①
頭が重い。
蛍は額に手を当てながら、自宅の玄関を開けた。
紫に夢の世界の説明を聞いたのは良いが、全てが抽象的過ぎて想像がつかなかった。
第一、夢の世界へ行く方法も「眠っているクライアントの枕元で目をつぶって何も考えないでいると、『夢の入り口』が見えるの」という抽象的な内容だったし……。
でも、確かに抽象的ではあるが、実際にやってみると夢の世界へ行けたから、紫の説明も間違いではない。
(――まあ、やってみるしかないか)
自分が稔の夢の中に行かなければ、紫と稔は結婚してしまうかもしれない。
蛍はそのことを思い出して、身体に寒気が走るのを覚えた。
(――やっぱり、そんなのは絶対にいやだ)
「――ただいま」
蛍は自分の不安を跳ね除けるように、いつもよりも大きめの声で言った。
でも、キッチンからはいつもの母親の紅葉の「お帰り」の声が聞こえない。
部屋の電気はついている。
蛍が不思議に思いながら居間へ行ってみると、カーペットの上に母親の紅葉が横になっていた。
「――母さん?」
もしかして、具合が悪くて倒れたりしていたのだろうか。
蛍が母親に駆け寄ろうとすると、むくりと母親が起き上がった。
「あら? あんた、帰ってたのね? やだ、うとうとしてて気付かなかった」
「うっ、うん……」
(――何だ、ただ横になってただけか)
蛍は胸をなで下ろしたが、母親の顔を見ると、目が赤いような気がした。
もしかして、泣いていたのだろうか。
母親の紅葉は蛍にネガティブな表情をすることはほとんどない。
蛍の前ではいつも朗らかで明るい母親だった。
ただ、時々、本当に時々、悲しそうな表情をみせたり、こうやって目に泣いた後のような痕跡を残したりすることはあった。
今日がその「痕跡を残している日」なのだろうか。
「今、ご飯用意するね。ご飯、まだでしょ?」
「うん」
紅葉は蛍に背を向けると、キッチンで夕食の支度をし始めた。
蛍は母親の背中をじっと見つめた。
母親のあの泣いた後のような目…。
もしかして、父親から何かしらの連絡があったのだろうか。
母親が泣くような理由なんて、蛍には自分の父親関係しか思い浮かばない。
自分が知っている限り、母親が感情を乱しているのは父親関係がほとんどだった。
母親は自分に対して「何があったか」なんて決して言おうとしない。
蛍も母親の何も言わないという意志を尊重して、何も訊かなかった。
そう、ずっと母親の「痕跡を残している日」には見て見ぬ振りをしていたのだ。
(――でも、それって、本当に母親のためを思ってだったのだろうか)
母親のためを思って、もあったのだろう。
でも、一番はいつも朗らかな母親の悲しい一面を見て、自分が辛くなって押しつぶされそうにならないためだったのではないだろうか。
母親だって、自分に気を利かせて黙っていたのかもしれないが、自分が見て見ぬ振りをして気付いていないような様子だったから、何も言わないままで良いと思っていたのかもしれない。
(――もう、見て見ぬ振りをするのはやめよう)
蛍は心の中で呟いた。
自分が見て見ぬ振りを続けても、母親が自分から離れることはないだろう。
でも、自分が見て見ぬ振りをすることによって、母親と自分の間に隔たりができるのは事実だ。
隔たりがあることによって、自分がむしろ辛くなって押しつぶされそうな気持ちになっているのも事実だ。
そう、ずっと前から、自分は辛くなって押しつぶされそうな気持ちになっていた。
見て見ぬ振りが自分の気持ちを救うかと思ったら、その逆だったのだ。
「――母さん」
蛍は台所の自分の椅子に座ると、思い切って口を開いた。「ちょっと話があるんだけど」
「何? あんた、改まって」
「うん、ちょっと。――良ければ座って」
「本当に何?」
母親の紅葉が椅子に座ると、蛍は口を開いた。
「あのさ、俺、ずっと知ってたんだよ」
「えっ、何を?」
「その……、父さんのこと」
「えっ?」
紅葉は一瞬真顔で驚いた表情をしたが、すぐにいつもの柔らかい表情に戻って笑顔を見せた。「やだ、お父さんのことって何? 別にお父さんの会社、あんたが前いた会社みたいに倒産なんてしてないから」
「そうじゃなくて……。その、父さんが単身赴任先で……、ずっと、別の女の人と……」
さすがにそれ以上は言えなくなり、蛍は口を閉ざした。
紅葉の表情から、笑顔が消えていく。
蛍と紅葉はしばらく沈黙した。
