一
難しい表情で歩いている少女が、小さく溜息をついた。
それだけだというのに、それでも何かが引っかかるのか、難しい表情が浮かんでしまうのは仕方が無い。
「……うーにゅー」
思わず、唸るような声が漏れでてしまったのは仕方が無かろう。
どうしても気になる何かを思い出せず、引っかかりだけが日々大きくなっているのだから。
そんな声を聞き咎め、半ば呆れ顔で隣を歩く少年が少女を見下ろした。
「どうした?なんか悪いもんでも喰ったのか?」
「何であたしが、そんなおバカな事しなくちゃいけないの。
別に悪いものなんて食べてませんよーだっ」
膨れっ面でそう返し、二人はゆっくりとした足取りで家路に向かう。
道行く人がいれば、思わず振り返ってしまいそうな二人組だ。
漆黒と形容出来る腰以上はありそうな見事な黒髪。それとは対照的な白磁のような白い肌。整った可愛らしい容姿はまるで人形のようだが、それはクルクルとよく変わる表情によって打ち消される。制服姿でさえ絵になる少女は、何を着用しても誰もが振り返るだろう事は、容易に想像できる姿をいしていた。
もう一人は、整った容貌の持ち主なのだが、どこかきつい目つきの持ち主であり、その点が気にならないわけでも無い。けれども、どこか人を食ったような雰囲気が見え隠れしているため、そんな感想を打ち消してしまっている。一見すると、他人に反感を持たれてしまいそうにも見えるのだが、それは瞳に宿る生気によってかき消されていた。
人形めいた少女が、唇を突き出して反発するが、少年は苦笑を唇に刻むだけで相手にしようともしない。
それどころか、からかうような口振りで少女に話しかけた。
「なら、どっか具合でも悪いんじゃねぇのか。お前がそんな顔して悩む所見るのは、久しぶりだからな」
「あによそれ」
「いや、な、知恵熱だされちゃたまんねぇからな。とはいっても、お前にはそんなのあり得ん事だろうが」
その言葉に、少女の機嫌が徐々に下がっていく。けれども、それは何時もの事だと言わんばかりに、少年はおかしそうに口の端をあげるだけだ。
その様子に、少女は幾分か険を含んだ口調で少年に話しかけた。
「ひどくない、それ」
「そうか?となると……」
「何?」
「いや、何でも」
無い、と続けようとした少年が身体をくの字に折り曲げ、その様をふんと鼻先で蹴飛ばした少女は些か怒ったような声を上げる。
「崇ちゃん、あたしがその手の冗談嫌いだって知ってるでしょ。下品なジョークは、寿命を縮める結果になるよ。
それとも、ここで地獄に落ちたい?」
なまじ少女の顔が整っているために、その言葉は破壊的な迫力が生じる。
そして……。
完全に、少年にとっては、不意打ちだった。
少女の肘を腹にまともに受けてしまい、少年はしばらく呼吸を止めていたが、数回深い呼吸を繰り返して顔をしかめた。
「悪かった!悪かったと思うから、そう怒りを残面に出すんじゃねぇよ!
めぐみ!おいこら!」
少年、日野崇の声を、少女、瀬尾野めぐみは綺麗に無視して歩測を早めた。
そんなめぐみの子供っぽい仕草に、崇は一つ溜息を吐き出して肩をすくめてめぐみの後を追いかける。
「ったく、ちょっと待てって」
「やだ!どうして待たなきゃいけないの!」
「……ほんと、何苛ついてんだ?お前」
めぐみの語気の荒さに、幾分か驚いたように崇は軽く眼を見開く。いったい何だと聞きたいのだが、嫌な予感に駆られて崇はめぐみの背中を眺めた。
そんな崇の視線など意に介さず、めぐみはむっとしたように唇を引き結んでいたが、やがて憮然とした口調で崇に声をかける。
「あの、ね、崇ちゃん。この間の事なんだけど」
「この間?」
「そう。三校合同試合があった日」
「お前が応援じゃなくて俺を笑いに来た日だな」
ようやくめぐみに追いついた後、あえてのんびりとした口調で崇はそう告げたのだが、内容に毒がこもってしまうのはいた仕方が無い。
それを綺麗なまでに右から左へと聞き流し、めぐみは頭上を見上げながらポツポツと言葉を続けた。
「あの帰り、ここの所使ってる林、突っ切って帰ろうとしたよね」
ピクリ、と崇の身体が一瞬強ばる。だが、それを悟らせる事無く、崇は呆れた様子を隠そうともせずに肩をすくめた。
「何を言い出すかと思えば……」
大仰に溜息をついた崇が、コツンとめぐみの頭を小突いく。
それから、沈黙を守らなければいけない事実をねじ曲げ、崇は偽りの事実であり、強力な暗示をかけたはずの事柄を口にした。
「あの時、俺が負けたから、何かおごれっつぅて、回り道しただろうが」
「そう、だったよね。んで、公園でジュースおごってもらって……」
「なんか文句でもあるのか?
