第一話 私の名前はハルスウェルト
ふと、春の陽射しのような暖かさを感じて朦朧としていた意識がゆっくりと覚醒する。
周囲に人の気配がした。
上手く聞き取れないが声もする。聞いたことのない声だ。
変だな、確か私は死んだはず。
流石にあのトラックの衝突を受け、無事で済んだと思えない。
一気に全身がグシャグシャに潰れる感覚は二度と味わいたくはない。
体が少しも痛くないのもおかしい。
と、いうことはここはまさかの天国というものだろうか。
とりあえず状況を確認しようと、やや重く感じる瞼を開けると複数の見たこともない顔と部屋が視界に入って驚き、声を上げて更に驚いた。
子供の、それも赤ん坊の泣き声。
慌てふためいて意味なく叫んだ声はまさに産まれたての赤ん坊のギャン泣きだった。
「奥様、男の子です、元気な男の子ですよ!」
覗き込む古めかしい黒いメイド服を着た四十代前半くらいの御婦人の言葉に、唐突に理解した。
つまり私は生まれ変わったのだと。
しかも前世とは性別逆の『男』に。
何故聞いたことのない言語が理解出来るのか?
その疑問についてはこの際横においといて。
前世私の好きだった漫画やラノベにもよくあった御都合主義な設定だ、深く考えても仕方がない。都合よく母親の腹の中にいた時に睡眠学習でもしていたのだろうということにしておこう。
問題はどんな世界に転生したのかだ。
ただ寝ているだけというのも芸がない。
考える時間は山程あるのだからこれを有効活用しない手はない。
赤ん坊の姿で出来る事などたかがしれているだろうが、折角以前の記憶が残っている上に当分の間は生まれたばかりでは首もすわっていないので動けない。
運動神経が悪く、生粋のインドア派で機械オンチだった私が言っても説得力は全くないであろうが何をするにも情報は大事だ。
行動を起こすにしてもアドバンテージが変わってくる。
別に大きく世界を変えてやろうだとか、成り上がってみたいだとか、そんなだいそれたことをするつもりはない。
目指すは普通よりも少しだけ良い生活、中の上。
平穏無事でチョットだけ贅沢するゆとりがあるくらいが丁度いい。
出る杭は打たれるという諺もある。
何事にも程々が一番、平凡上等、前世で叶わなかったごく普通の恋がしてみたい。
野望は大きすぎるとろくなことにはならない。
そう考えると男に生まれ変わったのは案外都合がいいかもしれない。
もともとオタクな腐女子、異性としての『男』にはあまり興味は持てなかったし、祟られていると称されるほど男運が悪かった。
それに私は仕事が出来る綺麗で色気のあるお姉様タイプに弱かったではないか。
その上、前世では男よりも男らしいと周囲に評価頂いていた。
この際、前世の女子を籠絡していた頃のあの手練手管を利用すれば美人なお姉様(性格よければなお良し)をゲットできるのではないかと安易にも考えた。
だが世間はそんなに甘くないのだと、後に私は嫌というほど知ることになるとは夢にも思っていなかった。
私が転生を果たして数カ月。
ようやくハイハイが出来るようになり行動範囲がほんの少しだけ広くなる頃には自分の置かれた状況もおおよそではあるが理解出来るようになった。
新しく転生した世界は地球ではなかった。
何故かと問われれば窓から見える夜空には大小ニつの月が浮かんでいるからだ。
服装や生活様式などは地球で言うならおよそ五百年くらい昔の文化に近いが一概にそうとは言い切れないのは『魔法』と言う概念が存在しているらしいからだ。
部屋の明かりは電気ではなく呪文を唱え、火の魔法でランプに灯される。
洗濯は水魔法、庭の手入れには土魔法等の様々な生活魔法があり、まだ見ていないだけできっと他にもあるだろう。
これはますます異世界転生らしくなってきた。
とりあえず、私の新しい名前はハルスウェルト・ラ・グラスフィート。
略称ハルトは伯爵家の三男坊。
この国、シルベスタ王国の貴族には名と姓の間に『ラ』という文字が入る。
前の名前と似ている愛称は違和感なくすんなりと受け入れられたのも都合がいい。
家族構成は両親と兄がニ人、姉が一人いるようだ。父には他にも妻がニ人程いるらしい。家族らしい人間の顔を見たのはそれだけだが、もしかしたらまだ見ていないだけで他にもいる可能性もゼロではない。家庭内環境は悪くないようで父の三人の妻達の関係は見ている限りでは良好のようだ。
ちなみに私は正妻の子供、長男と同じ母親だ。
そして我がグラスフィート伯爵家は貧乏という程ではなく、贅沢をしなければ日々の暮らしに困るようなことは無いくらいで、領地に大きな森が隣接しているために魔獣による被害がしばし出ることが悩みのタネ、溜め息混じりに父が愚痴をこぼしていた。
なかなか全ては上手くいかないものだ。