ただ、辺りには夕食の美味しそうな匂いだけが流れていた。
「――あんた、知ってたんだね」
最初に口を開いたのは紅葉だった。
もう、すっかり隠すのを諦めてしまったのか、いつもの朗らかな表情もせず、あまりみたことのない無表情でため息を吐いた。
「うん、知ってたよ」
「いつから?」
「もう、結構前から。父さんが九州に行った頃から」
「あんた、そんな前から知ってたの?」
「うん、ずっと見て見ぬ振りしてたんだ、ごめん。だって……」
「まあ、そうだよね、言いにくいよね。私だって、あんたとお姉ちゃんには何も言わなかったし。でも、何で今日言おうと思ったの?」
「それは……。ちょっと色々あって、もう見て見ぬ振りはやめようかと思って……。で、今日、帰って来たら、母さんの目元が赤かったから。時々、そういうことあるよね? もしかして、父さんから連絡か何かあったのかと思って」
「あんた、そこまでわかってたの? 我が子ながら、ずっと鈍い男だと思ってたけど、案外鋭いんだね、驚いたよ」
紅葉はもうすっかり観念したらしく、笑みまで浮かべた。「そうだよ、父さんから連絡来たんだよ。『やっぱり、離婚してくれ』って。ずっと言われてたんだけど、ずっとやだって言ってたんだよ」
「何で離婚しようとしないの? 確かに母さんと父さんが離婚するのはショックだけど、父さんとずっと会ってないし、母さん、まだ父さんが好きなの?」
「もう、父さんなんて、好きでも何でもないよ。父さんだって、私のことは何とも思ってないだろうし。でも、離婚するとなると、あんたとお姉ちゃんにも言わないといけないし……。余計な心配させたくなかったしね。あと、意地みたいなものなのかね?」
「姉さんもやっぱり気付いてないんだ」
「多分、ね。でもあんたが気付いてるなんて知らなかったから、もしかすると言わないだけで気付いてるかもしれない」
蛍も自分の姉が父親の不倫を知っているかはわからない。
でも、男よりも女の直感の方が優れているともいうし、気づいている可能性はある。
「姉さんはわからないけど……。でも、もし母さんが父さんと離婚したいのに、俺に心配させたくなくて離婚しないって言うんだったら、そんなに気にしなくてもいいよ。姉さんだって、もう嫁に行ったし、姉さんのことも気にしなくていいんじゃないのかな?
それよりも、母さんがどうしたいかだと思う。父さんとけじめ付けて離婚したいって言うのなら、そうすれば良いと思うよ。俺は全然構わないし、俺はこれからもずっと母さんの傍にいるし」
「ずっとって……」
紅葉は笑顔を見せたが、その目は涙で潤んでいた。
「うん、俺はずっと母さんの傍にいるよ。ずっといたし、これからもずっといるから。だから、母さんの好きにしていいよ」
「やだね、そんなのだめだよ。あんたは結婚して、姉さんみたいにこの家、出て行かないといけないんだから。ずっと私に甘えてるなんてだめだよ」
「それとこれとは別だよ。まあ、もちろん、そういうことも出て来るかもしれないけど、俺はずっと母さんの味方だから。父さんのことは母さんの好きにしてよ」
「あんた、一体今日はどうしたの? いきなり頼もしくなって」
耐え切れなくなったのか、紅葉はエプロンの裾で目から零れ落ちて来た涙をふき取った。
「うん……。でも、俺こそ、ずっと見て見ぬ振りしていてごめん。父さんのことは本当に母さんの好きにして良いから」
「ありがとうね。――とりあえず、ご飯に準備しないと」
紅葉は立ち上がると、蛍に背を向けて鍋の蓋を開け始めた。
蛍は母親の背中をずっと見ていた。
母親はきっと夕食の準備をしながら泣いているのだろう。
でも、その背中に悲しそうな気配は全くない。
むしろ、何か吹っ切れたような清々しささえ感じる。
母親の清々しい背中を見ていると、蛍の心も何だか清々しい気持ちになってきた。
(――俺はどうしてずっとこうしなかったんだろう)
自分の見て見ぬ振りは何年も何十年も続いていた。
その間、自分は辛くて押しつぶされそうな気持ちになっていた。
でも、母親に自分が気持ちを話したのはほんの数分だ。
その間に母親は吹っ切れて清々しくなり、そして、自分も清々しい気持ちになった。
あの、ちょっとした勇気を出した数分だけで、自分も母親も生まれ変わったような気持ちを手に入れたのだ。
(――もう、見て見ぬ振りをするのはやめよう)
母親の背中を見ながら、蛍は心の中で呟いた。




