02 のこちゃんの平日
「人の世は、儚さとしがらみで出来ているが、悪い事ばかりじゃないね………」
その男、のこちゃんの伯父に当たる 剣持昭三 は、独り言のようにつぶやいた。
初めて会った伯父さんは見上げる様な長身で、長年陽に焼けたのであろう褐色の肌に、広い肩と分厚い胸の上半身に加え、ガッシリ安定した下半身とで形作られていた。
若い色のスーツをゆったりと身に着けているものの、そこには、隠しきれない肉体的な迫力がある。
お父さんが生きていれば40代とあって、歳の離れたその兄にしては、中年に至っていない壮年の様であり、何気ないその身のこなしに青年の機敏さも併せ持つという、そんな年齢不詳さも強さを感じさせるのだろう。
まぁ、のこちゃんから見れば、おっさんはおっさんなのだが。
それは、ぼんやりと憶えているお父さんの姿や、その周囲の大人たちと比べると異質の厳つさである。
ただ、鉄骨を思わせる強面にも係わらず、自然な表情と佇まいであり、特ににこやかにしている訳でもないのに何故かのこちゃんには怖さのない不思議な人物でもあった。
のこちゃんは、事情をよく飲み込めないまま祖父から話を聞いた次のお休みの日に、都内で伯父さんと会う事にした。
お父さんのお葬式以来、お父さん側の親戚とは今日まで疎遠であったのだが、だからこそ興味がわいたのかも知れない。
のこちゃんと伯父さんは、待ち合わせをしたターミナル駅近くの所謂ファミレスのテーブルで、お互いに少し緊張しつつも向かい合っていた。
要駅最寄りの店舗とあって内部の間取りは十分に広く、まだお昼近くな事もあり家族連れのお客さんがそれなりに入っていても、席の余裕が見て取れる。
それにも係わらず、伯父さんは窓が近くて明るい席を避け、やや奥まった禁煙席を選んだ。
流石に初対面の大人と二人きりだと、いくら親族でも窮屈な感じになってしまって、のこちゃんには辛い。
それには伯父さんも自覚があるようで、席に座ると同時にごめんねとのこちゃんに謝った。
「海外が長くてね、見通しの良い窓際は、何か落ち着かないんだよ……」
よく分からなかったが、そんなものかと、のこちゃんは思う。
それと同時に、窓の近くですらダメとなれば、オープンテラスのカフェとかだと耐えられないのでは?と余計な事を考えてしまい、目の前の厳つい伯父さんがひーと逃げ出す姿を想像してつい笑いそうになる。
ドリンクバーで貰ってきたメロンソーダを飲んで、吹き出しそうに歪んだ口元をごまかすのこちゃんだった。
伯父さんは、そんなしょうもない内部事情を知ってか知らずか、のこちゃんへ優しく話しかける。
「……10年くらいか…日本にいなくてね、弟の事を知ったのはつい最近なんだ」
「はあ……」
「君が大変だった時に、力を貸せなかったのがどうしても残念でね、その、お母さん側との約束は分かっているんだが」
「まぁ……」
「口出しとかじゃなくて、一度、会ってみたくて居ても立ってもいられなかったんだよ」
のこちゃんが見る限り、伯父さんの言葉に嘘は無い様だった。
「……そうでしたか」
ただ、のこちゃんとしては、気遣われている事が分かっても、初めて会った伯父さんに何と応えて良いか分からず、ぼんやりとした相づちをうつしか無いのだが。
「お、伯父さんは、海外で10年も何をしてたんですか?」
我ながらうなずいてばかりなのも如何なものかと、のこちゃんも当たり障りのない話題をひねり出してみる。
「そうだなぁ、ボスの言いなりで世界中を飛び回っていたら、あっと言う間だったねぇ」
うわやっぱりギャング的なそれなのか流石兄弟だな!などと、若干失礼な感想を脊髄反射で抱いたのこちゃんであったのだが……
「日本で言う、警備員みたいなものだね。色々な国へ行ったよ」
続けて、にこやかに語る伯父さんの言葉で、大いに反省するのこちゃんであった。
見た目が厳つくても、たぶん良い人なのだろう。
それでねと、伯父さんは、新しい職場が日本に決まったから、しばらく日本に腰を据えて仕事をする旨を続けて明るく語った。
