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夢の終てまでも  作者: 木原式部
再び、夢の終てまで
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「――目を覚まして!」 

 蛍はぱちっと目を開けた。

 暗闇に包まれていた視界が、段々とはっきりしてくる。

 ばらばらになっていた白いものが少しずつ形になってくると、その白いものが紫の顔だと気付いた。

「――あっ」

 蛍は紫の泣きそうな表情を見ると、思わず声を上げた。

「良かった……。なかなか目を覚まさないから、どうしようかと思って……」

 やっぱり、自分は夢の終てに吸い込まれそうになっていたようだった。

「ごめん、心配かけてしまって。それで……」

 蛍が身体を起こそうとすると、今度はものすごい力で右腕を掴まれた。

 蛍が驚いて振り返ると、稔が自分の腕を掴んでいる。

 蛍は稔の表情を見て、息を飲んだ。

 今にも自分を殴り倒しそうな、そんなものすごい形相で自分を睨みつけている。


(――どうして?)

 稔は睡眠薬とブランデーを飲んで、朝まで起きないはずではなかったのか。

 蛍はその時になって、やっと部屋のカーテンの隙間からぼんやりと明るいものが差し込んでいることに気付いた。

(――もう、朝なんだ)

 どうやら、自分は思っていたよりも長い時間、ずっと稔の夢の世界を彷徨っていたらしい。


「やっと目を覚ましたな」

 稔は蛍の胸倉を掴んだ。「不法侵入だぞ、警察に突き出してやる」

 稔はそのまま蛍を立ち上がらせようとしたが、紫が間に入って来た。

「やめて! 私が部屋の中に入れたの。私がお願いしたの。彼は悪くないわ」

「ここは元々僕の部屋です。僕に許可なく入ったら、不法侵入じゃないんですか?」

「ここは私のパパがあなたに買ったマンションよね? だとしたら、娘の私のマンションでもあるんじゃないの?」

「でも、住んでいるのは僕です」

「私も住んでるじゃない」

「とにかく、警察を呼びます」

「待って! その前に私の話を聞いて! さっきから、説明しているのに、どうしてわかってくれないの?」

「僕の夢の世界にあなたのお母さまの意識があるから、この男に僕の夢の世界へ侵入させようとした、という話ですか? そんな話、誰が信じるんですか? それにどうしてあなたのお母さまの意識が僕の夢の中にいるんですか?」

「だって、ママが寝たきりになる前に最後に会ったのはあなただから、あなたの夢の世界にママの意識がある可能性が一番高いもの。私は何度かあなたの夢の世界へ行こうと思ったけど、なぜか行けなかったの。だから、彼にお願いしたの」

「だから、この男をここに侵入させたということですか? そんなこと、誰が信じるんですか?」

「どうして、私の言うことを信じてくれないの? この間もそうだったわよね? 私が警察呼ばないでって言ってるのに、勝手に警察呼んだし。パパも同じ。どうしていつも、私の言っていることを見て見ぬ振りするの?」


 ――見て見ぬ振り。


 蛍は紫を見た。

 夢の中で見た桐子と同じ姿の紫が、悲しそうな表情をしている。

(――同じだ)

 紫は夢の中の桐子と同じだ。

見た目が同じ、という意味ではない。苦しんでいるところが同じなのだ。

 紫も父親の幸樹と稔が見て見ぬ振りしていることに苦しんでいる。

(――このままでは、このも夢の中の母親と同じになってしまう)

