07 のこちゃん、眠れなくなる
のこちゃんが異次元踏破傭兵団"魔刃殿"から与えられた個室は、広さはともかく、壁も床も石造りっぽい素材がむき出しである。
その頑丈そうで無骨な感じは、獣人の本能をして野生動物が身を隠すが如き気を休める感覚に沿う意匠なのか、使用する者の粗暴さから耐えるための処置なのかは分からない。
ただ、のこちゃんの様な庶民的な者の心に、安らぎを喚起させる設計をされていない事は確かだろう。
思い返せば、黒豹系獣人のパニアに連れられて歩いたこの棟その物が、廊下から何から同様に頑丈そうだったので単純に後者なのかも知れない。
のこちゃんは、部屋に備え付けられていた寝台に身体を横たわせると、上をぼうと見ていた。
やはり、天井も頑丈そうだ。
地震が来たらここは大丈夫なんだろうか?などと、つい日本人らしい事を思う。
休む体勢となったのこちゃんに対する気遣いなのか、聖ザンバー=リナの声は、何も話しかけてこない。
その聖ザンバー=リナは、何れのこちゃんだけを残して、ティハラザンバーの中から消えてしまうのだと言っていた。
特に眠くなかった事も手伝って、のこちゃんはティハラザンバーとして生きていかなければならないこれからへ、どうしても思いを巡らせてしまう。
魔刃殿に所属する以外の手段が無かった以上、のこちゃんの未来には、怪人の傭兵として戦いが待っているはずである。
「ひとりで………………かぁ」
小さく呟きながら、ふと周りに視線を巡らすと、寝台近くの壁に小さな鏡がはめ込まれている事に気がついた。
ここへ来て、初めてティハラザンバーの姿を確認した金属製のフラットな鏡面と同じ感じなのだが、全身を映せたサイズの物と違って手の平くらいしかない。
頭の側にあるため、そこには、ティハラザンバーの顔が映っている。
「いや、こいつとか………」
のこちゃんは、ゆっくりと手を伸ばして、鏡を肉球の付いた指でなぞる。
まじまじと見れば、らんと光りを放つ二つの目に、牙が並んだ大きな口が特徴的だ。
怪人云々を抜きにしても、人間の感性からすれば、直感的に怖い顔である。
猫獣人さんことキットカッチェさんがビックリするくらいなのだから、恐らくここの獣人たちの中にあっても、なかなかの強面なのだろう。
のこちゃん自身も、自分の姿とは意識せず、不意に鏡を見たらギョッとする自信がある。
こうなると、例え奇跡的に元の世界へ帰れたところで、佐橋の家どころか、人類社会にのこちゃんの居場所は無いと確信できた。
「………………チャムケア、見たいな」
いつもなら、就寝の間際までは、チャムケアシリーズの録画やディスクを見返す時間である。
視聴中はその日にあったいやな事もつらい事も忘れ、明日もがんばろうという元気を得てから、心地よい入眠を迎えるのが日課だった。
近年ののこちゃんを支えていたのは、家族や友人たちに加えて、やはりチャムケアとの出会いだったに違いない。
しかし、命が助かる事と引き替えとは言え、のこちゃんは、それまでの生活環境一切を失ってしまった。
生涯で二度とチャムケアを視聴できなくなったのだ。
のこちゃんに残されたのは、もうティハラザンバーの身体だけである。
気が付けば、鏡の中のティハラザンバーの目からポロリポロリと雫がこぼれ落ちていた。
凶悪な面構えのティハラザンバーが泣いているのは、ギャップがあってちょっと面白かったらしい。
止まらない涙とともに、はははと、かすれた小さな笑い声がその口からもれる。
何度か小さな笑いをもらしたあと、のこちゃんは、しばらく黙って涙をながし続けていた。
『………………状況が状況だ、泣くなとは言うまい。
それに、戦うための技術や心構えを伝える事と併せて、余がまだ在る内ならば、君のグチにつき合うくらいはつとめられよう』
のこちゃんの様子を見かねたのだろう。
沈黙を破って、聖ザンバー=リナの声が優く話しかける。
