四
ふっとピアノ旋律がやみ、室内に静寂が満ちる。
グランドピアノの前に座るめぐみだが、しばらくの間天井を強く睨み付けた後、小さく溜息をついて譜面に目線を戻した。
何度も練習してきた曲のため、譜面を視ないでも暗譜で引くことが出来るのだが、それでも開いている譜面には色々なことを書き込んでいる。そのため、いつの間にやらボロボロになっているそれに、めぐみは今も何かを書き込もうとシャープペンシルに手を伸ばしかけていたのだが、それが形になる前に消されるほど強い旋律が頭の中をぐるぐると支配していた。
長々とした息を吐き出し、めぐみは軽く目を閉じる。
ポン、とめぐみは鍵盤を叩く。頭の中で弾けた音を弾いてみようと思ったのだが、すぐに消えてしまい再び息を吐き出した。
聞き覚えは無い。ただ分かっていることは、この曲が一度たりとも耳にした事のないものだということだけだ。
しかし……。
―この曲、知ってるんだけどなー。
不思議な音色。
それは、二つの音律が響く圧倒的な腕前を持つもの。ハープ、そしてフルートにも似た二つの音は、耳の奥で澄んだ曲を奏でている。
―ここでは、一日でも聞いたことないし……。
自分が知らないだけで、楽譜が出ている可能性もあるかもしれない。
けれども、それをはっきりと否定する自分がいる。
これは自分が作った曲だと、頭の隅で囁いている自分自身がいるのだ。
何度目か分からない溜息が、自然と漏れて出てしまっていた。
何かを、思い出しかけているのに……。
大切すぎることなのに記憶を掘り返そうとしても、まるで靄がかかったようにつかみ所がなさすぎるため、その理由や自分が体験したことを全く知ることが出来ていない。
それさえ思い出してしまえば、全てを知ることが出来る。
心の中にある形の無い記憶が開封されるが、それを開くことは危険だという警告も喚いているのだ。
どちらが正しいのかは、分からない。
けれども、自分はそれに手を出さなければならない。
その警告を無視し、自分はその何かを引きずり出さなければならないのも理解はしているのだが、何かが強く邪魔をして現実にいろと脅迫する。
きゅっ、と、めぐみは唇を噛みしめた。
いったい誰がそれを邪魔しているのだろうか。
自分の力では無く、誰か力を使ってめぐみの封印が解くことを許していないのだから、ひどく焦ったような気分に陥ってしまうのは仕方が無かろう。
思考に埋没していたため、めぐみは周囲への注意を怠っていたのは、常日頃の行動を考えれば珍しいことといえる。
「瀬尾野さん」
それ故かけられた声に、ビクッと、めぐみは身体を強ばらせた。
声の主はすぐに分かったのだが、あまりにも無防備すぎたがゆえに、声をかけられた瞬間驚きが強くめぐみの身体を締め付ける。
軽く深呼吸をした後、声の方を振り返っためぐみは軽く頭を下げた。
「お邪魔しています、小林先生」
「ここに呼んだのは私なのだから、そんなかしこまらなくてもいいわよ」
「はい」
苦笑を込めてそう言ったのは、高等部の音楽を担当する小林しずかだ。
小林は高等部だけではなく、中等部の音楽室にめぐみをよく呼びつけては、めぐみにピアノで奏でてもらい、弾いた曲チェックするだけではなく録音もしてくれる。無論とられたそれをめぐみにも渡してくれるのだが、高等部の生徒達に聞かせてはテスト問題に出しているらしい。
めぐみとしては腕前がまだまだという認識が強いため、そんな事をされても困ると言いたいのだが、出場するコンテストで常に一位をキープしているため、やれ天才だの神童だのと言われているのだ。たった一度だけではあったが、小林にそれとなくやめてくれといってみたのだが、一笑に付されてしまうだけでやめようという気配は全く無かった。
大人がそんな行動をとるということは、それを止めることが無いのは経験上よく知っているため、めぐみがそれ以上お願い出来るわけがない。
一定のリズムを刻みつつ近寄ってくる小林は、めぐみの行動に些か驚いたようだが、追求しようという態度は見せず、めぐみの傍らで歩を止めた。
「はいこれ」
そう言って小林が差し出したのは、古めかしい表紙の楽譜だ。
その本を見た途端、めぐみは破顔して頭を下げた。
「ありがとうございます」
「古い楽譜で原曲に近いものだけど、よくこの曲を指定したわね」
「だって、色々とアレンジされているものより、原曲を知りたいと思うのは当然じゃ無いですか」
「確かに、そうね」
めぐみの言い分に、小林は納得したように頷いた。
けれども、めぐみの隠れた本音としては、まさか家にあるはずの楽譜を見つけるのが面倒だから、という理由で小林にお願いしたのだ……。
めぐみの言葉に同意を示している小林には悪いとは思うが、楽譜の数が多い家の中から目当ての本を探し出すのは、一苦労どころの話しではない。