俺が勝ったらお前が、負けたら俺がなんかおごること約束しただろうが。
だから、回り道で帰ったんだろ」
「そう、だよね……んでもって、公園でジュース飲んで……」
「おごったモンが気に入らなかったのか?」
「そういうわけじゃないよ。
ただ、ね……」
「ただ?」
「あの時、あの林にいって、なんかあったような気がするんだ。
それに、誰かがそこにいて、んで、何かに巻き込まれて……」
「気のせいじゃねぇのか」
バッサリと切り捨てつつも、崇は内心で焦燥感に襲われる。
まさか、自分の神力が足りず、めぐみの中に封じた記憶が徐々に姿を現そうとしているのではないか。
それを押さえつけつついつも通りを心がけた崇の言葉を、めぐみは苦い笑みを浮かべて聞いていたのだが、やがて諦めたように肩を落とした。
「変、だよね、やっぱ。崇ちゃんの言う事で合ってるはずなのに……なのに、それが信じ切れないんだ。
ほんと、何だろ。疲れてるのかな……ここんとこ変な事件ばっかあるし」
はぁ、と短く息を吐き出しためぐみは、少し照れたように頬を染める。
その様子を観察しながら、崇は必死になって内心の動揺を押さえつけていた。
術は、完璧のはずだ。それとも、覚醒したばかりの自分では、めぐみの記憶を封じる事に対して神力が足りなかった、という事なのだろうか。
差し障りのない記憶を刷り込ませたはずだが、めぐみはあの時のことを自力で思い出そうとしている。
真実を、話すべきだろうか。
そう思いながら、脳裏につい最近仲間として認識されるに至った者達の顔を思い出していた。
彼等なら、こんな時にどう対応していただろう。
安定したとはいえなかった神力を使い、無理矢理に記憶をねじ曲げたのだ。その余波がどんな形になるのか。危険性を考えなかったわけでは無いが、それでもあれは不必要な記憶だったのだ。
もしも思い出したら、再びめぐみの記憶を書き換えるしか無い。
そんな風に思考へと埋没しかけた崇だが、わざと明るい声が耳朶を打ち付けられ、そちらへと意識を戻した。
「けど、崇ちゃんが、ここまで来るの珍しいよね。
なんで中等部の近くまで迎えに来てくれるの?」
確かに、矢沢学園と聖山高校までは少々距離がある。ましてや、中等部はバス停からそこそこ遠い場所に建てられており、崇が出向いてくるというのは疑問に感じても仕方が無かろう。
だが、この質問には、答えだけは用意してある。
すらすらと、でも事実とは少し遠い関係を崇は口にした。
「まぁ、お前の言うとおり、ここんとこやばい事件が多いからな」
「否定は、出来ないけど……でもまぁ、腑に落ちないというか……」
「んだよ。人が態々出向いてやってるんだ。少しはありがたがれ」
「はいはい」
崇のそれに一応は納得の態度を見せた後、ふと何かを思い出したようにめぐみは小首を傾けて崇に話しかけた。
「そういえば、いつの間に高橋先輩達と友達になったの?」
「この間の試合で、だ」
「へー。友達になる時間あったんだ」
納得はしづらいのだろうが、それでも一応めぐみはそれを受け入れると、顔を前へと向けた。
その態度に、崇は内心で安堵の吐息をつく。
これ以上つつかれればぼろを出し、めぐみの記憶が戻ってしまうかもしれない。その危惧を抱きつつ、崇は『あの時』の事を思い出していた。
☆ ☆ ☆
腕の中で穏やかに眠るめぐみを見下ろし、崇は僅かに苦笑を唇の端に刻む。
口を開かなければ、まだまだ幼いと言える顔立ちだ。だが、この幼馴染みの性格は斜め上どころか、曲がりくねって終着点が見えないのだから困ったものだといえる。とはいいながらも、そんな彼女に何度も助けられている崇としては、今更その性格を直せとはいわないのだが……。
それにしても、である。
摩利支天の姿が視えたらしいのだが、それはきっと気のせいだろう。
めぐみは普通の人間だ。ただ、少しばかり勘が鋭いだけの、普通の少女。
自分達の争い事に巻き込むのは崇の本意では無いし、なにより、この少女は自分が失ってしまった平凡な生活を送ってほしい、というのが紛れもない本心だ 。
「バカ娘……」
小さくそうこぼし、崇はゆっくりとめぐみの前髪を撫で付けた。
そんな二人を眺めている青年が、やがて重々しく唇を開く。
「その娘」
「んだよ。なんか文句でもあるのか、阿修羅王」
「いや、その娘、もしかすると」