のこちゃんは、その存在をすっかり失念していたのか、一瞬ハッとしてばつが悪そうに身じろいだ後、先の言葉へ甘える様におずおずと訊いた。
「聖女のお姉さん…消えるのは、怖くないんですか?」
『ふむ、余の生は、すでに終わったものなのだ。
未練は、大ティハラを討った時に捨ててきた。
それに、今の在り様は偶然の産物で、元の魂からすれば残滓に過ぎない。
君は、これからの自分のために…本当に些少ですまないのだが、余の事を可能な限り利用すれば良い』
「でも、聖女のお姉さんは、まだこうして話せるじゃないですか…」
『それと、可能ならばその聖女も止めて欲しい。
天空の女神様の天啓に導かれ、その御心のままに神威を示す旅も既に過去の話なのだからな』
色々と面倒を省けるので聖女と呼ばれる事を放置していたが、本当は面映ゆかったと、聖ザンバー=リナの声が生きて活動していた当時を振り返って語る。
辛口コメントが多い気がするものの、そんなまっすぐで謙虚な姿勢こそが聖女と呼ばれた理由なんだろうなと、のこちゃんは伝説の中で見たその勇姿を思い出した。
そう言えば、キラキラネームで苦労していた鈴木先輩は、元気だろうか…
「あっ!」
『突然どうした?』
呼び名と聞いて、聖ザンバー=リナの声へ、自分がまだちゃんと名乗っていなかった事に思い至ったのこちゃんである。
それに考えてみれば、ティハラザンバーとは言え、のこちゃん自身が変容を承諾した上で命を救われたのだ。
そのお礼もしっかり言えていなかったとなれば、それは、恩を仇で返すなと亡きお父さんに教えられた、のこちゃんの矜恃に反する事である。
何より、そんな中途半端な己の姿勢を自覚してしまった以上は、自分が許せない。
慌てて目元をぬぐい、のこちゃんは、ティハラザンバーを寝台の上に座りなおさせた。
「あ、改めてと言うか、今更なんですけど…命を救ってくれてありがとうございました。
こうして助けられているわたしの名前は、剣持虎の子っていいます。
できれば"のこ"と呼んでください………」
と言っている途中で、剣を持った虎の子供ってティハラザンバーそのまんまじゃんと重ねて思い至ったため、のこちゃんは固まってしまった。
成り行きにしても、何というシンクロニシティだろうか。
『こちらの都合もだいぶあったのだから、礼はいい………のこ、か。
分かった、君が人として生きていた証として、それを知る余だけはそう呼びかけよう。
とは言え、恐らく束の間の事となるであろうが、許せよ…のこ』
そんな聖ザンバー=リナの声で我に返ったのこちゃんは、せっかくなら前向きかつ友好的な関係を築きたいので、自分も呼びかけ方を考えたいと申しでた。
じっさんの反応からして、ティハラザンバーの名前は、魔の神獣とそれを討った白銀鎧の聖女伝説が由来らしい。
前半が大ティハラのことならば、お姉さんの名前がザンバーなのだろうかと尋ねるのこちゃんに、かつての聖ザンバー=リナの声は肯定する。
「聖ザンバー=リナかぁ………ティハラザンバーと被るから、ザンバーさんだとわたしが混乱するだろうしなぁ」
『聖女でなければ何でも良いぞ…のこ』
チャムケアで言えば妖精に当たるポジションだからと、"ザザ"や"ザンザン"、"ンバー"など次々に思い浮かぶ失礼この上ない発想を脳内で打ち消しつつ、のこちゃんは頭を捻る。
「ちなみに、リナさんだと?」
『そこは、天空の女神様へお仕えする者の意味で、名前ではないのだ…のこ』
「双剣と鎧兜をくれた神様ですよね?」
ティハラザンバーの身体には、その鎧兜だったものが、装甲として部分的に纏われている。
双剣もティハラザンバーの身体に合わせて大きな刀へと変貌し、今は、のこちゃん専用の押し入れっぽい結界空間の中に収まっていた。
『ふむ。
天空の女神様は、遥か天空の高みから地上の生きとし生けるものの平穏を願い、邪なる存在から我々を守ってくださる慈愛の女神なのだ。
