〈四〉憂いの未来
行雲御所内にある、小さな離れ。その縁側に腰掛けて、三郎は無心で手を動かしていた。
「――その案山子はまさか、日永殿じゃないだろうな」
主に図星を刺されどきりとしながらも、三郎は「えへ」と背後を振り返る。
「何が『えへ』だ。相手は時嗣の長子だぞ」
「どうせバレやしませんもん」
「だとしても、せめてその案山子の顔に日永殿の特徴を持たせるのはやめろ」
そう言って、白柊は三郎をじろりと睨みつけた。彼の言う日永の特徴とは、きりりと上がった力強い眉だ。三郎は今まさに、竹と藁で作った案山子の顔に、墨で顔の描かれた紙を貼り付ようとしていた。簡易的な絵だが、単純だからこそその特徴を見れば一目で誰だか分かってしまう。
三郎も主人にやめろと言われれば従う他ならず、「ちぇっ」と言いながら顔の描かれた紙をぐしゃぐしゃに潰した。それを見た白柊が何か言いたげな顔をしていたことに気付いたが、お小言は御免とばかりに話しかけることでそれを遮る。
「白様は日永様に甘いです。確かにあの場で白様に実害はありませんでしたが、あんなの誰も咎めなければどんどん付け上がりますよ?」
「ああいう手合いは正面から相手にしたところで面倒なだけだ。いいじゃないか、いっそ雪丸殿に失礼を働いてくれれば。琴殿が制裁を加えるかもしれん」
「あの姫宮がそんな殊勝な性格ですか? 雪丸様はご立派な方ですが……」
「自分が馬鹿にされたと感じれば何かしらするだろ」
そんなことあるものか、と三郎は思いかけたが、すぐに白柊の言葉の意味に気付く。
――なるほど、その時は琴様がそう思うように誘導するつもりか……。
我が主ながら性格が悪い、と三郎は肩を竦めた。確かにこの方法であれば、白柊が直接手を下さずとも、日永に罰を与えることができる。しかも次期時嗣となることが内定していると言ってもいい琴がやったことであれば、たとえ時嗣であろうと異は唱えないだろう。というよりも、そもそも時嗣は琴以外の自分の子供に興味がない。だからこそ、先程の場での日永の言動を咎めもしなかったのだ。
「――ところであれ、何なんですか?」
茶会の席でのことを思い出しながら、三郎は白柊に問いかけた。あれ、と特に説明はしなかったが、日永が雪丸と昇陽を近付けようとしていたことについてだと白柊には伝わると、三郎は知っていた。
「さあな。だが、あの企みには菖蒲殿も関与しているだろう」
三郎の期待どおり、日永の行動についての質問だと白柊には伝わったようだ。しかし彼の返してきた返事が意外で、三郎はきょとんとして首を傾げる。
「菖蒲様が?」
「でなければ日永殿が雪丸殿に指導を願い出た時に止めていたはずだ。それなのに満足そうに微笑むばかりで何もしなかった」
「そういえば……。でも、企みって一体……」
三郎に昇陽の観察を命じた一方で、白柊自身は菖蒲を観察していたらしい。しかし白柊が三郎に指示を出した時点で、いつもと違う行動を取っていたのは日永と昇陽だけだ。それなのにどうして菖蒲も怪しいと気付いたのだろう、と三郎は主人の思考に舌を巻いた。
そして同時に、疑問に思う。何故あの三人の中で、昇陽の観察を自分に命じたのか。偶然かもしれないが、白柊の性格を考えれば意味があってもおかしくはない。
そんな三郎の考えが分かったのか、白柊はにやりと口端を持ち上げた。
「恐らく、尻尾を出すとしたら昇陽殿だな」
白柊がそう結論付けたのは、三郎から彼の様子を聞いていたからだろう。それは三郎にも分かったのだが、どうにもこの言葉には含みがあるぞ、と顔を引き攣らせる。
「それは……つまり?」
「俺の守護はそんなことも言わなければ分からないのか?」
「わ、分かりますよう! つまり……そういうことですよね?」
「ああ、頼んだぞ」
――時和の力いらないんじゃないかな、この人。
まるで自分の心を読んだかのような発言。三郎が解釈を間違えていれば大事になりそうなものの、白柊がそれを懸念した様子は欠片もない。つまり彼は確信しているのだ、三郎に自分の意図が正しく伝わっていると。そして言葉に出さなかったのは、万が一にも誰かに聞かれていたら非常にまずいことだからだ。
「ていうか、そこまでする必要あります? 菖蒲様が絡んでるってことは、単に環様に嫌がらせをしたいだけってこともありません?」
「確かにな。だが菖蒲殿が何か企てているならば、この俺が警戒しないわけにはいかないだろう?」
そう言って、白柊は肩を竦める。彼の置かれた立場を知る三郎はその言葉を否定することができず、思わずしゅんとした表情になった。
それを見ていた白柊は少し困ったような顔をして、「今回はそれだけじゃない」と言葉を続ける。
「あの場で時嗣がおっしゃっていただろう? 『憂いあり』だそうだ」
白柊の言葉に「それは……」と返しながら、三郎は少し前のことを思い返した。
§ § §
茶会の終盤のことだ。雪丸が自分の言うことを聞いてご満悦の日永が演説を再開し、その場には再びうんざりとした空気が漂っていた。
一体いつ終わるのだろう――三郎が昇陽に注意を向けたまま辺りを窺うと、視界の端に時嗣の守護が主に耳打ちしているのが映った。
――お、終わりかな?
