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夢の終てまでも  作者: 木原式部
2.現実から目を背けて
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 ――身体が熱い。

 いや、違う。身体は冷たいのだろうか、と蛍は思った。

 身体の周りの温度が暑すぎて自分の体温が冷たく感じるのか、身体の周りの温度が冷たすぎて自分の体温が熱く感じるのか、どちらでもないのか、蛍には良く分からなかった。

 蛍はふいに小さい頃のことを思い出した。

 何の病気かわからないが、数日ずっと高熱が下がらなかったことがあった。

 今の感覚は、あの小さい時に高熱でうなされていた時の感覚に似ているような気もする。

 身体の体温は信じられないほど熱いのに、寒気で身体の震えが止まらない。

 自分は今、熱いのか寒いのかどっちなのか全くわからない。


 蛍は瞼を開いた。

 いつの間にか、自分は横たわっていたようだった。

 何かふわふわとしたものが自分の背中を受け止めているのがわかる。

 あの香椎という老人の豪邸の廊下や階段のカーペットのようでもあるが、それよりもさらにふわふわしていて心地が良い。

 ずっとこのまま横たわっていたい気持ちだ。


 身体は熱いのか冷たいのかよくわからないというのに、全然不快ではない。

 小さい頃に高熱でうなされていた時の感覚に似ているが、身体がだるいとか痛いとかいう感じではなかった。

 熱いという感覚も冷たいという感覚も、全てが心地よかった。


(――えっ?!)

 蛍は慌てて身体を起こした。

 まるで、重力が少なくなったかのように、身体を起こすのが楽だ。

(――ここは、どこだ?)

 身体を起こすと、果てしなく白い世界が広がっている。

 どこまでも白い。

 世界が雪か雲にすっぽりと包まれてしまったかのようだ。

 蛍は手や身体が何かに触れているのに気づいて、顔を下に向けた。

 あの「ふわふわしていて心地が良い」と思っていたのは、大量の真っ白い鳥の羽根だった。

 鳥の羽根が真っ白い世界の床一面にふんわりと敷き詰められている。


 ここは何て心地の良い世界なのだろうか。

 さっきまでいた香椎という老人の豪邸も居心地は良かったかもしれない。あの下に敷かれたカーペットの上はふわふわしていたし、ソファの座り心地も良かったし、紅茶も素晴らしく美味しかった。

 でも、今いる自分の世界は、あの豪邸よりも遥かに心地の良い世界だった。

 もし、本当に天国なんてものが存在するなら、まさにここがその天国なのかもしれない。


「――目が覚めた?」

 ふいにどこからか声が聞こえて来た。

 蛍が声のした方を振り返ってみると、突然目の前に紫がいた。

「――えっ?!」

 さっきまでは確かにただ真っ白い世界だけがそこにあったのに、紫はいつの間に自分の隣に来たのだろうか。

 紫の黒いワンピースに黒い髪に黒い瞳。

 真っ白い羽根の中に埋もれていると、その黒さがひときわ目立って見える。

 蛍が呆気に取られているのに、紫は相変わらず平然とした表情をしている。

 そして、あの赤い唇をゆっくりと動かした。

「ここが、夢の中」

「夢の中……」

 薄々そうだろうとは思っていたが、やはりここは夢の中だったのか。


 蛍は身体が身震いするのを感じた。

 夢の中とは、こんなにも心地の良い世界だったのだろうか。

 