かつての余は、それらの神器を賜り、尖兵として地上の安寧を脅かすあらゆるモノと戦って討ち滅ぼしていた』
のこちゃんは天空の女神を、記念すべきシリーズ第1作目である『チャムケア!』に登場した、チャムケアの力を主人公へ与える光勢の女王みたいな存在かと想像する。
光勢の女王と言えば、1作目だと頬杖をついた巨大な身体の女神であり、更に巨大な玉座へ座っている姿がCGで背景の様に描かれていたのだが、初代チャムケアの2作目『チャムケア!MarvelousHowl』の最終決戦では、傷ついたチャムケアを支援すべく敵ボスと真っ正面から取っ組み合ってくれた、シリーズでも特に頼もしい正義側ボスのイメージが強い。
「………それは、見守られていて心強いですねぇ」
『ふむ!その通りだ、のこっ』
聖ザンバー=リナの声が、誇らし気に相づちを打つ。
本当は"リナさん"ではなく"リナちゃん"の線で良い感じかも!と思っていたのこちゃんなのだが、実際に言ったら不敬と怒られそうなので、こちらもそっと却下した。
聖ザンバー=リナの声は、のこちゃんが独りになってしまった時、ティハラザンバーとしてやっていける様にいろいろと教えてくれると言っていた。
だったら、"師匠"や"先生"はさすがに硬すぎるとしても、そちらの方向で考えるはアリなのかなと思うのこちゃんである。
「"監督"や"コーチ"だと部活みたいだから、"トレーナー"?………う~ん」
寝台の上にドカリと座り、腕組みをしたティハラザンバーが低くうなり声をあげている様子は、端から見ればなかなかの剣呑さだろう。
本当の所は、のこちゃんが己のネーミングセンスに懊悩しているだけなので、かなりの落差があるのだが。
『とれーなーとは、どういう意味なのだ?…のこ』
何か琴線に触れたのか、聖ザンバー=リナの声が、不意にのこちゃんの独り言へ質問を挟む。
「あー、誰かを訓練とかして、そこそこ鍛えてくれる人、ですかねぇ」
『ふむ、それならば悪くないと思うのだが…のこ』
「え、そうですか?」
『何れ消えると分かっているのなら、軽く役目で呼ばれた方が、気が楽であろうよ。
それは、お互いにな…のこ』
「そ、そう…ですね」
聖ザンバー=リナの声改めトレーナーがそうしたいと言うのならば、のこちゃんに否やは無い。
「よろしくお願いします、トレーナーさん」
『ふむ、任せておけ…のこ』
ただ、のこちゃんが想定していたものより、少し重たい感じになってしまっただけである。
その後は、のこちゃんとトレーナーがティハラザンバーの訓練計画などについてあれやこれや話し合っている内に、鎧戸の隙間から光が差しこむ時間になってしまった。
のこちゃんの自己紹介以降は、腕組みをしたティハラザンバーが寝台の上に微動だにせず座り続けていたので、その姿を見た者がいたのならそういう休み方をしていると捉えたかも知れないが、実のところ少しも眠っていない。
「あれ?、全然眠くならなかったから気が付きませんでしたけど、もう朝みたいですね」
『恐らく、大ティハラの影響なのであろうな。
伝え聞いた話では、一ヶ月以上も、力の限り暴れ続けていた事があったそうだ。
或いは、その身に付属させた結界に蓄えられている余剰の力を尽きさせるまで、休息は無用なのかも知れぬがな…のこ』
「でも、それが尽きたらトレーナーさんも消えるって言ってませんでした?」
『ふむ、いつかは消えるのだ。
その時が早まるだけなので、あまり気にしない様に…のこ』
「いや、ダメじゃないですか!」
見知らぬ世界で傭兵をやらされるにしても、戦いにおいての指導はともかく、メンタル的に無条件で寄り添ってくれるトレーナーのフォローがあると無いとでは大違いだろう。
一息ついて冷静になった今、神獣・大ティハラ由来のパワーを秘めているとは言え、慣れないティハラザンバーの身体ひとつで無計画に突き進み、この先無事に過ごせるとのこちゃんにはとても思えない。