最後の料理が出てきてからは時間が経っているので、毒味に関する何かということはないだろう。ということは時嗣に次の用事を伝えているのかもしれない。主人の予定の管理は守護の仕事ではないが、時嗣にのみ複数いる他の守護から何か伝令があれば、この場にいる守護が受け取り時嗣に伝えることもあるはずだ。
三郎が退屈な時間の終わりに期待を膨らませていると、時嗣が手元の扇子を膝で打ち鳴らした。しかし口を開いたのは、彼の後ろにいた守護だった。
「時嗣はこれにて失礼いたします」
守護が短くそう告げると、誰の返事を聞くこともなく時嗣は立ち上がった。時嗣が急に帰るのも、守護がそれを伝えるのもいつものことだ。誰も不思議な顔をせず、ただ姿勢を正して時嗣を見送る。
「左様でございますか。本日はお忙しいところお越しくださり、厚く御礼申し上げます」
誰よりも早く、日永が時嗣に声をかけた。この場を仕切っているのは自分だと時嗣に印象付けたいのかもしれないが、彼の父は日永に一瞥もくれることなく出口へと向かって歩き出す。しかしすぐに思い出したかのように足を止めて、その場にいる全員に向かって一言、言ったのだ。
「憂いあり」
§ § §
数刻前の出来事を思い出しながら、三郎は困ったように顔を顰めた。
時嗣の言葉の少なさは有名だが、これは流石にいただけない。何故なら時嗣の言葉は重さが違う。彼は時和――それも未来を見ることができる能力を持っているのだ。
「せめて何に対する憂いか、言ってくれてもいいのに」
「無理だろう。国を揺るがす大事であれば別だろうが」
白柊の言葉は尤もだと思ったが、それでも三郎はどこか納得がいかなかった。
時和とは、未来もしくは過去を見通す能力を持つ者のことを言う。今代の時嗣は未来を読む時和だが、その読んだ未来について多くは語らない。何故なら多くの人間に未来が知られることで、その未来が変わってしまう可能性があるからだ。
何代にも渡って時和が治めているこの昊涯国において、その危険性は誰もが知るところ。最初に時和が見たのは小さい禍だったはずなのに、その未来を知って人々が行動を変えた結果、大きな禍となってしまったという記録がいくつも残っている。そのため時和は、自らの見た物に関して多くを語ることはできない。それは時嗣であっても同様で、先程の『憂いあり』は最大限の表現方法なのだ。
「あの場で言う憂いって、何があるんでしょう。やっぱりどなたかが体調を崩されるとかでしょうか? まあ、奥方同士の確執ってことも有り得るかもしれませんが」
「体調はともかく、妻達の内輪揉めだなんて小さなことで言われても困るけどな。あれが公の場なら大騒ぎになる」
「……だから白様は、菖蒲様達の企みを警戒しているのですか?」
三郎の問いに、白柊が薄く笑う。時嗣がわざわざ憂いを口にしたということは、妻同士の喧嘩では収まらない何かが起こる可能性が高い。ただの病であれば警戒しようがないが、誰かが故意に何かをしようとしてるのであれば、それを警戒するに越したことはないと考えるのが白柊だ。しかし白柊は時嗣と違って、未来を見ることはできない。彼の時和としての能力は、過去を見ることしかできないのだ。
だから白柊が憂いの内容を知る手段は、ただ一つ――情報を集め、推測すること。そのために三郎という手足を使い、それを行おうとしているのだ。たとえそれが、危険の伴うことであっても。
「……もしものことがあったら、骨は拾ってくださいね」
先程の『尻尾を出すとしたら昇陽』という白柊の言葉が三郎に命じていたのは、時嗣の三男・昇陽の調査だった。
しかしいくら白柊の守護とはいえ、時嗣の子という貴人を隠れて調査するのは許されることではない。特に昇陽の母・菖蒲は白柊を嫌っているため、下手をすれば嘘八百を並べ立てられ三郎の罪が重くなることもあるだろう。
こんなに危険なことをさせるのだから、もっと労って欲しい――そんな願いを込めて三郎が白柊をちらりと見ると、彼はなんでもないような顔をしていた。
「ああ、仏前に毎日饅頭でも供えてやるさ」
「……軽い」
三郎が口を尖らせれば、白柊はその猫のような目を楽しげに細めた。