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〈一〉夜闇の逢瀬・壱

 毎日着ている紺桔梗(こんききょう)の小袖を脱ぎ捨てて、濃藍(こいあい)の装束に袖を通す。色の系統は同じなのであまり代わり映えはしないが、こちらの方が幾分か生地が薄く動きやすい。普段は体格から女と悟られぬように、身体の厚みを出すため腰にまで巻いている布を取り去っているのも大きいだろう。胸元のサラシは巻いたままだが、それでもいつもよりは動作の制限を受けにくい。特徴的な銀髪は装束と同じ色の頭巾で、目元以外の頭部をすっぽりと覆って隠す。虚鏡(うつみ)の目印である仮面は、今日ばかりは付けられない。

 最後に忘れていたと言わんばかりに三日物(みっかもの)の饅頭を懐に忍ばせ、三郎はふうと前を見据えた。


「じゃあ、行きますか」


 声を置き去りにして、彼女の姿は夜闇に消えた。


 § § §


 昊涯国(こうがいこく)において、最も警備が厳重なのはここ、月霜宮(げっしょうきゅう)だろう。時嗣(ときつぎ)を始めとした貴人達が大勢いるのだから当然だ。そしてその月霜宮の中で更に忍び辛いのは、時嗣の住居である月霜(つきしも)御所。通常の警備だけでなく、時嗣の三人の守護、さらに同じ御所内に住まう日永(ひなが)昇陽(しょうよう)にも守護がいるのだから、侵入はほぼ不可能と言っていい。だが唯一、それを可能としうる者達がいる。

 守護御三家――羽刄(はぎり)、虚鏡、玉葛(ぎょくかつ)の三家から成る、時和(ときなぎ)とはまた違った能力を持つ集団。それぞれの家は時嗣の名の下に結束し、家同士に多少の確執や権力争いはあるものの、関係性は概ね良好と言える。御三家に生まれた者は常人を逸した身体能力と厳しい訓練により、普通の人間で構成された警備は物ともしない。

 御三家の人間同士であれば拮抗しうるが、御所内にいるのは守護の任に就いている者のみ。守護が最優先するのは主を守ることであり御所内の侵入者排除ではないため、やりようによってはその警戒網を掻い潜ることが可能だ。


 月霜御所の南側にある行雲(ゆくも)御所から侵入する三郎にとって、現在の月霜御所は比較的忍び込みやすい状況だった。

 まず、東風(こち)御殿。これは月霜御所内の東側に位置している。そして同じく南側には南風(はえ)御殿。三郎が昇陽の住まいである東風御殿に向かうには、この南風御殿の近くを通らなければならない。しかし御殿の主である環は子供達と共に紫明(しめい)御所に住んでいるため、現在は最低限の警備を残し無人だ。

 三郎にとって不都合だったのは、御所内に降り積もる雪。空模様を見るに今日は朝まで雪は望めそうになく、痕跡を残さないようにしなければならない。足跡を消しながらの移動は面倒で、東風御殿に辿りつく頃には緊張もあってか、すっかり気持ちが疲れてしまっていた。


 ――まだ起きてるはずだけど……。


 空は暗いが、床に就くほどの時間ではない。目的の昇陽だけでなく、菖蒲(あやめ)や日永が起きている可能性も高いだろう。


 ――昇陽様はどこかな?


 夜闇に紛れて御殿を探る。明かりの灯る部屋をいくつか確認すると、私室と思われる場所に昇陽の姿を見つけることができた。


 ――……何してるんだろう。


 部屋の中で一人、静かに座っている。外にいる三郎からその姿がはっきりと見えるのは、庭に面した部屋の障子が開け放たれているからだ。もう少し暖かい季節であれば何ら不思議ではないが、今は真冬。室内の火鉢のぬくもりは部屋に留まることはなく、相当寒いのではないかと思われた。


 その光景を見ながら、時々白柊が似たようなことをするのを三郎は思い出した。彼の場合は眠気覚ましらしいが、昇陽はどうなのだろう、と観察を続ける。しかし読書だとか、何か書き物をしているようでもなく、なら誰かと話しているのかと思いきや、室内には昇陽一人で守護すらいない。ただそこに座っているだけだった。

 よくよく見れば、昇陽の顔は苦しげに歪んでいるのが分かった。三郎は体調が悪いのかと思ったが、それならば守護が近くから離れるはずがない。しかし離れると言っても昇陽から見えないだけで、守護からは昇陽が見える位置にはいるはずだ。気配を完全に消しているのは、主に一人にしてくれとでも言われたからだろうか。そう考えると、昇陽の苦悶の表情は何かに思い悩んでいるような、そんな顔に見えた。


 ――雪丸(ゆきまる)様とのことが関係ある?


 三郎に思い当たるとすればそれだけだった。けれどただ座っているだけでは何を考えているかは分からない。何か決定的なことでもしてくれないだろうか――そう思った瞬間、三郎の背にぞわりと怖気が襲った。


「――……っ!」


 これはまずい、と三郎の額に汗が流れる。その怖気の正体が、何者かの視線だと分かったからだ。

 しかし気配を探っても、その何者かがどこにいるのか見当も付かない。どこから向けられた視線なのか、全く分からない。


 ――この人、やばい。


 明らかに自分よりも実力がある。こんなことができるのは御三家の人間しかいない。であれば、昇陽の守護だろうか。誰であれ完全にこちらの位置を悟られている。


 ――引くか、続けるか。


 三郎が捕まれば、その主人である白柊に迷惑がかかる。ならばせめて正体が知られる前に逃げるのが得策だ。

 だが相手は昇陽の守護・玉葛光明(こうめい)と思われる。もしくは日永の守護・玉葛丹生(たんじょう)か。どちらにせよ玉葛の人間であることに変わりない。この家は、御三家の中では特に集団の和を重んじる。正直に昇陽の様子がおかしいので確認に来たと言えば、見逃してもらえる可能性があるかもしれない。

 三郎としては、その方がいいような気がしていた。何故なら無事に逃げ切れたとしても、月霜御所に侵入者があったという事実は消えない。三郎や白柊の関与が明るみに出なかったとしても、月霜宮では騒ぎになり、今後同様の調査はしづらくなるだろう。


 ――でも、光明殿や丹生殿がこんなに手練とも思えないんだよな……。


 三郎は自分の未熟さを知っている。だから自分よりも腕の良い者はたくさんいるだろうと思っているが、ここまで実力差を感じる人間がそう何人もいるとは思えない。そしてそこまで実力差があるのであれば、今までに何度か会った時点で気付いているはずだ。とすれば、今自分を見ているのは光明でも丹生でもない上、玉葛以外の人間の可能性まで出てきてしまう。


 ――羽刄だけは嫌だな。


 自分と同じ虚鏡であれば、しこたま叱られるだろうがまだどうにかなる。しかし羽刄はだめだ、と三郎は唇を噛み締めた。

 羽刄は個人主義、それ故変わり者が多いと聞く。交渉次第では見逃してくれるかもしれないが、その代償としてとんでもない条件を吹っ掛けられたとしてもおかしくはない。


 ――撤退だ。


 たとえ月霜宮に混乱を招いたとしても、主人である白柊に迷惑をかけるわけにはいかない。視線を感じてから撤退を決めるまで、僅か数秒。悔しいが危険は冒せない――そう思って、三郎がその場を離れようとした時だった。


「――どこに行くんだ?」


 すぐ後ろから、声がかかった。

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