「学校は楽しいかい?」
「え?あ、はい、友達もいますし…ので」
「そうか……」
伯父さんは、少し考える様に間をおいてから、居住まいを正し、のこちゃんの目を見て再び話し始めた。
「弟がどういった世界にいて、それが原因で幼い君を残して逝ってしまった事は重々分かっているつもりだ」
「……はい」
「それでもだ。
君が君自身の意志で剣持の名前を、弟を捨てないでいてくれて、私も嬉しい」
「そんなつもりは……お父さんの事、嫌いじゃないですし」
事実、お母さんが亡くなって以来、お父さんが毎日ご飯を作って、一緒に小さな食卓を囲んでいた頃の感覚は、今でも楽しい思い出としてのこちゃんの中にあり続けている。
のこちゃんにとってのお父さんは、それが全部なのだ。
周りの大人はともかく、素朴に、やくざ者だった云々(うんぬん)の話をのこちゃん自身が気にした事は無かった。
「勝手な物言いとも分かっている。ただ、その気持ちに私も弟の兄として何か応えたいんだよ」
のこちゃんが鉄骨を思わせる強面と評した顔を少し悲しげに緩ませると、伯父さんは、のこちゃんに対してぺこりと頭を下げた。
「本当に何か困った事があれば、必ず私に相談して欲しい。
伯父として、何処にいてもきっと駆けつけて君の力になってみせるよ、虎の子!」
「あの、できれば、"のこ"と呼んでください」
「あっ、そうなんだ………そうか、すまないっ」
中二女子の複雑な心境を垣間見た伯父さんであった。
――――――――――――――――
「そんで、その伯父さんとは、どっか遊びに行ったりしたのか?」
「ううん。ファミレスで少し世間話してから帰ったよ。
新しい仕事関係で、挨拶回りがあったみたいだし」
「へー、そうなんだ」
休日明けのお昼休み、学校の屋上で宿福と件の遊びに行く話しをするついでに、伯父さんとの初顔合わせについて、突然で驚いた心情を交えつつ報告するのこちゃんである。
「飛び石になっちまったけど、のこのゴールデンウィークは、なかなか刺激的なスタートになったな」
けらけらと笑いながら宿福が茶化すと、正直な所ポッと現れた親戚であるし、伯父さんとか言われても未だにピンと来てもいないので、のこちゃんとしては、まあねぇと乾いた笑いで流すしかないのだが。
そうこうしている内に、行楽の提案者である愛茅が合流してきた。
2年生になって三人ともクラスが違ってしまったので、一寸したおしゃべりがしたくても、こうして待ち合わせなければならないのは面倒な話である。
「やぁ、おまたせ」
「あっ、まなっちゃん!」
「言い出しっぺが遅ぇじゃないかよ、まなち」
「いやぁ、悪い悪い、すくねちゃんご指名のひなちゃんを引っ張ってきたんだよ」
そう言うと、愛茅はすっと体を横にずらし、自分の背中に隠れる様な挙動をしていた 宇須陽菜 を宿福とのこちゃんに見せた。
不意に二人へ自身の姿をさらされた陽菜は、一瞬固まる仕草を見せた後で愛茅に背を押され、おっとっととバランスを崩し気味に前へ出た形となった。
「ああ、ひどいよ、まなちゃん」
「いやいや、何をそんなに警戒するのかとね」
控えめな性格を象徴する様に、小さな声で愛茅を非難する陽菜である。
陽菜は、眉が細く切れ長な目と、輪郭がすっきり整った顔の持ち主であり、なかなかの美形とのこちゃんは思う。
身長はのこちゃんより高めで全体的にやせ形でもあり、ともすればほっそり系美少女と認識されてもおかしくないものの、そのおとなしさの所為か学校内で全く目立っていない。
サラサラとした癖のない黒い髪は肩胛骨程度にまで伸ばしていて、普段から頭の後にゴムやシュシュでまとめている。
たまに眼鏡姿も披露するのだが、愛茅の情報に拠れば伊達らしい。
「け、剣持さん、大賀美さん……コンニチワ」
「何か、固いんだよなぁ、ひなちゃんは」
愛茅が苦笑していると、宿福がニンマリとした悪い笑顔で身を乗り出す。
「おー、うす、こうやって顔つき合わせんの久しぶりだなっ」
「ひぃ、ヒサシブリナノカナ」
