⑦
前にも入った寝室の隣の部屋のドアを開けると、テーブルの上にはティーセットが置かれていた。
紫がソファに座ってティーカップに紅茶を注ぐと、この間と同じアールグレイの良い香りが漂って来る。
「――あなたも飲むでしょ?」
「うん、ありがとう」
蛍はソファに座りながら、かなり喉が渇いていることに気付いた。
きっと、緊張しているのだ。
紫がいるとは言え、今日は一人で老人の夢の中に入らなくてはいけないのだから。
「――緊張してる?」
紫に突然訊かれて、蛍は心の中を見透かされたのではないかと思ってびくりとした。
「えっ? それは、まあ……」
緊張していないように返事をしようとしたが、声が少し上ずってしまった。
「緊張するのは当たり前よ。――私だって、最初は緊張したし」
「えっ?! そうなの?」
「何でそんなに驚くの? 当たり前じゃない」
紫が平然と答えるのを聞きながら、蛍は「確かにそうか……」と思った。
紫は今でこそ平然と夢の世界へ行っているが、最初はもちろん緊張したのだろう。
「まあ、確かにそうだよね……」
「紅茶飲んで。ママも私に紅茶を飲ませてくれたの。飲むと落ち着くからって言ってた」
「うん」
蛍は紅茶を一口飲んだ。
確かに少し落ち着いたような気がする。
紫がクライアントのところへ行くと、必ずティーセットが用意されているが、そういう理由もあったのだろうか。
「――あなたの家で話したこと、覚えてるわよね?」
「うん、覚えてる」
「念のため、もう一度言っておくわ。――眠っているクライアントの枕元で目をつぶって何も考えないでいると、『夢の入り口』が見えるの。ただ、その入り口は人によって形が違うから。でも、見えて来たら『夢の入り口』だって直感でわかるはずよ」
「うん」
「『夢の入り口』が見えたら、後はそこに入れば良いだけ。――今日はとりあえずそこまでやってみましょう」
「うん、やってみる」
蛍はまた紅茶を一口飲んだ。
さっきよりも紅茶がぬるくなっているような気がする。
さっき飲んだ時は熱さとか何も感じられなかったから、多少は緊張が落ち着いたのだろう。
「じゃあ、そろそろあのクライアントも眠った頃だろうから、寝室に行ってみましょうか」
「うん」
紫はさすがに前のように「さっきから、『えっ?』とか『うん』とかばかり言って……」とは口にしなかった。
蛍が緊張していることをくみ取ってくれているのだろう。
紫が寝室のドアを再び開けると、さっきよりも部屋の中が一段と暗くなっている。
蛍が寝室の奥にあるスツールを二つ持ってベッドの近くへ行ってみると、紫はぐっすり眠っている香椎老人をじっと見つめていた。
香椎老人の枕元には、相変わらず羽根が入った写真立てが置かれている。
「良く眠ってる……」
香椎を見つめる紫の表情は、なぜか穏やかだった。
まるで、今にでも老人の頭を優しく撫でそうな、そんな雰囲気さえ漂っている。
「うん、そうだね」
「それじゃあ、始めましょうか? ――とりあえず、そのスツールに座って目をつぶって。そして、何も考えないでじっとしていて」
「うん……」
蛍は紫に指示された通り、持ってきたスツールに座って目をつぶった。
(――でも、これだけで本当に「夢の世界」へ行けるのだろうか)
紫を疑っているわけではないが、目をつぶって何も考えないでいるだけであの「夢の世界」へ行けるとはどうも信じがたい。
かと言って、隣にいる紫がそんな嘘を言うような人間には到底思えない。
蛍は心の中で首を横に振ると、とにかく何も考えないようにしようと目を強くつぶった。
でも、なかなか何も考えない状態にするのが難しい。
目をつぶっていると、暗闇の中に色々な思想が映像となって流れて来る。
自分の母親のことや父親のことや姉のこと、前勤めていた会社で好きだった女の子のこと、昨日のNSXの中でやり取りした稔との会話の数々……。
そして、紫のこと。
(――何も考えないようにするのって、案外難しいんだな)
だからと言って、何も考えないようにしないと何も始まらないのに。
それでもしばらく目をつぶってじっとしている内に、何も考えない時間が少しずつ、確実に増えて来る。
蛍はその何も考えない瞬間に、ふと自分の心の中に冷たい風が通り抜けたような気がした。
――今のこの感じ。
この感じ、覚えている。
初めて紫に連れられて夢の世界へ行った時、この冷たい風を感じた後、良く分からない恐怖の感情が芽生えて来たのだ。
蛍はその時のことを思い出して、自分の手のひらが汗ばんでくるのを感じた。
――怖い。
やっぱり、ここは危険なんだ、離れろ!