今後ティハラザンバーとして生きていかざるを得ないのこちゃんにとっては、トレーナーに少しでも長く存在し続けてもらう事が、必要不可欠となってしまったのだ。
なるべく消耗を避けるべく、次からは、回復の機会を逃さない様に心がけることを肝に銘じたのこちゃんである。
とは言え、眠くならないのは罠だよなぁと、心の中で愚痴ってしまうのは仕方がない。
夜が明けてしばらくすると、ジャガーの獣人ベニアが、約束した通りに部屋へ訪ねてきた。
今日から正式にティハラザンバーが魔刃殿で活動開始するに当たって、何処かへ顔を出さなければならないらしく、そこへはベニアが案内してくれるという話である。
昨日の毛並みがよく見て取れるトレーニング姿と違って、ベニアは、パニアに近い体へピッタリとした濃い朱色の服で上下を揃えていた。
足下はストレートのブーツであり、これなら"ブーツ状になっているティハラザンバーの足"も不自然ではないだろうと、密かに安堵するのこちゃんである。
「おはようございます、ベニアさん」
「おはよー、えーと…トマトザンネン」
「誰がトマトで残念ですかっ」
「トマトってなに?」
「ベニアさんが言ったんでしょう!」
「あ、そうかー」
面白いねぇと、ベニアがけらけら笑う。
「ティハラザンバーですよ………憶えづらいなら、オマエとかアンタとかでも良いですから、テキトーに言い換えるのやめてくださいね」
正直な所、のこちゃんにしても、ティハラザンバーの名前へ思い入れは無い。
だからと言って、更に別の名前で呼ばれていたら、訳が分からなくなって混乱する事は必至である。
実際、昨日は、じっさんに呼ばれてもしばらく自分の事と気が付かなかった。
「あははは、ごめんごめん、ティハラザンバーだよね。
もう忘れないから安心して…でも、アタシにそんな丁寧な話し方しなくて良いよ?
前にも言ったけど、猫系から育成組に行くのって、今はアタシとティハラザンバーだけなんだから、相棒みたいなモノでしょ!」
楽しそうに話すベニアの調子に、のこちゃんの気分もつられて軽くなる。
「うん、分かったよ、ベニア」
「あと、パニアおばさんから、これを預かってきたよ!」
ベニアは、抱えていた麻袋の様な、頑丈そうな包みをティハラザンバーへ手渡した。
ここでは何もかもが頑丈そうなのだろうかと、のこちゃんは、受け取った包みを見ながら素朴に思う。
「これは?」
「パニアおばさんが若い頃に使っていた、上着とズボンだって。
かなりダブダブなサイズを着たい時期があって、その頃の物だからティハラザンバーにも入るんじゃないか?って言っていたよ!」
どうやら、若い女の子がずっと背中とおしりを丸出しなのは如何なものかという、パニアの気遣いらしかった。
「………ありがとう」
丸一日を過ごしてしまった後で、白銀鎧に覆われていても、他所から見るとおしり丸出しだったのかと、なかなかの衝撃を受けたのこちゃんである。
『人間の感覚では、分からぬ事もあろうな…のこ』
そして、何気なく入る、トレーナーのフォローが身にしみた。
その上着とズボンは、黒に近い濃紺が時間の経過で色落ちした感じで、何かの革を素材に上下セットで誂えられた物の様だった。
ティハラザンバーの巨体が上着の袖を通せば、ゴワつきがあったものの大きすぎず小さすぎずで、難なく着用はできる。
ただ、袖口はアームカバーがある肘までで通過を遮られ、白銀鎧本体の立体的な構造に因って前も閉められない。
ズボンの裾も同様にブーツの形になっている膝部分でせき止められたものの、肝心なおしりは白銀鎧ごとスッポリと入りベルトで固定できたので、上半身はともかく、当初の目的を達成できたと言える。
「おお、このカラダにつんつるてんじゃないのは、スゴイかも…」
着終わった身体を捻ったりしゃがんだりさせて具合を見たところ、白銀鎧の邪魔にもならず、のこちゃんの感覚では特に問題もなさそうだ。
「どうかな、おかしくない?」
「カッコイイよ!