「本当、二年生になってから全然会えなかったんじゃない?、陽菜ちゃんっ」
「ソウダッタカシラ」
「最近、何かあたしらの事、避けてただろ~」
「サケテマセンヨ」
「まなっちゃん、陽菜ちゃんの様子がおかしいよ」
「ありゃあ、確かにひなちゃん壊れているなぁ」
「コワレテナイヨ」
壊れているかどうかは兎も角、屋上の片隅に呼び出されて囲まれているか弱い少女の図に相応しく、どうやら変な緊張をしているらしい陽菜である。
「そう言えば、陽菜ちゃん、まなっちゃんと一緒じゃないとあまり喋らないから、話すの苦手なのかも」
「ソウカモ」
「へー、そうだったのか」
「ん?でもひなちゃん文系が得意だから、よくクラスの友達から分からない所を質問されたりすると、流暢に分かり易く解説しているのだけどなぁ。
横で聞いていて感心するくらいだよ」
「ああ、まなちゃん、せっかく丸く収まりそうだったのに……」
一瞬、のこちゃんの提唱した仮説を信じそうになった宿福の顔が引きつる。
「うす、おまえ…」
「まぁ、宿福ちゃんはヤンキーじゃないけど、男兄弟の中で育ったから中身が男の子みたいで、陽菜ちゃんレベルのザ・女の子からするとキンチョーするのかもね!」
すわと宿福が、眼光鋭くのこちゃんに向き直る。
どうやら、のこちゃんは、宿福の地雷を思い切り踏み抜いたらしい。
「おー、うすの前に、まずシメなきゃならないヤツがここにいたか」
うっすら笑っている様で目が全く笑っていない宿福がジリジリと距離を詰めれば、それに合わせてのこちゃんもジリジリ後へと下がる。
「あっ、今のはケアブレイキングドーンの宿敵、ドゥームチャムケアっぽかった!」
「だから、見てねぇっつってんだろ!しかも、それ悪役じゃねーかっ」
「知ってんじゃんっっ」
のこちゃんが宿福に追いかけられて屋上を走り回っている様子を見ながら、愛茅が再び苦笑いしていると、陽菜がポツリと呟く。
「だけど、緊張するのは本当なのよね」
「そうなのかい?」
愛茅が続きを促すと、陽菜は、少し間を置いてから話し始めた。
「………わたしと剣持さん、小学校が同じなの知っているでしょ?」
「ん、前に聞いたね」
「剣持さんが転校してきてしばらくすると、亡くなったお父さん絡みで噂が広がってね……」
「ああ」
「今考えると本当にばからしいのだけれど、本人も危ないヤツだって、誰も積極的に剣持さんへ近づこうとしなかった」
「実は、ただのチャムケア好きなのにね」
愛茅の軽い冗談にふふふと少し笑った後、陽菜は目を伏せ眉をひそめた。
「当時のわたしは、その噂に乗ってしまったのよ」
「………」
「情けないやら恥ずかしいやらで、こういうのも黒歴史っていうのかしらね……
剣持さんの前に立つと、どうしてもあの頃の自分を思い出してしまう」
だから彼女が苦手と言うよりも私自身の問題ねと陽菜が話を締めくくると、愛茅も小さく息を吐き出した。
「ひなちゃんは大人だね」
陽菜が本当に苦手とするならば無理をさせられない上に、のこちゃんと宿福とも仲が良い愛茅にとっては、あまり軽い話でもなくなる。
それもどうやら杞憂に終わったので、ホッとしたのだ。
「まぁ、のこちゃんには、気を遣わせちゃった様だけどね」
「やっぱりそうなのかな?」
「そりゃあ、すくねちゃんの気にしている事なんて、熟知してるだろうしさ」
「ふむむ」
ああそうだと愛茅が思い出した様に陽菜へ提案する。
「そういえば、春のチャムケア映画に行きたがっていたから、付き合ってあげたらどうかな」
「チャムケアかぁ………私も"ローリンゲット!チャムケア"辺りで見なくなっちゃったから」
「かなり、最近のタイトルな気がするのだけど?」
「主人公が鳥社鄙っていってね、同じ名前だから一寸気になって?」
「いや、知らないよ」
愛茅がのこちゃんと宿福の方へ視線を戻すと、まだおいかけっこは続いていた。
因みに、ケアブレイキングドーンとドゥームチャムケアとは、宿福が視聴していたという『スマッシュチャムケア!』の翌年に放送された『ハードチャレンジ!チャムケア』に登場するキャラクターだ。