蛍は恐怖の感情に囚われて、座っているスツールから立ち上がりそうになった。
その瞬間、自分の左手を何か温かいものが掴んだ。
何だろう? と思って蛍が薄目を開けて見ると、自分の左手を包み込むように掴んでいる手が見える。
紫の手だ。
蛍は何故か安心した気持ちになって、再び目を閉じた。
――あなたには私がいるし、あなたには私がいる。
紫の言葉を思い出す。
今度は胸の奥がすっとして、良く分からないが何とも言えない居心地の良さを感じて来た。
蛍は自分の心が不思議なほど落ち着いて、さっきよりも何も考えない時間が長くなっていくのを感じた。
目をつぶって見える暗闇の向こうに、ふと何かしら光るものが見える。
(――何だろう)
蛍が暗闇の中で光るものに近づいて見ると、それは鍵のようなものだった。
(――何で、こんなところに鍵があるんだろう)
蛍が思わず宙に漂っている鍵をつかみ取ると、掴んだ瞬間、手に電気のようなものが走った。
(――これだ)
これが、紫の言っていた「夢の入り口」なのだ。
蛍は掴んだ鍵を無意識に暗闇の中に差し込んだ。
――がちゃ。
暗闇の向こうで音がする。
すると、段々と周りが明るくなり、自分の目の前に道のようなものが照らし出されて来た。
(――「夢の入り口」が開いたんだ)
蛍は何かに導かれるように、その照らし出された道に一歩踏み出した。
――身体が熱い。
蛍が瞼を開くと、自分が真っ白い世界にいることに気付いた。
この感覚……。
紫と一緒に初めて夢の世界に行った時と同じだ。
蛍は慌てて身体を起こすと、辺りをきょろきょろと見渡した。
見渡す限り、どこまでも白い世界が広がっている。
そして、自分は大量の真っ白い羽根の上にいることに気付いた。
この白い世界……、忘れもしない、あの香椎という老人の夢の中だ。
蛍が手元の羽根を手のひらですくってみると、羽根はふわふわと宙に漂い、そして、音もなく下へ落ちてゆく。
――自分は無事に夢の世界へ行けたらしい。
「――目が覚めた?」
ふいにどこからか声が聞こえて来た。
蛍が声の方を振り返ってみると、突然目の前に紫がいた。
「――あっ」
さっきまで、確かにただ真っ白い世界がそこにあっただけだと言うのに、紫はいつも間に自分の近くに座っていたのだろうか。
真っ白い世界の中で、紫の黒い髪と黒い瞳、そして黒いワンピースがひときわ目立って見えた。
「――あなた、一人で夢の世界に行けたわね」
「うん、そうみたい……」
「初めてにしては上出来、と言うか、初めてでこんなにすんなり夢の世界に行ける人も珍しいわね……」
「えっ?」
良く見ると、紫はいつもの無表情ではなく、少しむっとしたような表情をしていた。
「私の時はこんなじゃなかったのに……」
紫が蛍から視線を逸らしながら、独り言のように呟く。
もしかして、紫は自分がすんなりと夢の世界に行けたから、ちょっとした嫉妬を感じているのだろうか。
そう考えると、蛍は何だか微笑ましい気持ちになってきた。
やはり、紫は年相応の19歳の女の子なんだ。
「――」
蛍が思わず唇の端を歪めると、紫は蛍から顔を逸らしたまま立ち上がった。
「とりあえず、今日はここまででいいわ……。じゃあ、行きましょうか」
「うん」
紫に続いて蛍が立ち上がった瞬間、周りの風景がまるで映画の画面が切り替わったかのように別の世界へと変わった。
(――あっ)
初めて夢の世界に入った時と同じだ。
あのどこまでも真っ白い世界が一瞬にして、小学校の風景に変わる。
香椎老人と、老人の初恋の女性の通っていた小学校の風景だ。
蛍が紫のじっと見つめている方向を見てみると、少年時代の香椎老人とセーラー服姿の香椎老人の初恋の少女が立っている。
古めかしい、角ばったデザインの車。
ふと通り過ぎる人たちのレトロなデザインの服。
自分たちにとっては見慣れないものばかりだが、この夢の世界では紫と自分が異質な存在なのだろう。
少年と少女は校舎の横を楽し気に話しながら歩いていたが、ふと少女が何かに気付いて身を屈める。
少女は道に落ちていた真っ白い羽根を拾い上げると、少年に手渡した。
あの香椎老人の枕元に飾られている羽根だ。
蛍は一度見た風景だというのに、吸い込まれるように見入ってしまった。
ふと我に返って、少し前にいる紫をのぞきこんだ。
(――あっ)
蛍は思わず心の中で声を上げた。
(――どうして、そんなに切なそうな表情をしてるの?)
