二
さざ波のような話し声が、廊下どころか城内に満ちあふれている。
その大半が不安を隠そうとする代物なのだが、時折事実を確認するための言葉も入り交じっていた。
「お聞きになったか?」
「不動明王の件であろう?」
「そうだ。人間界にて転生なされていたらしいが……」
「覚醒させたのは、摩利支天というではないか」
「全く摩利支天の奴め。己が力を過信しおってからに」
「しっ!余り大きな声では言うな。あのお方に聞こえてしまうぞ」
「しかし……、明王一族はどうするつもりなのだ?」
「愛染明王殿は、善見城からお出になられておらんからな。あのお方がこの城にいる限りは、そう簡単にはあの一族は動かんであろうよ」
耳に入ってくるのは、そんな話しばかりだ。
それを聞きながら、青年は侮蔑も露わな光りを瞳に浮かべて、小さな声を放った。
「己が保身の為にしか動けんとはな……」
闇のような黒い髪と瞳を持ち、精悍な容貌と贅肉の一欠片も見えない体躯を黒金色の鎧で覆った青年は、冷ややかな表情と瞳でゆったりと廊下を歩いていた。
身体からは他を圧する程に強い雰囲気を放っているため、青年の姿を視た者は即座に口を噤み、そそくさと道を譲る。
やがて、青年の前に巨大な扉が現れた。精緻な彫刻が幾重にも施され、見る者の視線を惹きつけるだけではなく、無言の重圧さを生み出すには十分な扉は、この城、善見城の主が座する場所に通ずるものだ。
当然の事ではあるが、扉の前に立つ屈強な身体を持つ兵士は、青年達の眼鏡にかなった神達だけであり、それ故に上官が現れた事により彼らは緊迫感をその身の中で走らせる。
そんな彼らなど眼中に無いとばかりに、青年はよく通る静かな声を扉の内と外に向けて放った。
「北方将軍毘沙門天。帝釈天様の名により参上した。
開門の許可を得たい」
それほどの間を開ける事無く、青年、毘沙門天の前でゆっくりと扉が音も無く開く。
頭を下げる兵達の横をすり抜け、毘沙門天は歩調を緩める事無くまっすぐに玉座へと近づいた。
すでに玉座には、毘沙門天が使える王が座っている。
定刻通りにこの玉座の間に来たはずだが、何やら考え込む事があったのだろう。瞼を閉ざし、外界すらも遮断している様子すらも見える主君の様子を見、毘沙門天は階の下で膝をついて頭を下げてた。
「毘沙門天、お呼びにより参上いたしました」
「うむ」
青年、毘沙門天よりは淡い漆黒の髪を揺らし、ゆっくりと瞼を開いて黄金色の瞳に青年の姿を認めた後、男は毘沙門天の背後に視線を移動させる。
一瞬怪訝な光りが毘沙門天の瞳に浮かぶが、すぐさまその理由を悟ると僅かに皮肉の色を瞳に浮かべた。
―なるほどな。
緩やかな足取りで近づいてくる一つの気配。
それは毘沙門天の背後で立ち止まると、優雅に膝をついて頭を下げる様が空気を震わせる。
「愛染明王、ただいま参りました。帝釈天様」
艶やかな女の声を聞き、いったいどのような表情をしているのか、と興味が湧いた毘沙門天は、チラリと目線をそちらに向けた。
何時もは凜とした雰囲気を身に纏っているというのに、今は憔悴の濃く出た青白い顔をしているため、彼女を知る神はその変貌に目を見張るだろう。唯一何時もと同じように見えるのは、深紅の珊瑚を砕いて染め上げたかのような朱い髪と、深紅の唇だけだ。
そんな愛染明王の姿だが、理由など簡単に察する事の出来る毘沙門天は、当たり前か、と心の内のみで呟く。
いつの間にか緊迫感に満ちた空気を、帝釈天がまるで切り裂くように冷ややかな声で愛染明王に声をかけた。
「愛染明王。此度の用件、分かっておろうな」
「はっ」
「明王一族の意向、聞いておこう」
その答え如何では、どうなるか分かっているな。
暗に含まれた意味を知り尽くしている愛染明王は、緊張で身体を硬くする。
人界において彼女の兄であり、明王一族の長でもある不動明王が覚醒した。それだけならば、すぐにでも天界側から不動明王に接触を図りその真意を確かめ、帝釈天に刃向かうのかと問い詰めていたであろう。だが彼は、よりにもよって天界の住人であり、それなりの地位にいた摩利支天を殺害したのだ。これは天界に対する立派な叛逆行為であり、帝釈天に刃を向けたと同義といっても良い事柄でしか無い。