なので、のこちゃんは、見ていないと言いつつ宿福も多少気にしていたなと踏んでいる。
「やはり、宿福ちゃんのチャムケア復帰の脈は、あり得ない話ではない?!」
迫り来る宿福の魔手をかわしながら、そんな事を考えていたのこちゃんである。
つかまったら、髪をぐしゃぐしゃにされるに違いない。
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のこちゃんの通う中学校は地元の公立で、家からも遠からず近からずな場所にある。
急な傾斜などの無い土地であり、通学には、舗装された平板な道を行くだけで、これといった困難さも無い。
生徒たちの着用する制服は男女とも濃紺のブレザースタイルで、いかにもな公立の凡庸な中学生像を体現して見せていた。
凡庸さで言えば、元より己のそれを自覚しているのこちゃんが埋没するには、もってこいの環境なのかも知れない。
もちろん、率先して、埋没するつもりはない。
ただ、のこちゃんとしては、埋没していようといまいと、それなりの成績をキープして家族を安心させつつ、チャムケアを堪能して楽しく生活さえ出来ればそれで良いのだ。
朝は、少し早めに起床して体力作りのランニングをこなした後、学校へ行く前に祖母の手伝いで朝食の支度に参加するのがのこちゃんの日課である。
とは言え、日曜日の朝と同様に食器を並べたり使用した食器を洗ったりするのがお手伝いの中心で、料理そのものには祖父母やきょう姉さんから祖母に任せてはどうかと一度ならず言われてから参加をしていない。
お手伝いを始めた当初は料理もたくさん手伝っていたし、祖母も色々と手ほどきをしてくれたはずなので、ふと疑問に思ってたまに自分で作った物を食してみるのだが特にマズい訳でもない。
機会のある度、のこちゃんの方から料理を手伝うと申し出ても、眉毛を八の字にした祖母に問題ないとやんわり断られるのも引っかかる。
実に不可解なものの、家事に関して祖母が手練れである事は間違いないので、もう深く考えるのを止めてしまっていた。
毎日、美味しい食事にありつけるのだから、確かにのこちゃんには何も問題ない。
そう言えば、生まれてこの方、食事をまずいと感じた事もないので、我ながら大したごはん運ではないか?とのこちゃんは思う。
この先も、是非そうあって欲しいものだ。
食卓の準備が整うと、のこちゃんは祖父母と共に自分の席へと着く。
きょう姉さんは、早番の人が急に来られなくなったとかで、既に出勤してしまった。
職場から頼られているのだなと、のこちゃんは、趣味に邁進しつつ仕事でも活躍するきょう姉さんに尊敬の念を禁じ得ない。
それはともかく、祖母の作る料理は何でも好きなものの、何気ない朝食のベーコンエッグが特にお気に入りである。
世間では、カリカリに焼いたベーコンを至上とする風潮が強いと聞く。
しかし、祖母の焼くベーコンはジューシーで焼き肉の様な仕上がりにも係わらず、油のしつこさも無いのだ。
焦げ目のない黄身がトロリとした素朴な目玉焼きに合わせると、これこそが奇跡のマリアージュであるとのこちゃんは確信している。
あれマリアージュってどういう意味だっけ?などと思いつつも、のこちゃんが好きな事を知っている祖母が毎朝作ってくれるベーコンエッグを、今朝も嬉しそうに頬ばるのであった。
「本当に、美味しそうに食べるよなぁ」
祖父が、のこちゃんの様子を微笑ましく見ながら呟く。
「ええ、そこまで喜んでもらえると、作り甲斐もあるわ」
そう続ける祖母も、嬉しそうな顔をしている。
のこちゃんは、もぐもぐと咀嚼しながら、祖父母の言に満面の笑顔で返すのみである。
美味しいものを美味しくいただく事こそが、最大の讃辞と心得ているのだ。
「のこちゃんが家に来てから、もう7年…か。
中学二年生とは、早いものだねぇ」
祖父の言葉に、祖母も頷いている。
つられて、のこちゃんも口をもぐもぐさせながら当時の事を思い出す。
