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夢の終てまでも  作者: 木原式部
2.現実から目を背けて
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 寝室のドアが閉まると、紫は立ち止まって蛍を見上げた。

「――名前」

「えっ?」

「そう言えば、あなたの名前聞いてなかった。名前は?」

「あっ……」

 蛍は紫から名刺はもらったが、自分が紫に対して一度も名乗っていないことに今更ながら気付いた。「青井蛍あおいけい。色の青いに井戸の井に、ほたるって書いてけいって読む」

「青井さんね、わかった。――あの老人が眠るまでちょっと休憩だから」

「休憩?」

 紫はさっきまでいた寝室の隣の部屋のドアを開けた。

 さっきの寝室よりも狭いが、豪華な部屋には変わらない。

真ん中に明らかに本革張りだとわかるソファセットがあり、ガラステーブルの上にはあの家政婦が置いたのかティーセットが置かれていた。

 紫はまるでここが自分の部屋であるかのようにさっさと入って行くと、ソファに座ってティーポットの中の紅茶をカップに注いだ。

 部屋の中にアールグレイの良い香りが漂う。

「あなたも座ったら? 飲むでしょ?」

「あっ、うん」

 紫は蛍の分のカップにも紅茶を注いだ。

 紅茶は蛍が目を見開いてしまうほど美味しかった。


「あの老人、もう睡眠薬飲まないと眠れないの。でも、薬飲んだらすぐに寝ちゃうから、もうちょっとしたらまたあっちの部屋に行かないと」

「あっ、うん」

 蛍は何と答えたら良いかわからず、とりあえず相槌だけした。

 この紫という女の子に訊きたいことはたくさんある。

 でも、何から訊けば良いか、どう訊けばよいのかよくわからない。

 そして、訊いてしまっても良いのかもよくわからない。

 このまま、いつもの通りに見て見ぬ振りをして過ごしていれば良いのだろうか……。


 蛍がそわそわした気持ちでいると、紫が蛍をじっと見つめ始めた。

「――何か言いたいこととか訊きたいこととかないの?」

「えっ?」

「さっきから、『えっ?』とか『うん』とかばかり言って、『これから何が始まるのか』とか『君は何者なのか』とか、肝心なことを全然訊いて来ないんだなって思って」

 やっぱりこの女の子は何者なのだろうか、と蛍は思った。まさか、自分の心を見透かしたとでも言うのだろうか。

「それは……。訊いて良いのかどうかわからなくて……」

「訊いて良いに決まってるじゃない。そのためにあなたを連れて来たんだから。でも……」

 紫は壁にかかっている振り子時計を見上げた。「でも、そろそろあの老人が眠った頃だから、あの部屋に戻らないと。口で説明したって良いけど、やっぱり実際に見た方が良いと思うし」

