⑤
稔はまだ帰って来てはいないようだった。
耳を澄ますとぱたぱたと部屋を移動する足音が聞こえる。紫がブランデーや睡眠薬を元の場所に戻しているのだろう。
そう言えば、夕食はどうするのだろうか。
紫は自分の母親の弁当を食べるのだろうが、稔はどうするのだろうか。
紫が稔の夕食を作るとは思えない。
蛍が考えを巡らせていると、さっきまでの紫の足音とは明らかに違う足音が聞こえて来るのがわかった。
蛍の身体に緊張が走る。
稔が帰って来たのだ。
「――帰りました、お嬢さま」
稔の声が聞こえると、蛍は自分の緊張がピークに達したのがわかった。
握りしめた手のひらに、汗がにじんでいる。
稔が紫の部屋に隠れている自分に気付くかもしれないという、それ以上の緊張を感じているのがわかる。
そう、自分は紫と稔の二人きりの会話をこっそりと聞いてしまっているのだ。
紫は自分が隠れていることは知っているが、稔との会話を聞いているということは知らないかもしれない。
そして、稔は自分の存在も知らないし、会話を聞いていることも知らない。
男女の二人きりの会話を聞くなんて機会、滅多にない。
しかも、その会話が紫と稔の会話なのだ。
その事実が自分に隠れている以上の緊張感をもたらしているのだ。
「――」
紫は稔の「帰りました」に返事をしなかった。
自分が聞こえないだけで態度で何かしらの返事をした可能性もなくはないが、相変わらずぱたぱたという紫の足音らしい音だけが聞こえて来た。
「夕食はどうされますか?」
「まだ食べてないけど、青井さんのお母様からお弁当を頂いたの」
「それで良いんですか? 僕に遠慮しないで、食べに行ったり頼んだりしても良いんですよ?」
「別に遠慮なんてしてないし、それに青井さんのお母さまのお料理、美味しいから」
少しの間、沈黙があった。
「そうなんですね」
「そうよ」
「あなたみたいなお嬢さまが、他人の家の家庭料理を美味しいなんて言うのは、面白いですね」
「何も面白いことなんてないけど。私にとっては、母親が作るみたいな普通の家庭料理が一番美味しいの。パパにもそれ言ったのに、ママには料理も何もさせようとしなかったけど」
「あなたのお母さまの立場だったら、特に何もしなくても良かったとは思いますけどね」
「ママは何かしたかったみたいよ。妻らしいこととか母親らしいこととか。それが直接の原因ではないけど、何もさせてくれないのもいやで、ママはパパのところから出て行ったんだから」
「あなたのお父さまはお母さまにただ傍にいてもらえれば良かったんですよ。あなたにだって、ただ傍にいてもらいたかっただけなのに」
「だから、パパはママがあんな状態になっても、特に何も感じてないみたいだし、むしろ何も言わないし逃げもしないから、嬉しそうなのね」
「お父さまはお母さまがあんな状態になって、とても悲しまれていましたよ」
「本当にそうかしら?」
それ以降、会話はなくなった。
時々、二種類の足音と、その後、水道を使う音やシャワーを使うような音が聞こえて来るだけだった。
しばらくして、急に静かになったかと思うと、多分紫の足音らしい音が近づいて来て、不意に蛍のいる部屋のドアが開いた。
ドアを開けたのが紫だとはわかっていても、蛍はびくりとして身を震わせた。
「――どうして、そんなところにいるの?」
紫が部屋のドアを閉めると、小声でドアの近くに背もたれして小さくなっている蛍に向かって訪ねて来た。
「だって、ここにいれば、葉賀さんが急にドアを開けても見えないと思って……」
「この部屋にいれば大丈夫だって言ったじゃない」
「でも、何が起こるかわからないし……」
「まあ、良いわ。あの人、もう、寝室へ行って寝たから。もう、朝まで起きないとは思うけど、念のためもう少し待ちましょう」
「うん」
紫は言うと、部屋のテーブルの前に座り、蛍が持ってきた母親の紅葉の弁当を広げ始めた。
「そう言えば、あなた、夕食は?」
「いや、まだだけど……」
「じゃあ、一緒に食べましょう」
「えっ? でも、良いよ。そんなにお腹空いてないし、それに君のお弁当だし……」
「でも、お弁当、二つ入ってるけど?」
「えっ?」
紫は紙袋の中からもう一つ弁当を取り出した。
蛍は気づかなかったが、どうも弁当は二つ入っていたらしい。
確かに今考えてみれば、弁当が一つだけ入っているにしては重たかったような気がする。それに、蛍は自分が紫のこととか稔の夢の世界へ行くことばかり考えていて、紙袋の中は気にも留めてなかった。
(――母さん、何で俺の分まで入れてたんだろう)
もちろん、蛍は母親の紅葉に稔の夢の世界へ行く話していない。ただ、紫のところへバイトに行く、としか言っていない。
でも、今日に限って弁当を持たせ、しかも紫の分だけでなく自分の分までもたせたということは、今日は何かがあるかもしれないと母親の本能が働いたのかもしれない。
蛍と紫は黙って紅葉が持たせてくれた弁当を食べた。
紅葉の弁当は相変わらず母親の作った料理の味だった。
まさか、こんな豪華なタワーマンションの一室、しかも稔の部屋で紫と向かい合いながら母親の料理を食べるなんて、想像もしなかった。
こういう状況って、どういう言葉で表せばいいんだろう?
日常の中の非日常? それとも非日常の中の日常、とでも言えばいいのだろうか。
「――あなたのお母さまの料理、本当に美味しいわね」
紫が本当の心の底から言っているような表情で呟いた。
「そう言えば母さん、『いつでも遊びに来てね』って言ってたよ」
「本当に? ありがとう。そうしたら、お言葉に甘えて、その内に伺おうかしら?」
「うん」
そんなにお腹が空いていないと思ってはいたが、いつもと同じ味付けの料理が良かったのか、蛍は結局母親の紅葉の弁当を完食してしまった。
それに、いつもと同じ母親の料理を食べたことで、さっきまで異様に緊張した自分の気持ちに落ち着きが戻ってきたような気がした。
蛍は空っぽになった弁当箱を見つめながら、心の中で母親に感謝の気持ちを呟いた。
「じゃあ、そろそろ始めましょうか」
紅葉の弁当を同時に食べ終えた紫が立ち上がる。
「うん……」
蛍も弁当箱をテーブルに置くと立ち上がった。