のこちゃんが佐橋の家に引き取られて、こちらの小学校に転校したのは一年生の梅雨の時期であった。
あの頃は、しとしととそぼ降る雨の中を、毎日一人でえっちらおっちら下校していた印象が強い。
どこで知られたのか、転校してしばらくは亡くなったお父さんのやくざ者の噂に同級生から距離を置かれてしまい、お友だちができなかったのである。
尤も、おとうさんに悪い思い出の無いのこちゃん自身が、特に隠そうともしていなかったのだが。
そもそも、家族の職種やその仕事内容に詳しい子供が、のこちゃんの周りにはあまりいなかった事もあるだろう。
どこそこで働いているらしい等の漠然とした認識に留まり、その先は特別気にならないという、のこちゃんもそんな子供たちの一人だったに過ぎないのだ。
どんな出自や肩書きがあろうとも、子供の見ている世界では、親は親である。
「ごはんをいっぱい食べて、大きくなったわよねぇ・・・」
しかし、そんなにこやかに見守り続けてくれる祖父母には心配をかけそうなので、当時から子供心にも決してぼっちを悟られまいと思っていたのこちゃんだった。
良い巡り合わせもあり現在では、宿福や愛茅、陽菜といった友だちも増えて、そんな気負いも無くなった。
これ以上は、毎日美味しいごはんも食べられているとなれば、チャムケア以外の何を求めるというのだろう。
「のこちゃんは、名前を変えるつもりは、今の所無いのよね」
何気なく祖母が言う。
もちろん、のこちゃんの意志は揺らいでいないので、小さく頷くに留めた。
「でも、もし変えたくなったら、すぐに言ってね?」
もう一度のこちゃんが小さく頷くと、祖母は微笑みながら別の話題に切り替える。
そして、その朝、二度と改名について触れられる事は無かった。
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春に三日の晴れ無しとは言うものの、抜ける様な晴天に恵まれた気持ちの良い朝である。
しかし、その暖かな春の陽射しに包まれながらも、とぼとぼと登校するのこちゃんの足取りには元気がなかった。
今朝の様な何気ないやり取りをして、祖父母は、恐らくきょう姉さんも含め、やはり自分の名前について思う所があるのだろうなと察してしまうのだ。
これからも、亡き父母との繋がりを象徴する名前であるから、改名しないという意志は揺らがないだろう。
ただ、それを己のワガママと捉えてみれば、自分の事を良くしてくれている家族に悪い事をしているのではないか?
お世話になっている人への恩を仇で返すなと教えられた、お父さんの言いつけに背いているのではないか?
そんな、恐れに近い疑問が浮かんでしまい、もやもやと気分が上がらないのこちゃんなのだ。
だから何となく、まっ直ぐ学校へ向かう気にもなれず、のこちゃんは普段の通学路から外れて少し遠回りな道を進んでしまっていた。
いつも遅刻しないようにと時間に余裕をもって登校しているので、多少の遠回りくらいは問題ない。
少し歩きたい、そんな日もある。
そこは地元の主要駅へと続く広めの道で、車道と歩道が頑丈そうなガードレールに拠ってカッチリと棲み分けされている、所謂バス通りだ。
スーパーや総合病院もその通りにあるので、おつかい等では、のこちゃんもよく来る辺りだった。
ただ、生活する上ではお馴染みではあっても、学区から外れ気味な事もあり、のこちゃんの通う中学校からするとあまり関係がない方向である。
歩道には、洒落た意匠のブロックが敷き詰められ、街灯の柱と共に等間隔で木が植えられている。
盛夏にあっては、生い茂った葉が強い陽射しを遮って木陰を作り出す様にと、安心感を主眼に設計されたものだろう。
昼間は地元の子供たちが楽しそうにかけまわる姿を散見できる場所なのだが、朝ともなれば、通勤通学の人たちや自動車の往来もそこそこ多いため、それなりの喧噪となる。
そろそろ適当な角を曲がって本来の通学路へ復帰しないとなぁと、ぼんやり考えながらのこちゃんが歩いていると、不意に荒げた女性の声が耳へ入ってきた。