心の中で謝罪しつつ、めぐみは渡された楽譜をペラペラとめくる。
そんなめぐみの心情を知らない小林は苦笑を浮かべてみせる。だが、ふっと小林の雰囲気が変わった。
それに気付いためぐみは、真顔で自分を見つめる小林の様子に小首を傾げてみせる。
「何かあったの?」
「へ?」
「音が荒れていたわよ」
その指摘に、まずった、とめぐみが眉根を寄せた。
心の内側で燻っていたものが音に現れていたのだから、耳聡い人間には聞き苦しいものであったはずだ。
さすが、というべきなのだろう。この学園の音楽科を首席で卒業した女性の耳は、簡単にはだませなかったらしい。
「何時から聞いたんですか?」
「さっきよ。あなたが来たって聞いて、職員室に行く途中でね」
高等部の音楽室は防音は完璧と言われていたはずだが、どうにもそれは怪しく思えてしまうのは仕方なかろう。
軽く首を竦め、めぐみは小林の視線に自分の目線を合わせた。
「そんなにひどかったですか?」
「そうねー……聞く人が聞けば、それなりに、ってとこかしら」
ということは、それ以外の者にとっては聞ける音ということか、と、めぐみは内心でそうもらして大仰に息を吐き出す。
それなりの腕、と自負していたのだが、その考えを改めなければならない。それこそ、自惚れていたのだといわれているのと同様なことを指摘されれば、落ち込むよりも先に自分を叱咤するのは当然のことだろう。
「まだまだ、ってことだよね」
その呟きは小林に届いていないことを確認し、めぐみは自分の指先をじっと見つめた。
この指先が、あの旋律を奏でていたのは確かなことなのだ。けれども、いったい何時自分はそれを弾いていたのだろう。
「瀬尾野さん?」
思考に埋没しかけためぐみだが、呼びかけに何事も無かったかのように言葉を紡いだ。
「あーあ、まずった。
先生の耳はだませなかったのかー」
「現役の音楽担任を舐めないこと。
それで、やっぱり何かあったの?」
「ちょっと……ありました。
そっかー。やっぱ、心理的に怒っているんだー」
上を向いてそう呟きじみた独り言を放つめぐみを、小林は不思議そうに眺める。
その態度に、めぐみは照れくさそうに笑った。
「個人的に、あったまきている人間がいるんです」
そう、頭にきているのだ。
人の悪い笑みを浮かべた崇の顔が、めぐみの脳裏に浮かぶ。
絶対に、崇は何かを隠している。直感ではあるが、伊達に幼なじみをやっているわけでは無い。
まるで真実を隠しているような、それこそ僅かではあるのだが、崇の言動には違和感を感じとってしまう。そのため、めぐみとしては気分的に崇に向かってつのりたくもなるのは、当然のことといえよう。
しかし、崇にくってかかっかとしても、責任転換するんじゃねぇ、の一言で終わりなのは眼に見えている。
いつの間にか、沸々と怒りが湧いてくる。その感情が音に出ていたとは、相当自分は怒りをため込んでいたということに繋がるだけだ。
「音があぁも割れてるとなると、これ以上は無理ね。
今日は帰ってもいいわよ」
「はい」
確かに、小林の言うとおりだ。このままここにいても、奏でる曲の意図は伝わらないだろう。
今まで弾いていた譜面を閉じ、身軽にめぐみは立ち上がる。
鞄の中にいそいそと二つの楽譜をしまい込み、めぐみは茶目っ気に満ちた顔で小林を見上げた。
「そいでは先生。本日は音楽室と楽譜を貸していただき、ありがとうございます」
「別にいいのよ。出来ればもっと早くに探せれば良かったんだけど」
「我が儘言ったのはあたしなんで、気にしないでください」
「それより、お家の工事は終わったの?」
「明日の昼には終わるそうです。全く、防音室の壁の一部が壊れてたなんて思わなかったんですよね。
でも、明日から思いっきり家の防音室で弾けるんで、嬉しいでーす」
元気にそう答えためぐみの様子に、小林はクスリと笑い声をもらす。
そんな小林を見ながら、めぐみは軽く頭を下げた。
「じゃぁ、失礼します」
「はいはい。今度は荒れた音じゃ無いことを祈ってるわよ。
録音するのに、あんな風に弾かれたら困っちゃうからね」
あっさりと小林は自分の要望を告げる。
それに困ったように笑って、めぐみは今度は深々と頭を下ると、音楽室のドアを開けて来客用の玄関に向かった。
小走りに下駄箱に向かい、めぐみは先程渡された譜面の事を考えて、小さく鼻歌を歌いながら取り出した靴に足を突っ込んだ。
「崇ちゃん、おとなしく待ってるかなー」
勇一達と友人になったと言っていたが、どちらかといえば喧嘩相手を見つけたといった方が良い気がするのだが……。
それにしても、と思ってしまう。
中等部の生徒が、我が物顔で高等部の校舎を闊歩しているのは、些か問題では無いだろうか。
誰かに見つかったらどうするのやらと考えながら、めぐみは軽やかな足取りで崇との待ち合わせ場所に向かって歩き出した。