蛍は紫が香椎老人に「意気地なし!」と言い放っていたのを思い出し、紫はてっきり怒りに満ちたような顔でもしているのだろうと思った。
でも、違った。
紫は随分切なそうな表情をしていた。
この表情……。
まるで、「意気地なし!」と言った香椎老人に同情か感情移入でもしているかのような表情だ。
「――あの」
蛍は気づくと紫に話しかけていた。
(――夢の世界?!)
蛍はぱちっと目を見開いた。
さっきまでのあの真っ白い羽根の世界や校舎の風景はどこへ行ってしまったのだろうか。
目を見開いた蛍は、いつの間にか香椎の寝室の壁にもたれ掛かって座り込んでいた。
――身体が重い。
夢の世界に行くとまるで重力が半分になったかのように身体が軽いから、夢の世界から現実の世界へ戻って来ると、身体が重く感じられる。
それでも、初めて夢の世界に入った時よりは、この身体の重さにも慣れてきたような気がする。
蛍が香椎が眠っているであろうベッドへ近づくと、紫がぽつんとスツールの上に座ったまま、ベッドの上で眠っている香椎老人を見降ろしていた。
香椎老人は目を覚ましていない。
前に自分が初めてこの老人と会った時、老人は目を覚ましていて紫に対してお礼の言葉を言っていたのに。
――あの人、きっと、相当悪いのよ。
蛍は紫の言葉を思い出した。
もう、紫にお礼を言えないほど体調が悪いのだろうか。
蛍が立ち上がって、少々ふらふらしながら紫の隣に行くと、紫は蛍をちらりと見上げた。
「――大丈夫?」
「うん」
「じゃあ、帰りましょうか」
紫は踵を返すと、さっさと寝室のドアに向かって歩き始めた。
蛍は紫の後を慌てて追った。
蛍は紫を追いかけながら、ちらりと後ろを振り返った。
香椎は自分や紫が元々どこにもいなかったかのような安らかな表情で眠ったままだった……。
紫は蛍のように後ろを振り返らなかった。
でも、蛍には紫の雰囲気が、最初にこの屋敷を訪れた時とは違うのがわかった。
足取りこそいつもの紫のようにさっさと進んでいるが、前みたいに「もう、この場からすぐに立ち去りたい」というような嫌悪は感じられない。
紫と蛍が階段を降りると、あの家政婦が階段の下で紫に声を掛けて来た。
「――賢木様、今日もありがとうございました。こちらお礼です」
家政婦は紫に封筒を差し出して来た。
「ありがとうごさいます」
紫は封筒をぶっきらぼうに受け取ったが、ふと立ち止まって家政婦に視線を向けた。
「あの、何か……?」
家政婦が不思議そうな表情をする。
「その……、お大事になさってください」
「はい、ありがとうございます」
家政婦が紫に向かって深々と頭を下げた。
いつもなら礼の入った封筒をすぐカバンに入れるのに、紫は手に封筒を持ったままだった。
紫は真っすぐ香椎の家の門を潜り抜けて道路に出ると、ぴたりと歩みを止めた。
紫の後ろを歩いていた蛍も、歩みを止めた。
「――あの人」
紫が独り言のように小さな声で言う。
「えっ?」
「あの人、あのまま、やっぱり初恋の人には会うつもりじゃないみたいね」
「だって、そうじゃないの? 前に『初恋の人に会いに行くのが怖いの』って……」
「確かにそうだけど……。私が夢を見せている間に、あの人の気が変わって本当に初恋の人に会おうって気持ちにならないかって思っていたのに……。やっぱり、あんなにほぼ寝たきりになっても、とうとう本当に会おうとはしないんだなって」
紫はずっと前を向いたまま話している。
紫の後ろに立っている蛍には、紫の表情を見ることはできない。
でも、紫の声の感じから言って、紫が「あの意気地なし!」と言った時のような怒りの感情を抱いてはいないようだった。