「実際に見た方が良いって?」

「とりあえず、またついてきて」

 紫はカップに残っていた紅茶を飲み干すと、立ち上がった。


 蛍は言われた通り紫の後ろについていって、再びあの香椎と言う老人の寝室のドアの前に来た。

 紫がさっきとは違いノックもせずにドアをゆっくりと開ける。

 部屋の中は薄暗かった。

車いすはベッドの横に移動していて、誰も座っていなかった。

 天蓋付きベッドのカーテンが閉められているので良く見えないが、紫の言う通り、老人はあのベッドの上で眠りについているのだろう。

 紫は何の躊躇ちゅうしょも感じさせないほど真っすぐに、老人が眠っているだろうベッドに近づいて行った。

 蛍は眠っている人の妨げにならないのだろうか、と思いながら紫の後を恐る恐るついて行った。

「――薬飲んでるから、余程大きな音を出さなければ起きないから大丈夫」

「えっ?!」

 紫が独り言のように呟いたので、蛍はまた自分の心を見透かされたのかと思い、びくっとした。

 紫は慣れた手つきでベッドの横の車いすを移動させながら、「あのイス、二つとも持ってきて」と視線で部屋の奥にあるスツールを指した。

 蛍がスツールを持って戻って来ると、紫は天蓋付きベッドのカーテンをそっと開けているところだった。

 蛍が紫の後ろから覗き込むと、さっきの香椎と言う老人が心地良さそうに眠っていた。

 紫の言った通り、ぐっすりと眠っていて起きそうな気配はない。


 蛍は眠っている老人の枕元が気になった。

 何やら写真立てのようなものが枕元に置かれてあるのだ。

 でも、その写真立てに入っているものは写真ではなかった。

 ――真っ白い一枚の羽根だった。

 羽が写真立ての中に入って、老人の枕元に飾られているのだ。

 どうして羽根なんてここに置いているのだろうか、と蛍は妙に気になった。


「――それじゃあ、始めようかな」

 紫は蛍が持ってきたスツールに座ると、蛍を見て蛍にも座るようにと目で合図した。「これから何が起こっても、そこから動かないで」

「えっ?」

「初めてだから色々と慣れないと思うけど、すぐに慣れるから」

「えっ?」

 それってどういう意味? と蛍は訊こうとしたが、紫が自分から「もう、何も言わないで」と言わんばかりに視線を逸らしてしまったので、何も言えなくなってしまった。


 紫は蛍が持ってきたスツールに座ると、ぐっすりと眠っている老人を真っすぐ見た。

 紫のこの姿勢の良さ、にじみ出る気品といい、小さなスツールがまるで大広間の豪華な長椅子か何かに見える。

 薄暗い室内と相まって、まるで絵画か何かのようだ。

 蛍が思わず紫の姿に心奪われてしまっていると、やがて紫はゆっくりと瞼を閉じた。

 紫が瞼を閉じた瞬間、蛍は自分の心の中に冷たい風のようなものが通り抜けたような気がした。

 ――今のこの感じ、一体何なんだろう。

 蛍は気になりながらも、紫を見つめ続けた。

 紫は瞼を閉じたまま動かない。

 ベッドの上の老人も動かないし、周りのイスやベッドも動かない。

 部屋の中のものは何一つ動かなかったし、何一つ変化しない。

 なのに、蛍は段々と自分の心の中に「変化」が生じていることに気付いた。


 ――怖い。

 自分でも良く分からないが、何か心の中に言いようのない恐怖が芽生え始めている。


(――どうして? 一体何がこんなに怖いんだろう)

 紫や老人に何か変化があったわけではない。蛍は辺りを見渡したが、俗に言う幽霊みたいな気配はない。

 なのに、心の中に言いようもない恐怖を感じるのだ。

 ――ここは危険だ、離れろ!

 まるで、誰かがそうやって警告を鳴らしているかのようだ。


 蛍は最初、その言いようのない恐怖を気のせいだと思って見て見ぬ振りをしようとした。

 でも、恐怖の感情はどんどん大きくなって来る。

 ここにこのままいたら、自分が死んでしまうのではないかというほどの恐怖……。

 胸がどきどきする。

 誰かに水を掛けられたかのように、身体中から冷や汗が吹き出して来る。


「――!」

 蛍は恐怖の感情に耐え切れなくなって、無意識にスツールから立ち上がった。

(――早く、早くここから逃げないと!)

 良く分からないけど、このままでは危険だ、自分が危ない。

 蛍がその場から走り出そうとすると、紫の瞼がはちっと開いた。

 蛍は紫の瞼が開いたのに気付き、紫がさっき言った「そこから動かないで」という言葉も思い出したが、居ても立っても居られなかった。

 蛍が後ろを向こうとすると、紫がものすごいスピードで蛍の腕を掴む。

「――そこから動かないでって言ったでしょ?!」

 小さいがはっきりと聞き取れる厳しい口調だった。

「だって、怖いんだ……。俺、このままだと……」

 蛍は乾いた唇を必死に動かして何とか言葉を発した。

「逃げないで!」

 紫は蛍を掴んだ腕を思いっきり引き寄せた。紫のあの憂いを含んだ黒い瞳が一気に近くなる。

「――!」

 紫とぶつかる……。

蛍は反射的に瞼を閉じた。

 そして、耳元のすぐそばで、紫が呟くように言った言葉を聞いた。

「『夢』がどういうものか、これから見せてあげる」

「――夢?」

 そうだった、あのベッドの上の老人は紫に「今日も『あの夢』を見せてほしい。いつもの夢を」と言っていた。

 紫は老人に夢を見せ、そして、自分にもその「夢」を見せると言うのだろうか。

 自分が今まで一度も見たことがない「夢」を……。

 蛍は薄れていく意識の中で、そんなことをぼんやりと考えていた。

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