魔法があるからには当然魔獣がいても不思議ではない。
ここは地球ですらないのだから以前の常識が通用することばかりではないだろう。
宇宙は広いのだし地球とは違う発展の仕方をしている他の星が存在する可能性もあれば異次元に他の世界が存在していても驚くほどの事ではない。
魔法と魔獣と冒険の世界。
私は前世、御伽話や語り継がれている伝説の生物、果ては日本独特の地方に伝わる妖怪などの存在が大好きだった。何故なら空想上の生き物とされているそれらには語り継がれる理由やルーツ、教訓なども多く存在していたからだ。
人間の発想力や想像力は素晴らしい。
理想を現実に変える力だ。
数年前には物語の中にしか存在しなかったものが現実に変わる瞬間は見ているだけでワクワクした。
それは平凡な自分にはない力だったからなのかもしれない。
しかし無いものねだりをしていても仕方がない。
外見はどうであれ中身はアラフィフ間近、認めたくはないがオバサンと呼ばれても仕方がないような年齢の凡人だったのだ。
凡才は凡才なりに高望みしてはいけない。
折角男に産まれ変わったのだから前世で好きだったラノベの主人公のように冒険者になって世界を見て回るのも悪くないが、勇者や腕利きの冒険者になりたいなどとは微塵も思っていないので当初の予定通りあくまでも無理しない範囲というのが前提で。
その辺はこの世の情勢と適性もあるだろうから臨機応変に対応するとして。
別に必ずしも冒険者である必要はない。
この異世界をソコソコ満喫して楽しく過ごせるならば。
ここ数ヶ月の間、ベビーベッドの上から殆ど動けなかったこともあって僅かばかりではあるが行動力を手に入れた私は広い屋敷の中を匍匐前進ならぬハイハイで這い回った。
両親やメイド達がそんな私のワンパクぶりに頭を抱えていたのは知っていたが退屈を持て余していたのもあって状況把握を名目に暇潰しと言うしょうもない理由で屋敷内を探索する。
そして見つけた父親の書斎にズラリと並ぶ蔵書に心躍らせ、目を輝かせた。
産まれた直後から言葉を理解出来たのだ。
読む事も出来るに違いないという予想は有り難くも的中した。
家族や使用人達は目を離すといつの間にかいなくなり、その度、屋敷の中を捜索するのに苦労していたこともあり、書斎を見つけて以降入り浸っていても周囲から止めることはなかった。それは本を床の上に広げる事はあっても破ったり、投げたりする事もなく見ていたせいもあるだろう。
まさか産まれて半年も経たない、文字を教えてもいない赤子が本の内容を理解しているとは夢にも思ってないに違いない。
夢中になって本を見入る様子に屋敷の者達は末は学者か官僚かと微笑ましく見守っていてくれた。
私が転生して三年、つまり三歳になる頃には父の書斎の本はほぼ読破していた。
地球と大きく違うのはここは思っていた通り、魔法と魔獣が存在する世界だったことだ。
魔法は主に火、水、土、風、光、闇、聖の7種類が有り、人や魔物はこれらの属性を一つ、もしくは複数所有する。魔獣や魔物には聖属性を持つ者は現在確認されておらず、一般的なのは最初の五属性、次に闇、特に聖属性を持つ者は珍しいらしい。
魔獣や魔物の発生原因はいくつかあって一般的に知られているのはニつ、まずは繁殖によるもの。もう一つは魔素と呼ばれるものが動物や魔物、人やその死骸に取り憑く事により変異するもの。
厄介なのはコチラで凶暴化したり進化して凶悪化したり、死人ならばアンデッド化とするという。
なのでこの世界では死ぬとその日のうちに火葬されるのが一般的。
王族や貴族等になるとお布施を払い、教会から聖属性を持つ神官達を呼び、火葬されるまでの間、魔素を祓う結界を張ったりなどするらしい。魔素は意識の無い者、意志や抵抗力が弱い者、負の感情に支配されやすい者をより好むようだ。
そして我がグラスフィート家は大陸の海に面した大国、シルベスタ王国の王都からやや離れた辺境にほど近い位置に領地を持つ農業をメインに、後は僅かなガラスや陶器、織物などの手工業で経営するコレといった特徴のない地域だ。
しいていうなら領地内には多くの山、川、湖があって自然豊かなことが自慢だ。
以前はそれなりに裕福だったらしいが八年前に干魃被害に合い、持ち直すのに時間がかかったようだ。
荒れた農地はすぐには戻らないが国への税金は納めなければならない。
そこでどうしたかと言えば国に現状を訴えて多少の免除を受け、足りない分は屋敷にある絵画等の美術品や宝飾品を処分して工面したようで屋敷の壁の所々にある四角い日差し焼けの色むらと屋敷の大きさのわりに少ない使用人の数はそういう事かと納得し、国に納める税金が足りない分を干魃で苦しむ領民の税金を引き上げて賄おうとする悪徳代官の様な両親でなくて安心した。