その為に、明王一族の立ち位置は微妙なものとなった。
いくら闘う意思がないといった所で、一部の明王族の神達は燻り続けた不満を爆発させてもおかしくは無い。それ故に、現明王一族の長である愛染明王が、一族の者達をどのように説得し、そして一族全体の決断の意思を帝釈天に告げるためにこの場に現れたのだ。
一人の愛妾としてでは無い。明王一族の長である女を、毘沙門天はどう答えるのかとその答えに興味を抱きながら耳を澄ませた。
小さく息を飲み込んた愛染明王は顔を上げると、朱い瞳をまっすぐに帝釈天へと向けてはっきりとした声で断言した。
「明王一族が王、不動明王は、先の大戦の最中に亡くなりました。
故に、人界において不動明王の名をかたりし者は真っ赤な偽物。我等明王一族とは何ら関係ございませぬ」
そうはっきりと言い切り、愛染明王は拳を握りしめる。
不自然な沈黙が、その場に落ちる。だが、それを破るかのように、帝釈天が口を開いた。
「それは、明王一族全ての総意と受け取っていいのだな」
「御意」
「そうか」
どこか冷え冷えとした声音で、帝釈天は愛染明王を見つめる。
それを真っ向から受け止めた愛染明王の態度に、帝釈天はくっと口の端を持ち上げた。
二人のやり取りに耳を傾けていた毘沙門天は、なるほど、とこの場に呼ばれたことに対して内心で納得してしまう。それと同時に、何故自分だけがこの場に呼ばれたのかの理由を察した。
他の四天王がこの場にいれば、愛染明王の言葉に反駁を唱えただろう。ただでさえ、愛染明王が善見城にいることを良しとしていないのだ。冷静さを欠いた判断を下しかねないのだから、四天王を束ねる自分が呼ばれたわけは自ずと分かろうというものだ。
「よかろう。
だが、もしもお主の言葉に偽りがあり、明王一族が我が意に叛した時は……分かっておろうな?」
「無論でございます」
そう言って、愛染明王は深く頭を下げた。
「明王一族全て、帝釈天様に反することは無く、この天界の守り手として動くことを約束いたします」
「……よく分かった。
もう下がって良いぞ」
小さな安堵の吐息が、愛染明王の唇をついて出る。
先程以上に深々と頭を下げて、愛染明王がこの場から去るために優雅な動きで立ち上がり、衣擦れの音を僅かに立てながら歩き出した。
残された毘沙門天に眼を向け、帝釈天はごく当然のことのように話しを切り出した。
「毘沙門天」
「はっ」
「この事、他の四天王に伝えよ。お主がこの場で聞いたこと、包み隠さずに、な」
「御意。
ですが、帝釈天様」
「ん?」
「あの者を、この善見城に置いておくのでございますか」
一応の確認は、他の四天王の反応が分かっているからだ。
それ故の言葉に、帝釈天は思わずといったような苦笑を浮かべた。
「そうなるな。
あれがこの城に残れば、明王一族の叛意を押さえつけるのに役立つであろう」
「……増長天の怒りが、眼に見えますな」
「確かに。お主以外の四天王は、あれに余り良い感情を持ってはおらぬ故、その反応は当然のことであろうて」
クツクツと喉の奥で笑みをこぼし、帝釈天はくつろいだ様子で玉座に身体を預けた。
愛染明王がこの善見城にいることを良しとしない神達は多い。中でも筆頭にあげられるのは、四天王の一人である増長天だ。
だが、それは単なる増長天の感情面でのことであり、愛染明王がこの善見城にいる意味をきちんと理解はしている。だが、それでも愛染明王に対しての反感は、増長天の中で薄れることは無いのだろう。
ことあるごとに愛染明王を敵視している様子は、この善見城にいれば何時でも見ることが出来るのだから。
それは、この場にいる二人には簡単に想像できる事柄だ。
愛染明王の決断を話せば、理性では分かっているだろうが、増長天は渋面を押さえつけることは出来ず、舌打ちの一つをもらすことは確定事項といっても良い。
そんな反応を脳裏に浮かべつつも、帝釈天はごく当然のように言を綴った。
「とはいえ、このことはあれが望んだことだ。