のこちゃんが声のする方向へ視線を向ければ、歩道が交差して少し広くなっているスペースで、自分と歳の変わらない制服姿の女子が何やらスーツ姿の男性ともめている模様である。
男性は、30代くらいのサラリーマンであろうか、手にしたスマホの時計をチラ見しながら忌々しげだ。
よく見てみれば、その女子はのこちゃんと同じ制服を着ており、後にランドセルを背負った小学校低学年くらいの小さな女の子を男性からかばう様に立っている。
小さな女の子はひたすらオロオロしており、どういう事情か分からないものの、このまま放って通り過ぎるのも違う気がするのこちゃんであった。
と言うよりも、行動指針をチャムケアに影響されたのこちゃんの魂が、なるべくなら正義を行えと自身へ欲求しているのかも知れない。
宿福に子供向け作品による情操教育の成果を見て感心していたのこちゃんもまた、チャムケアにしっかり教育されていた訳である。
子供向け作品、侮り難し。
「スマホ見ながら歩いてたんだから、あんたの方が悪いに決まってるだろっ」
「君たちにはまだ分からないかも知れないが、こちらも遊びでスマホをチェックしていた訳じゃない」
「あの……あの、わたしが悪いんです………」
のこちゃんが何気なくを装ってそろりそろりと近づくと、三人の物言いがハッキリと聞こえてきた。
どうやら、スーツの男性と小さな女の子がもめ事の中心らしい。
つまり、男性へ食ってかかっている勇ましい同中女子は、この女の子の援軍を買って出たらしいと、おおまかな状況を見出すのこちゃんである。
なるほど、所謂"ながらスマホ"で女の子に気がつかなかった男性がうっかりぶつかってしまったのなら、責められるべきは男性の方だろう。
のこちゃんの正義感が寄り添うべきポイントは、ハッキリと把握できた。
とは言え、弁が立つ頭脳派でも腕っ節の強さを頼って勝ち気にふるまえる訳でもないのこちゃんに、直接的な加勢は無理がある。
"力なき正義は無力也"とは、よく言ったものだ。
のこちゃんがどうしたものかとその行動を鈍らせていると、オロオロしていた所為か、足下をふらつかせて転びそうになる小さな女の子の姿が目に飛び込んできた。
「あ…」
「あぶないっ」
吃驚してとっさに手をのばし、のこちゃんは、女の子を支える事に何とか間に合えた。
些細と言えば些細な事なのかも知れない。
しかし、例え無力な自分ではあっても出来る事があったのなら、無関心のまま通り過ぎなくて良かったと胸をなで下ろすのこちゃんである。
「だいじょうぶ?」
のこちゃんはそう呼びかけると、ポカンとしている女の子の体勢を、よっこいしょと元に戻してやる。
女の子は、特に顔色も悪くない様なので、単純に足をもつれさせただけなのだろう。
「あ、ありがとうございます………」
我に返った女の子が、顔を真っ赤にしつつも、満面の笑みでお礼を言う。
どういたしましてとのこちゃんが笑い返すと、気が緩んだのか、女の子は笑い顔から少し涙目になってしまった。
あららと思いながら、このくらいの子だと集団登校するはずだよねと気がついたのこちゃんは、その辺りで登校仲間が遠巻きにしているのではないかと周りを見渡すと、ほっとした表情でこちらを見ていた同中女子と目があった。
大人にも気後れしないその勝ち気な印象が、のこちゃんの中で少しばかり和らぐ。
同中女子はのこちゃんにニヤリと笑いかけると、再び男性に向き合って、口論を再開させた。
「スマホの画面に気を取られて、こんな小さな子にぶつかっておいて、大の大人が謝りもしない。
仕事か何か知らないけど、それはあんたが自分で決めて、自分の意志で進んだ現在の状況だろ。
それでいっぱいいっぱいになった所で、それはその選択をしたあんた自身の問題だっ」
堂々と男性に言い放つ同中女子に、のこちゃんは自分に出来ない事と感心しつつも、ん?と何か引っ掛かるものを覚えていた。
「中には自分勝手な選択や傲慢な選択もあったかも知れないけど、殆どはその時の最善を選択してきたんだろ。