領地の経営は領主の責任でもある。領民あってこその領主。
だがまた何か災害に見舞われた時にそれをカバーする事の出来る産業は必須、そう考えた父は何か色々と試行錯誤しているようだがどうにも上手くいっていないらしい。農地も順調に回復しているようだけど何か新しい事をするのなら余裕がある時でなければならない。
今世の両親は領民に慕われる尊敬できる人柄のようだ。
家族の五つ上の長男のアルフォメア兄様は真面目で実直、まあまあ優秀で後継ぎにほぼ決定。四つ上の次男のウィルヘルム兄様も努力家、ニつ上のユリナ姉様はやや不器用だが優しい、そして三つ下の双子の妹、アリシアとエリシアも産まれた。
この状況であればある程度自立して生活が出来るなら多少の自由は許されるだろう。
八歳になると貴族の子息や魔力の多い平民は王都にある魔法学院で、四年間の教育が無償の国庫負担で受けることが出来る。
有望な人材育成と確保、未来の官僚や魔術師の育成、つまりは青田買いだ。
そこで一定以上の成績を修めれば更に二年、希望者は学ぶ機会を与えられ、優秀ならば官僚や王室直轄の近衛騎士や魔術師、そのまま学院に残り魔術の研究を続けることもできる。
貴族の三男である私が程々に余裕のある暮らしを手に入れる最短、最速、最善の道だろう。
まずは八歳から通うことになる学院で上の学校に推薦される最低ラインを目指す。
そのためにも体を鍛えて魔術を磨いておくことは必要だ。
読み始めて二カ月くらいに目にした本の中でこの世界での保有魔力とその属性について書いてあるものがあった。人は例外はあるもののあらかじめ持った魔力に多少の差異や例外はあっても殆ど変わらず、その成長過程で差が出るという説だ。
大きく分けて三段階の過程が有り、産まれすぐの赤ん坊には七つの属性全てが揃っていて三歳くらい迄の間に自分に必要だと思われる属性を無意識のうちに取捨選択して獲得していく。つまり必要でないと感じた属性が退化し、消失していく事で属性が絞られるということなのだ。
これが第一段階。
残された属性を何度も繰り返し使い、魔力を空にする事で保有魔力を増やすことの出来る第二段階、これがおおよそ六歳くらい迄でその後急速に伸び幅が一年程で減少する。そして第二段階の成長幅の半分くらいで保有量を増やす事が出来る第三段階は少しだけ長くて十五歳くらいまで、その後は伸びないこともないけれど更にその半分くらいの成長率で二十歳ほどで完全に止まる。
これを読んだ時、正直、それは無茶というものでしょうと思った。
自分の意志思考を伝えるのも覚束無いうちから魔法教育など出来るはずないし、呂律も回らず、語彙も少ない赤ん坊に術を行使する呪文など唱えられるはずもなければ六歳前の遊びたい盛りの子供を机に縛り付けるのも難しい。
実質勝負出来るのは第三段階とからと言っても過言ではない。
まあ、あくまでも一つの仮説、ここは一つ試してみようと誰も見ていないスキを狙って初歩とされる各種呪文を呂律の回っていない状態で唱えてみたところ本当に全属性の発動が可能だった。
どうやら魔法は発音より発動される術のイメージの方が重要らしい。
なるほど、なかなか信憑性は高いようだ。
一つのことに夢中になると他を返り見なくなるのは前世からの私の悪い癖だ。
興味がわいたものは試してみたくてしょうがない。
好奇心旺盛といえば聞こえはいいが飽き性でもあった。
勿論、その中から趣味として定着したものもあって多趣味だった。
この性格は死んでも治らなかったようだ。
私は前世では存在しなかった魔法に夢中になり、親の目を盗んでは様々な魔法を試して倒れたり寝込んだりを繰り返すこと数十回を超えたあたりの三歳頃、さすがにこれはマズイとその原因を考え、きっと体力不足に違いないと思い至り、庭で剣の稽古をしていた父と兄達のもとへ行って自分も修行したいと頼み込んだ。そして元気に走り回るわりにはよく倒れる(魔力の使い過ぎだとは知られてない)私に家族は少しでも鍛えれば寝込むことも減るだろうと快く稽古つけてくれた。
相変わらず覚えたての魔術に夢中なのは変わらなかったが限界手前の感覚を掴み、大きな力を使う時には覚えた風魔法を使って屋敷を抜け出したり、魔力を空にするなら眠る前という習慣を心掛けることにした。
机に座っての勉強は殆ど補足に過ぎないものであったけれどすでに言語読解、筆記、計算すべて理解出来ますと家庭教師に申告するわけにもいかないので適当にやり過ごし、本だけでは知る事が出来なかった知識や情報も蓄え、マナーとダンスには苦労したけれど剣術を早くから習っていた成果もあって姿勢とスジがいいと誉められた。
そうして新しい世界と新しい人生を満喫しながら私は無事六歳の誕生日を迎えた。