胸を張って主張する。
「ここは大人のサイズでは通れません。そういう設計です。となると、一瞬でこの距離を凍らせられ、この排水溝の存在を知っている方は他に心当たりがありませんから。
ですからロープを垂らそうと私は進言したんですよ」
つまりマルビスは私がやりそうなことを見抜いていたわけではなく、状況を見て判断、分析して間違いないと思ったのか。
だがそれに異論を唱えたのはフリード様だ。
「しかし敵側の進入者である可能性も捨てきれないだろう?」
「こんな突拍子もないことを考える方が他にみえると? ありえません。
しかも傾斜が掛かっているここは凍らせれば普通なら滑って落ちるところです」
・・・・・。
ありえないとは?
そんなにおかしな方法を取ったわけではないはずなのだが。
実にありがちな手段で定番だと思っていたのは私だけ?
どこか腑に落ちない顔をしていた私の手首を掴んでぐいっと持ち上げ、フリード様に見せつける。
「なのに咄嗟にこのようなものを作って氷の坂を登ってくるなんて芸当、他の方にはできませんよ」
そう言い切ってマルビスは私の手に巻いた簡易スパイクを繁々と見つめる。
これはきっとまた商売のネタに使うつもりだろう。
私が乾いた笑いを浮かべているとその後ろにいたレインに目をとめた。
「ああ、レイン様も一緒でしたか。流石にそこまでは読みきれませんでしたね。今お風呂の準備をさせていますよ。お入りになりますか?」
流石マルビス、手回しがいい。
「ありがとう。でもその前に園内入場口の方の通路を開ける手配をお願い。
ガイ達がそこに待機してると思うから」
私は御礼を言うとまずは急ぎの案件を伝える。
「かしこまりました。ジュリアスッ」
「はい。すぐに」
マルビスに指示されてジュリアスがすぐに駆け出した。
後はのんびりしてもいいというわけではないけれど、ガイ達が来てからでも大丈夫なはずだ。だいたいの経緯がわかれば双方の情報と照らし合わせて対策を練り直せる。
既に仕掛けてある罠や作戦もある。
イシュカ達に到着のサインを送るために私は排水溝に手をつくと火炎系の魔法で氷を溶かし、湯が流れ始めたところでハンカチを巻いた木の板の先に自分の腰に結んでいたロープを縛り直して落とした。これでイシュカ達も入場口のほうに向かってくれるはず。
「ではお風呂に浸かって頂きながら報告をお聞きしましょう。
すっかりお手足が冷たくなってみえます。それでよろしいですよね?」
「構わない。他の者には私から伝えよう」
私の手を握ったままだったマルビスが有無を言わさぬ口調でフリード様に進言するとフリード様は苦笑しながら頷いた。
そしてマルビスは私が来たことをみんなに伝えるため小走りに走り出した。
それを見送ると風呂に向かおうとレインを振り返る。
「レイン。ありがとう、一緒についてきてくれて」
するとレインは少しだけ沈んだ表情で小さく笑った。
「僕は何も・・・」
ボソリと呟くように言って俯いてしまった。
ああ、これは落ち込んでいるな。
聞かなくてもわかる。結局何事もなかったわけだし、実際出口にはイシュカとライオネルが、こちら側には敵はとりあえずいないはずで、排水溝に入ってしまえば落ちずに登るのに苦労するだけで危険なんていうものは少ないはずなのだ。注意すべきは滑り落ちて運河に落ちることと侵入口の警護をしているイシュカとライオネルの方が発見された時には危険だろう。施設への出入口が近くにないここはそうそう見つかることはないとは思うがあの二人の性格からすれば自分達が危険だからとロープを離して逃げるとは考えにくい。かといって人数を増やしても発見される確率が高くなるし。
勢いこんで付いて来たが自分の出番が無いとなればレインのこの状態もわからなくはない。
でもね、レイン。そんなこと気にする必要ないんだ。
だってちゃんとレインがいてくれた意味はあるのだから。
だけどそれは伝えなきゃわからないことだろう。
私は微笑んでレインに語りかける。
「そんなことない、すごく心強かったよ」
「でも僕はっ」
何もできなかったと言おうとしていただろう言葉を遮って私は続けた。
「私はね、実は暗いところがあまり得意じゃないんだよ。
少しずつマシにはなってきたけど、怖くてよくイシュカにしがみついてたんだ。
だけど今日は少しも怖くなかった」
足元にさえ気をつければ大丈夫、滑って落ちたところで風邪っぴきになる程度。
たいした問題じゃないと思っていたけれど、苦手なものは苦手。
そう簡単にビビリなこの性格が治るわけじゃない。
一人じゃない。
そこにいてくれるだけで力になることもあるんだよ、レイン。
「多分それはきっとレインがいてくれたからだよね。
ありがとう、私を一人にしないでくれて。すごく嬉しかったよ?」
「本当?」
恐る恐る聞いてきたレインに私はとびきりの笑顔を向けて頷き、右手を差し出した。
「行こう、レイン。マルビスがお風呂用意してくれてるって。
早くお湯に浸かって温まろう? 寒かったもんね、穴の中は」
「うん、行こうっ、ハルト」
握ってきた私より少しだけ大きな手も、間違いなく冷たかった。
手を繋いで私達は別荘の中の温泉に向かったのだった。