………でも、パニアおばさんにもこんな格好して意気がっていた時代があったのかと思うと、何か不思議だよ」
そんな事をしみじみと言うベニアに、意気がってる格好って何、不良っぽいってこと?と、のこちゃんは目を丸くした。
それは、亡くなったお父さんがやくざ者だった事で小学生の頃に良からぬ噂が立ち、クラスでお友だちができなかった経緯から無意識に警戒心を喚起させてしまう、ちょっとしたクセの様なものなのだろう。
確かに、のこちゃんの嗜好からすれば、派手さや独自の着崩しといった自己主張の強いファッションは、敬遠しがちだった。
とは言え、忌避したり拒否反応を起こすほどでもなかったのは、特撮ヒーロー作品の主人公"吉祥寺鐡"の影響を受けて、革ジャンに興味を持つくらいだった事からも分かる。
何より、現在に至ってはティハラザンバーの身体なので、すでに前提が違う。
瞠目したのも一瞬で、不良と言えば、シリーズ4作目に当たる『OK!チャムケア4!』の主人公たちのモチーフが、所謂ヤンキー物の人気マンガ『鎌倉爆走組』だったんだよなぁと思い出し、すぐにのこちゃんは目を細めた。
そして、おしりが隠れたんだから、まぁ良いかと流してしまった。
チャムケアさえ連想できれば、のこちゃんとしては、あらゆる事象が許容範囲なのかも知れない。
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「それで、どこへ顔を出しに行くの?」
のこちゃんは、道すがら、案内してくれているベニアに尋ねた。
「あー、うん………今回の育成組の面倒を見てるのが破壊牙々の頭でねー、じっさんと同じで、魔刃殿の初めの頃からいる長老格の一人なんだけど…何かと言えば、じっさんと揉める爺なんだよ。
それでねー………」
「はかいがが?」
「破壊牙々は狼系のクラスターだよ。
それで頭がそんなのだから、猫系とは折り合いが悪くてねー…
ティハラザンバーの事も、本当に育成組に相応しい者かどうか直々に試すって言い出したんだよ。
でも、それ、じっさんが推したってのが一番の理由だと思うんだよねー………」
これまで屈託なくきっぱりとした口調だったベニアが、言い辛そうに、歯切れも悪く説明をする。
要は、昨日じっさんに仕掛けられた様な事が、また別の者からくり返されるらしいという話であった。
軍団どうしの派閥争いがあるとやはり悪の組織っぽいよなと妙な感心をしつつも、また痛い思いをしなければならないとあって、のこちゃんの足取りは重くなる。
『ふむ、間断なく強者と相まみえる機会を得るとは、なかなか幸先が良いな…のこ』
時間は限られているのだから、これも貴重な経験になろうと、ウキウキとしたトレーナーの声が聞こえても気持ちはまったく上がらない。
のこちゃんが案内されたのは、別棟の建物で、やはり高い天井と大きな壁だけの殺風景な広い部屋だった。
恐らく、魔刃殿の施設には、こういった訓練に使えそうなスペースがあちらこちらにあるのだろう。
そして、ここの壁には、金属製のフラットな鏡面部分があった。
最初に通された部屋で見た物と同じくらいの大きさである。
のこちゃんは、早速、上着とズボンを着用したティハラザンバーの姿を映す。
確かに、アームカバーとブーツの箇所では袖と裾がぐしゃりとしているものの、どちらかと言えば怪人よりも獣人かな?という印象になっていた。
「おお、服の効果って、バカにできないんだなぁ」