今己が明王一族の元に戻るようなことがあれば、一族の神が反旗を翻す可能性があると分かりきっている。それ故に、ここに残る事が最良の選択だと判断を下したのだから、明王一族の長としては立派なものであろうよ」
「確かに」
この天界において、現在最強の兵力を有しているのは明王一族である。
あの大戦の折には、中立の立場を取って行く末を見守る事を決め、兵の一人も出さないと決断したのは、当時の長であった不動明王だ。
一族の行く末を考えた結果ではあり、他の神族から白眼視されようとも、不動明王は不敵な笑みと共にそれらを無視していた。
誰よりも一族のことを考えた長であった。だが、その行動や不敵な口調に反感を持つ神達も多く、何時裏切るものやらと不安を抱える神達がいたのも事実だ。
その為、であったのか。血気にはやった神達が、行動を起こしてしまったのは。
大戦のさなか、不動明王の姿が忽然と消えた。
慌てた明王一族が、眼を血ばらせて不動明王がいたであろう場所を重点的に探しだした結果、彼らが見つけたものは、べっとりと血にぬれた明王一族の長のみが身につけることを許された首飾りと、同様に血に染まった衣服の切れ端だった。
あの当時のことを、毘沙門天ははっきりと思い出すことが出来る。
帝釈天の手の神に殺されたのだというまことしやかな噂話しに、一触即発にまで高まった明王一族を押さえたのは、まだあどけなさの残る不動明王の妹姫であった愛染明王だった。
一族に叛意の証拠がないと示すため、そして一族の存続を図るために、彼女は帝釈天の愛妾としてこの善見城へとやってきた。
どこか乾いた瞳と、感情をそぎ落としたかのような容貌。
何時だったか、この善見城に訪れた際にみせていた、明るい笑みと生き生きとした瞳を持つ少女と同じ存在だとは、毘沙門天にとっては全く思えなかった。
一族の行く末を背負い、その一族が帝釈天に弓引かぬようにと、愛染明王は自ら意思で愛妾の地位に就いたのだ。
兄王の代わりに一族を守り、統治せねばならない重責を背負ったが故に、彼女は自らの心を殺してこの善見城に足を踏み入れた。どれだけの神達に白い眼を向けられても、あの時から感情が死んでしまった愛染明王には、決して届くことは無いのだろう。
「時に毘沙門天」
記憶を過去に向けていた毘沙門天は、帝釈天の声に現実立ち戻る。
顔を上げて主を見守る毘沙門天へと、帝釈天はどこか苦笑を帯びた声で話しを切り出した。
「日天が人界に赴くと言い出した」
「日天が、でございますか?」
「そうだ。
どうやら、己が子が犯した事に対し、責を取るつもりらしい」
その内容に、毘沙門天の口の端に冷笑が浮かびあがった。
「彼奴らの首を取ると息巻いていた摩利支天が出来なかったこと、そう簡単に日天にできるとは思えませぬ。
沙羯羅龍王や阿修羅王だけでならばいざ知らず、彼奴らの他にも天王に不動明王が覚醒しております故。
とはいえ、今の沙羯羅龍王に、日天が勝つことが出来るかどうかは、運のみが知っていることですが」
「今だあの者達を甘く見ていれば、確実に負けるであろうな」
当事者がいれば、その会話に異を唱えたであろう。
だが……。
「すでに、日天は人界に向かったそうだ」
「愚かなことを……」
毘沙門天の口調に、微かな苛立ちがこもる。
そんな毘沙門天の声を聞きながら、帝釈天は遠い目で呟くような声をもらした。
「……どうなるのであろうな」
帝釈天の独り言に、毘沙門天は複雑な思いを抱く。
あの大戦のおり以降、帝釈天はめっきり老け込んだように思う。
それはそうだろう。
帝釈天は友と呼んでいた男を殺し、最愛の娘も失ったのだから。
そして、自分も……。
追憶すれば、毘沙門天の胸が軋む。
だが、それを表に出すことなく、毘沙門天は次の命を受けるために沈黙を持って帝釈天の言葉を待った。
やがて、深々と息を吐き出し、帝釈天は毘沙門天に視線を戻す。
「下がっておれ」
そう命じられ、毘沙門天は深々と頭を下げて帝釈天の前から消えるべく立ち上がり、一定の靴音を立ててこの場から退いた。
後に残った帝釈天は、ゆっくりと瞼を閉じる。
どこか疲れたように身体の芯を玉座に預け、帝釈天は苦悩の色が濃い表情を浮かべた。