 蛍だって、眠っている時も多少なりとも心地よさは感じる。

 でも、今自分がいるこの世界の心地よさは圧倒的だった。

 柔らかくてふわふわしていて、どこからともなく甘い良い香りが漂って来そうだ。

 蛍はふと、大学時代に初めて付き合った女の子を初めて抱きしめた時を思い出した。

 小さい頃に母親に甘えて抱きついた時の感覚とは明らかに違った。

 自分と同年代の女の子は柔らかくてふわふわとしていて、きつく抱きしめたら壊れてしまうのではないかと思ったが、そうではなかった。

 そして、身体からなのか髪からなのかはわからないが、ふわりと甘い良い香りがしてきた。

 あの時の自分、妙に興奮していたのにものすごく冷静だったな、と蛍は思った。

 胸がどきどして身体は熱いのに、抱きしめている女の子の髪の一本一本とか皮膚のきめの細かさとか、普段は目に付かない細かい部分が良く見えるのだ。

身体は熱いのか冷たいのかよくわからないという、今の感覚にも似ている……。



「――大丈夫?」

 紫に声を掛けられて、蛍は我に返った。

 自分の顔が赤面するのがわかる。

 まさか、自分が初めて付き合った女の子を抱きしめた時を思い出しているなんて、そんなの紫にはさすがにばれてはいないだろう。

 蛍がそう思いながら紫を見ると、紫は「大丈夫?」という言葉の割には対して心配していなさそうな無表情をしていた。

「――ごめん、ちょっとぼーっとしてしまって」

「いいのよ。初めて夢の中に入った時はそんなものだし。私たちみたいに夢を見ない人間が夢の中に入ろうとすると、初めは恐怖を感じるの。多分、今まで入ったことのない世界に行こうとするから無意識に拒否反応が出るのよ。でも、一旦夢の中に入ってしまうと、今度は今までの人生で一番心地よかった時を思い出すんですって」

 やっぱり、紫には全てが見透かされているのだろうか。

 蛍は自分の顔がますます赤くなるのを感じた。

「そっ、そうなんだ……」

「立てる? ちょっとこっちに来てほしいんだけど」

 紫は先に立ち上がると、蛍に手を差し伸べた。

 蛍が反射的に紫の手を取ると、紫の手はほんのり温かくて柔らかく、意外とふわふわとしていた。

 蛍は自分が初めて抱きしめた女の子をまた思い出した。

「こっちって、どこ?」

 蛍は紫の手を頼りに立ち上がりながら言った。

 そして、立ち上がった瞬間、周りの風景がまるで映画の画面が切り替わったかのように別の風景に変わったのを感じた。


(――えっ?!)

 あの真っ白い、どこまでも白い世界は、下にふわふわとした真っ白い羽根が敷き詰められた世界はどこへ行ってしまったのだろうか。

 今、蛍と紫が立っているのは、白いことは白いが、白い壁の大きな建物の前だった。

 蛍は辺りを見渡した。

(――学校?)

 白い大きな建物は校舎のようだった。校舎にグランドに花壇のある庭……。

 蛍と紫がいたのは、どこかの学校の敷地内のようだった。

 蛍があまりにも唐突な展開に戸惑っていると、ふいに紫が蛍の腕を掴んだ。

 紫を見ると、紫は校舎の影に隠れて、物陰から何かを見ている。

 蛍も紫の後ろから紫の見ているであろう方向を見た。


 グランドの隅に制服を着た少年と少女がいる。

 多分、まだ中学生だろう。二人ともあどけなさが残っている。

 少年は野球でもやっているかのように丸刈りで、少女の髪型はおさげだった。

 丸刈りの少年にお下げの少女って……。

 随分古臭い格好だな、と蛍は思ったが、周りを見ると、周りの風景も古臭いような気がした。

 停まっている車も見たこともないような角ばったデザインだし、ふと通り過ぎた誰かの服装も少なくとも今の若者はしないような格好だ。

(――もしかして)

 もしかして、ここは昔の、自分が生まれる前の日本の世界なのだろうか。


 蛍は紫に「ここは昔の日本なのか?」と訊こうとしたが、紫はあの少年少女に視線をやったまま動かないで、黙っていた。

 蛍も黙って紫と一緒に少年少女を見つめた。


 少年と少女は何やら楽しそうに話しながら並んで歩いていたが、ふと少女が何かに気付いて身を屈めた。

 少女が拾い上げたものを笑顔で少年に見せる。

 少女が拾い上げたものは一枚の真っ白い羽根だった。

(――羽根?)

 蛍はさっきまでいた真っ白い空間の下に敷き詰められた羽根を思い出した。

 そして、あの香椎という老人の枕元に飾ってあった羽根も……。


 少女は少年に羽根を渡すと、そのまま笑顔で手を振りながらどこかへと行ってしまった。

 少年も笑顔で手を振っている。

 

 ただの少年と少女の何でもない日常の一コマだ。

 なのに、蛍は少年と少女を見ながら、何とも言えない寂しさと悲しさを感じた。

 そして、やるせなさも。

 このやるせなさは何なのだろうか。

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