『ふむ、高貴な者であろうと貧しき者であろうと、人としての尊厳を守る一線が、そこには等しくあるのだな…のこ』
おしり丸出しの件は、トレーナーも気にしていたらしい。
「ほら、ティハラザンバー、アイツだよっ」
ベニアが促した部屋の中央に立っていたのは、狼と思しき獣人の男である。
ティハラザンバーに近い長身だが、じっさんや同じ狼系獣人のタレンと比べると、だいぶ痩せて小さく見える。
ただ、背筋の伸びた自然な佇まいであり、艶のある薄い水色の毛並みが顔を覆っているため、パッと見た限りではその年齢がよくわからない。
モノトーンの柔らかそうな生地を使い、丈を長く誂えた詰襟の服をゆったり着こなすその姿は、武人と言うよりも舞を舞う者の様な雅やかさが窺えた。
狼系獣人のクラスターである破壊牙々を率いるというその男は、満月の様な色の瞳で、静かにティハラザンバーを見据える。
『ほう…これは…』
トレーナーが、言葉少なに、感嘆の呟きをもらした。
そんな雰囲気を醸されては、やはり相当な実力者なのだろうなぁと、のこちゃんも観念するしかない。
「よく来たな、ティハラザンバー…であったか?」
それは、嗄れつつも、輪郭のハッキリとしたよく通る声だった。
「あ、はい、よろしくお願いします」
のこちゃんは、剣道教室の先生へする様に、思わず礼をした。
「うむ、礼儀を知るのは、上出来と言えるか………耳にした素行と多少食い違いがある様だが、まあ良い。
我は、狼系の者たちの面倒を見ている、老矛という。
口さがない者は狼牙棒などと言うらしいが、それを黙らせるくらいの力はあるつもりだ」
「はぁ…」
初対面の時のパニアと似た様な事を言われたので、どんな噂が飛び交っているのか、想像すると不安になってくる。
それはともかく、なるべく痛い思いを避けたいのこちゃんは、不意の攻撃に備え、また意識を自分の周囲へと拡大して視野を広げる。
しかし、じっさんレベルの相手に対した場合、これもやらないよりはマシくらいな事でしかないと思うと、少し涙目となってしまうのだが。
「フフッ、そんな顔をするな。
我が今期の育成組を預かっているのでな、ここへ呼んだのは、お前の素養を見極めるためで、この手でやたら痛めつけるつもりは無いのだ。
白獅子のヤツと一緒にするでない」
そう言うと、老矛は、ティハラザンバーとベニアが入ってきた所とは別の出入り口に向けて手招きをする。
そこからは、また別の狼系獣人が姿を見せた。
「我の弟子でな、あの者がお前の相手をする」
それは、ベニアと同じくらいの背丈であろうか、訓練用と思しき軽装の服で身を固めた、光沢のある灰色の毛並みが印象的な女性だった。
しっぽも同様にピカピカモフモフで、のこちゃんは、ちょっとさわってみたくなる衝動を必死にこらえた。
あいつかーと、ベニアが呟いている所を見ると、知り合いらしい。
老矛の横へ辿り着いたその狼獣人の女性は、のこちゃんへ向かって、胸の前に両手を合掌させる。
「セイランだ………噂は聞いている。
強い者は歓迎するっ」
琥珀色の瞳をまっすぐに、簡潔にものを言う姿勢は、いかにも質実剛健そうである。
「ティハラザンバーです…」
のこちゃんは、礼をするにも頭を下げるより合掌の方が良さそうなので、セイランのそれに倣う。
その様子を見て、老矛が頷いた。
「相手の事も、よく観察する…か。
確かに、白獅子のヤツが推すだけの事はあるかも知れぬな…」