 このまま幸樹と稔の見て見ぬ振りが続けば、紫の母親の桐子と同じように「夢の終てに行ってしまいたい」と思うようになるかもしれない。

 もちろん、この考えは大げさかもしれない。

 でも、紫が幸樹と稔の見て見ぬ振りに苦しんでいるのは確かだ。


 ――じゃあ、今、あなたが本当は何をすればいいのか考えてみて。


 夢の世界で聞いた、桐子の言葉が頭を過る。


 ――あの娘がやってほしいことはもっと他にもあるはず。考えてみて。


 でも、それって何なのだろう。

 蛍は紫と稔が激しくやり取りしているのを見ながら考えた。


 ――あなただったら、わかるはず。


「――どうして、私の言っていることを理解しようとしないの?」

 紫の声に蛍は我に返った。

 蛍は気づくと反射的に紫と稔がやり取りしている間に割って入り、稔を突き飛ばしていた。

「――あっ」

 蛍は稔を突き飛ばしてしまった自分の手のひらを見つめた。

 無我夢中だったけど、まさか自分がこんな暴力に似たことをやるとは思わなかった。

「――不法侵入の次は暴力か?」

 蛍に突き飛ばされて床に倒れ込んだ稔が立ち上がる。

 稔は元々自分よりも背が高い。こうやって自分の目の前に立っていると、思っていた以上に大きく感じる。

 でも、蛍には稔がただ大きいとしか感じなかった。

 大きいからと言って怖いとは限らない。

 よくわからないけど、自分の身体の中に力がみなぎって来るのを感じる。

 今、近くにいる紫がこれ以上苦しむことを考えたら、稔のことがなぜか怖いと感じられなくなった。

 自分でもどうしてそういう気持ちになったのか、不思議だ。


 稔が再び蛍の胸元を掴んだが、蛍はその手をすぐに払いのけた。

 稔が一瞬、戸惑った表情をする。

 蛍は近くにいた紫の手を掴んだ。

 さっき払いのけた稔の手の感触とは全然違う。柔らかくて、温かい。

 紫の手の平の感触に、蛍の心に新たな力が漲ってくるようだった。


「――行こう」

 蛍は紫の腕を引っ張ると、歩き始めた。

「えっ?」

「待て、逃げるのか?」

 稔が蛍の肩を掴んだが、蛍はまた稔の手を払いのけた。

「もう、このをここにはおいておけない」

「何だって?」

「お前のところにこのはおいておけない。だから、この娘と一緒にここから出て行く」

「君は何を言ってるんだ? 紫お嬢さまは自分の意志で僕のところへ引っ越して来たんだぞ?」

「この娘の意志、ですか?」

 蛍は首を横に振った。「あなたがこのを脅したんですよね? 『僕と結婚すれば、お母さまが寝たきりになった日に何があったのか教えます』って。汚いやり方だ」

「何を言って……」

「この娘が母親の意識を取り戻そうとしていることを利用して、この娘を無理矢理自分のものにしようとしたんでしょ? 汚いやり方だって言ったんです」

「紫お嬢さまは元々僕の許嫁だったんだ、結婚するのも一緒に暮らすのも当たり前だろう。このマンションだって、そのために……」

「この娘が嫌がっているのに? この娘の本当の気持ちを見て見ぬ振りして? そんなひどい人間にこの娘は渡さない」

「いい加減なことを言うな」

 稔が蛍の掴んでいるのとは反対の紫の腕を掴んだ。「お前が紫お嬢さまを連れて行って、何ができる? 財力も仕事もないお前にお嬢さまを守ることができるのか? 幸せにできるっていうのか? お前にこそ、お嬢さまは渡さない」


「うるさい! 少なくとも、お前やこの娘の父親みたいに、彼女の気持ちを見て見ぬ振りするような人間よりは彼女を理解できるし、幸せにできる。――そうだろう?」

 蛍が紫に顔を向けると、紫ははっとした表情をした。

「あっ……」

「夢の世界で、君のお母さんに会ったよ。『もう少ししたら戻れるかもしれない』って。あと、『あの娘を悲しませないで』って言われた。だから、もう、君を悲しませたくないんだ。君のお母さんのためにも、君のためにも」

「ママが……」

「だから、自分の目的のためとは言え、自分の嫌なことはもうしないで。君のお母さんが意識を失う前に何があったのか知らなくたって、君のお母さんの意識は戻るよ、絶対に。でも、今、君が自分の嫌なことをしていたら、君のお母さんの意識は戻らないかもしれない。――だから、行こう」

 蛍が再び紫の手を引っ張って歩き始めると、紫が自然と自分と同じ方向へ動き始めたのがわかった。


「待て!」

 稔が大きな声を上げて蛍の腕を掴んだが、今度はそれを紫が振り払った。

「葉賀さん」

 蛍が後ろを振り返ると、紫も背を向けていたので、紫の表情は見えない。

 でも、声の震え方からして、紫が泣きそうになっているのはわかった。

「紫お嬢さま、行かないでください。僕は本当にあなたが……」

 稔が紫の腕を掴んだが、紫はその手も振り払った。

「違うでしょ? あなたが愛しているのは私じゃない。あなたが愛しているのはあなたの夢の世界の夢の終てへ行った、私のママ」

「いえ、違います。僕が本当に愛しているのは……」

「そうやって、私の言っていることにも、自分の気持ちにさえも見て見ぬ振りする。せめて、あなたが『あなたのお母さまが一番好きだけど、あなたも好きです』って、せめてそう言ってくれたら、自分の気持ちに正直に言ってくれたら、私だってあなたをこんなにいやにならなかったのに」

「紫お嬢さま……」

「私はあなたが好きだったのに、私が初めて人を好きになったのはあなただったのに、その気持ちを踏みにじって、私の心を離れさせたのは、あなた自身。あなた自身の弱さがそうさせているの。あなたが私からも自分の気持ちからも見て見ぬ振りする、その弱さがそうさせたの。パパもそう。パパもあなたみたいな弱さがなければ、ママもあんなことにならなかったのに。あなたとパパの弱さが、ママをあんな風にさせたのよ!」

「――」

「さようなら。やっぱり、私はあなたとは一緒にいられない、あなたとは結婚できない」

 

 紫は稔に背を向けた。

 紫の表情にはさっきの声の震えを感じさせる表情は見られなかった。

ただ、普段と同じ無表情を浮かべているだけだった。

 いや、違う。

 紫は蛍と目が合うと、ゆっくりと笑顔を見せた。

 夢の世界で母親の桐子が見せたような、あのうっとりと見惚れてしまうような笑顔を見せた。

「――」

「行きましょう」

 紫は蛍の手を握り返した。

 もう、稔は蛍の腕も紫の腕を掴まなかった。

声も発しなかった。

 蛍は紫の手を引っ張ると、紫と一緒に部屋を出て行った。

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