って事は、現在のあんたは、あんた自身の最善で出来ているはず。
その最善の姿が、自分のふがいなさを棚上げにして小さな子に詫び一つ入れられない、そんな情けないもんであんた自身は良いのかよっ」
「なっ………」
ちなみに、いま呻いたのは、のこちゃんである。
当の男性は、まくしたてている同中女子を黙って凝視していた。
「自分勝手な選択や傲慢な選択も含めて、あんたが自分で選んだ、あんた自身なんだよ。
だったら最後までしっかり責任を取れよな!」
間違いない。
多少アレンジされているとは言え、『スワイプチャムケア!』にあったセリフだとのこちゃんは確信した。
「ケアビースティ…」
あれは、物語の終盤で敵幹部と一騎打ちになった時、選択に拘りを持つケアビースティが、敵幹部からお前は選択を間違えたなと揺さぶりをかけられた際、負けずに言い放った熱いセリフである。
「スワイプチャムケア…」
思わずケアビースティの名を呟いてしまったのこちゃんと同時に、あろう事か、女の子の口からも同様の呟きが漏れた。
おたがいの呟きに気がついたのこちゃんと女の子は、ハッとして顔を見合わせる。
小さな女の子ならば、チャムケアシリーズくらいフツーに見るだろうと思うのは早計である。
長いシリーズ物にありがちなのだが、端からではタイトルが違えどどれも似通っていて大差の無い様に見えて、その実、それぞれテーマから作品世界まで全くの別物であり、例えファンであっても全てを把握し切れていないケースも珍しくない。
ましてや『スワイプチャムケア!』は、のこちゃんがリアルタイム視聴し始めた『Joy!フロイラインチャムケア』の数年前に放送されたタイトルであり、この女の子が自然にテレビで"たまたま見る"にしてもそれなりのハードルがある。
だが、この女の子は、同中女子の言に対して、一発で引用元の作品を特定して見せたのだ。
従って、女の子にチャムケアに対する確固とした探求心があると、のこちゃんは刹那に理解できた。
「……チャムケア、好きなんだね」
「え……あ、はい」
女の子が、再び顔を真っ赤にして、少しはにかみながら頷く。
まさしく、同志発見の瞬間であった。
「まさか、リアルJCから、その言葉を聞かせられるとは思わなかったな」
それまで同中女子に責められていたスーツの男性は、苛立った様子をひっこめて、真摯な態度で話し始めた。
「君の言う通りだ。推しケアのセリフで叱咤されて、自分の間違いに気付かされた」
「はっ?」
戸惑う同中女子をよそに、男性は続ける。
「"もしかしたら本当に間違った選択をしたかも知れないけど、それも含めてあたしの本心、あたしの選択、本当のあたしなんだ!"
良いセリフだよね」
何とスーツの男性は、件の回でケアビースティが敵幹部へ放ったセリフを、かの名言を諳んじて見せた。
こんな所にもチャムケア好きが、しかも大人の男性がいるとは、立て続けの"同好の士"との邂逅に驚愕したのこちゃんである。
俗に言う"大きなお友だち"ってやつだろうかとのこちゃんがあれやこれや思いを巡らせていると、男性は、同中女子の背後に位置する女の子の方へ向かって深々(ふかぶか)と頭を下げた。
「こちらの不注意で、君を危ない目に合わせてしまった。本当にすまないっ」
「あっ、いえっ、わたしも周りをよく見ていなくて、ごめんなさいっ!」
そうだ、チャムケア好きに悪い人はいないのだと、のこちゃんは改めて確信する。
一方、後で交わされていたのこちゃんと女の子のやり取りをぼんやり聞いて、よもや速攻のネタ元バレで顔を赤くしていた同中女子は、思いがけない男性からの追い打ちで流石にいたたまれなくなってしまった。
ワカレバイインダヨッと小声で言い捨てると、そそくさとその場から足早に退散していった。
哀れ、義侠心からせっかく小さな女の子をかばったのに、かなり残念な結末である。
彼女がそんな状況とはつゆ知らず、知らない顔だったものの、同中ならばいつか学校内でチャムケアを語れるかも知れないと、嬉しい期待でいっぱいになるのこちゃんだった。
つづきます。