さて、と老矛は、のこちゃんへ話しを続ける。
「お前は、白銀鎧の聖女伝説に傾倒して、双剣を得物とするそうだな?」
正直な所、竹刀しか使った事ないけど、鎧とかと一緒に何か引き継いでましたとは言えずに、ええまぁと曖昧な返事をしておく。
「この場では使わず、立ち合いは、徒手のみとせよ」
ん?と、のこちゃんは引っ掛かった。
確かに、これといった能力やすごい経験のないこの身一つとなれば、頼りない事この上ないから徒手空拳ではあるのだろうけれど………
『ふむ、こやつは、素手で戦って見せよと言っているのだ…のこ』
「ああ、素手か!」
「体の動きだけでも素養は知れよう。
セイランもそのつもりで相手をする様に…なるべく、力を引き出してやりなさい」
「はい、老師」
セイランが老矛へ頷く。
「あー、でもわたし格闘技は、やった事無いんですよねぇ、トレーナーさん」
小さな声でのこちゃんが訴えると、これも経験だと、トレーナーは応じる。
『これまで通り相手の意識の流れを見る事それ自体は変わらぬのだから、自らの身体をどう動かすのか、できる限りイメージを掴むのだ。
慣れてきたら、こちらからも手を出して、相手の何処へどう攻撃するのかを咄嗟に組み立てられる様に試みる。
さすれば、今後の剣を使う戦いに於いても、必ず有用となろう…のこ』
具体的な取り組み方を聞いて、相変わらず説得されてしまうなぁと、変な感心をするのこちゃんである。
「では、双方、構えよ…」
適当な距離にセイランとのこちゃんを対峙させると、老矛は、立ち合いを開始させる。
「はじめっ」
緊張しつつも、すぐ意識を自分の周囲へと拡大して視野を広げるのこちゃんに対し、先ずは狼獣人の俊敏性を生かした飛び込みで、セイランが距離を縮めた。
続けて、左右の拳とバネの様に跳ね上がる蹴りが、一息にのこちゃんを襲う。
「わっわっわっ…」
のこちゃんは、セイランの放つ揺らめきの流れを見れていても、その機動力と瞬発力に翻弄され、ギリギリ避けるのが精一杯だった。
セイランの身体は、コマの様に身体を回転させて間断なく攻撃を繰り出すその間、一切ぶれる事がない。
それは、ふわりと宙に舞った際も同様である。
その美しい身のこなしから、揺らめきの流ればかりに注意していたのこちゃんの視界を、一瞬何かで奪う事を成功させた。
セイランの意識に関係せず躍動する、獣人のしっぽである。
間髪入れず、鋼鉄をも砕くが如きセイラン必殺の後蹴りが、ティハラザンバーに到達した。
大きな打突の衝撃で派手にはね飛ばされるティハラザンバーの身体は、空中でバランスを取り繕って、何とか足からの着地を果たす。
同時に、セイランも音もなく着地し、感心した様にほうと息を吐いた。
「ひーっ」
ちなみに、これは、のこちゃんの悲鳴である。
力強い揺らめきの流れに対し、のこちゃんは、かろうじて腕を交差させて攻撃を防いだのだ。
ティハラザンバーの胴体へセイランの蹴りは届かなかったものの、両腕に残る痺れが、アームガードを通してダメージが入っている事を証明していた。
つまりその悲鳴は、こんなのしのぎ続けられるか!という、のこちゃんの心情が吐露されたものだろう。
その瞬く間で交わされた両者の攻防に、老矛は満足そうに頷き、ベニアも目を瞠る。
「さあ、二人とも、続けなさい」
老矛が、立ち合いの続行を促した。
のこちゃんの絶望は、言うまでもない。
続きます。