かと言って、香椎老人に呆れているとか、もうどうなっても良いという感情を抱いているようでもなかった。
紫のこの声の感じ、蛍には紫が「淋しい」とか「悲しい」と思っているのではないかと感じられた。
紫はもしかすると、あの老人が初恋の人に会おうとするのを待っていたのかもしれない。
でも、老人は初恋の人に会おうとはしなかった。
そして、紫は老人に対して、哀れみまで感じているのだ。
前は口にもしなかった「お大事にしてください」という言葉さえ、言ったのだ。
蛍は何となく背筋が寒くなる感じがした。
どうして、ここで寒気を覚えてしまうのだろう。
(――もう、あの老人に対してこの娘は末期に近い感情を持ってるのかもしれない)
それこそ、紫が父親の幸樹や元許嫁の稔に怒りの感情を爆発させるのは、まだ良い方なのかもしれない。
あの老人に対しては、もう怒りの感情を通り過ぎて、「淋しい」とか「悲しい」とか「哀れみ」いう感情を見せ始めているのだ。
でも、あの老人これからもが初恋の人と会おうとしなければ……。
多分、次はもう、「呆れている」とか「もうどうなっても良い」という感情になるのだろう。
紫に「呆れている」とか「もうどうなっても良い」と思われたら、それこそお終いだ。
紫はきっと、老人に対して怒りを感じることも悲しいと感じることもしないだろう。
ただ、無の感情しか抱かなくなるのだろう。
そうなったら、もう紫との関係は途切れてしまう。
もちろん、あの香椎老人は紫のクライアントだから、客としての関係は残るだろうけど、それだけだ。
紫が無の感情しか抱かなくなれば、紫はもうあの老人を全く会ったことのない赤の他人よりも見知らぬ存在として扱うのだろう。
(――もし、そうなったら)
どうしてこんなに怖さを感じるのだろうか、と蛍は思った。
別に自分に対して紫が無の感情しか抱かなくなることはない、と思う。
でも、自分がもしも、あの香椎と同じように、ずっと今ある現実に見て見ぬ振りしていたら、いずれは紫も自分に無の感情しか抱かなくなるのかもしれない。
あの父親の幸樹や元許嫁の稔だって、いずれは紫から無の感情しか抱かれなくなるのかもしれない。
それでもいいじゃないかと、蛍は心の中で自分に答えた。
だって、紫が自分に対してどんな感情を抱いていたって良いではないか。
紫と自分の関係は、ただの雇い主と雇われ人なだけだし。
あの父親の幸樹や元許嫁の稔だって、紫から無の感情を抱かれても良いのではないだろうか。
特に父親の幸樹は、紫の母親が寝たきりになっていた方が嬉しそうだと紫が言っている。
(――でも、いやだ)
紫に無の感情を向けられるだけは、いやだ。
蛍は紫の後ろを歩きながら、ずっと寒気とそんな思考に囚われていた。
紫が呼び止めたタクシーに乗った後もずっとそのことを考えていた。
紫はいつもの無表情のまま、自分の隣に座ってタクシーのフロントグラスに映る風景を真っすぐに見ている。
紫はこの無表情の内側で、何を考えているのだろうか。
さっきの香椎老人のことだろうか、それとも別のクライアントのことだろうか。
それとも、父親のことだろうか、母親のことだろうか。
もしかすると、稔のことかもしれない。
(――やっぱり、気になる)
自分はこの隣に座っている無表情の女の子が気になるんだ、と蛍は思った。
この女の子がどんなことを考えているのか、自分の知らないところでどんな生活を送っているのか、自分を含めて周りの人のことをどう思っているのか、その全てが気になるんだ。
(――でも、多分、この娘は自分のことは気にしていないんだ)
そう思うと、何だか胸の奥がぎゅっと掴まれたように痛い感じがする。