「確証ねぇことぬかしてんじゃねぇよ。
第一、こいつが摩利支天の姿が視えたのだって、たまたまかだったかもしれねぇじゃねぇか」
「そうは言うがな」
眉根を寄せ、阿修羅王と呼ばれた青年はめぐみに視線を固定させる。
その態度を見た崇は、苛立たしげに言を綴った。
「昔からこいつは勘が鋭かった。今日もそれに従っただけかもしれないだろうが。滅多な事口にするなら、相手がお前でもやり合ってもいいんだぜ」
「おい、阿修羅」
「高橋達も、だ。変な勘ぐりはやめろよ」
殺気すらもが漂い始め、そこにいた者達が固唾をのんで二人の姿を交互に見つめる。
そんな空気に、心配を隠しきれず少女が二人の名を呼んだ。
「阿修羅、日野君……あの……」
「あのなぁ、俺達はどうこうするつもりはねぇっての」
「そうですよ。高橋先輩の言うとおりです。僕らだってその娘を巻き込むのは本意じゃないですから」
一番始めに口を開いた少女、天野那美の言葉を説明するかのように、少年達、高橋勇一と須田忍がそれぞれの意見を述べる。
それを聞きながら、崇は嫌そうに阿修羅を見つめ、次いで勇一達の顔を鋭い視線で射貫く。
炎の色をさらに燃やすかのような崇の瞳に、勇一は軽く息を飲み込んだ。
「これから先、こいつに干渉するような事があれば、潰すぜ」
「それは、命令か?」
固い声で、勇一は崇に確認する。
それを鼻先で笑いとばし、崇はめぐみの身体を抱え上げた。
そんな崇の態度を眺めつつ、阿修羅は軽く肩をすくめると、気になっていたのだろう事柄を口にした。
「……留意はしておく。
だが、その前に、一つだけ問う」
「あ?」
「その娘、お主にとってどのような存在だ?」
阿修羅の問いかけに、崇は間の抜けたような表情を浮かべ、何度か瞬きを繰り返してしまった。
どのような、というのは、崇としては説明するのにひどく難しい事柄だ。
めぐみは大切な幼馴染みであり、ありのままの自分を受け入れてくれる、希有な人間である。傍らにいることを許し、そして、自分の背中を任せても大丈夫な少女は、何時しか崇の側に無くてはならない人間として位置づけられており、このまま切り離すことが出来なくなっている存在になのだ。
それを改めて思い起こし、崇は不敵すぎる表情で阿修羅を眺めた。
「こいつは、俺の相棒だ。俺が認めた、な」
「なるほど」
そう呟き、阿修羅は失笑とも苦笑ともつかぬ笑みを見せる。
どこかおかしさすらも含んだそれに、崇は心底嫌そうに阿修羅に視線を投げかけた後、腕の中で眠るめぐみの顔を覗き込んだ。
☆ ☆ ☆
かなり強く袖を引っ張られ、崇は我に返った。
そちらへと視線を向ければ、拗ねた表情のめぐみが崇を見上げており、その様子に崇は苦笑を浮かべてるには十分なものだ。
「んだよ」
「何だ、じゃない!さっきから呼んでるのに、全然気付かないじゃん!」
ぷぅっと頬を膨らませ、幼子のようなめぐみの態度を見てしまえば、これ以上へそを曲げられては困るとばかりに、崇はあやすようにめぐみの頭を撫で付けた。
「わりぃ。それで?」
「……人の話し、聞いてなかったんだ」
ぼそり、とそう呟き、めぐみはふんと鼻先で崇の態度を無視すると、再び歩く速度を幾分か速めた。
年頃の娘だというのに、まるっきり幼稚園児の子供だ。疲れたように溜息を吐き出してしまい、崇はめぐみの背中に謝罪の声を投げつけた。
「悪かったっていってんだろうが。んな態度取るんじゃねぇよ」
「……崇ちゃんのバカ」
「あ?」
聞き捨てならないめぐみの言葉に、崇が僅かに片眉を引き上げる。
険の入った崇の空気を感じながらも、めぐみは臆する事なく先程はなった単語をもう一度告げた。
「バカ」
「……もう一回言ってみろ」
「何度でも言ってあげるよ!崇ちゃんのバカ!」
「て……てめぇー!」
「怒っても怖くなんかありませんよーだ!崇ちゃんがバカだから、そういってるだけでーすー」
「いっていいことと悪いことぐらい使い分けてみろ!俺がバカならお前もバカの仲間だろうが!」
「なんですってー!」
ギャンギャンとわめき散らす二人の姿を、時折通り過ぎていく人々が驚いたように眺めるが、すぐに視線をそらせて何もなかったかのように歩みを早めていく。
そんな姿すら気にもならないのか、崇とめぐみは激し言い争いを繰り広げながら、家路の道を間違える事なく歩んでいた。