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夢の終てまでも  作者: 木原式部
5.照らし出された道
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「――どうぞ、座って」

 紫は部屋の中央に置かれているソファを指さした。

「うん……」

 蛍が遠慮がちにソファに座ると、紫はさっきの言葉通りお茶でも入れにキッチンへと行ったのか、どこかへと消えた。

 蛍は悪いなとは思いつつ、部屋の中をぐるりと見渡した。

 一人で住むには広すぎるくらいの面積だ。

 まあ、紫は今は一人暮らしだろうが、以前は母親と二人暮らしだったのだから、そう考えると広すぎるとまでは行かないのかもしれない。



 ふと向かいの壁の前に置かれている黒いタンスを見てみると、タンスの上に写真立てが乗っている。

 写真に写っているのは紫と紫に似た小さい子ども……。

 いや、紫に見える女性は、きっと以前軽井沢の病院で見た紫の母親なのだろう。そして、紫に似た子どもは紫本人なのだろう。

 二人とも、幸せそうな笑顔を見せている。

「――どうぞ」

 蛍が写真を見ていると、紫が奥からトレイを持って戻って来た。

 テーブルの上に二人分のティーカップを置く。

 何とも言えない華やかな花のような紅茶の香りが部屋の中に満ちた。

「ありがとう」

「――ああ、あれ、私とママ」

 紫は蛍が写真立てに注目しているのに気付いたらしく、そっけない表情と声で言った。

「写真の君のお母さん、今の君にそっくりだね。最初、見間違えた」

「あの写真、ママがあなたくらいの年齢の時の写真よ。25歳くらいかしら? 私は4歳」

「お母さん、早くに君を産んだんだね」

「ええ。パパと結婚したのが二十歳の時。ママは大学に行きながら夢を見せる仕事をしていたんだけど、その時にパパと出会ったって言ってた。パパはその時、寝具会社をやってて、ママの噂を聞いて近づいて来たんだって。パパ、その頃はその寝具会社を立て直そうとして必死だったみたい」

 そう言えば、前に紫の父親の幸樹がテレビのバラエティ番組に出て、そんなことを話しているのを見たことがあるな、と蛍は思い出した。

 今でこそ、幸樹の会社「通販のFOB」は日本を代表する大会社だが、そこまで行くにはそれなりの苦労があったと話していた。

 父親から継いだ会社――今はあの稔が社長をしている榊寝具のことだろう――が赤字で立て直すのが大変だった、と笑顔で語っていた。


「君のお母さんに近づいたって……。もしかして、その夢を見せる仕事が気になったの?」

「そう。パパは会社を立て直すために眠りについて色々と調べていたらしいんだけど、その時にママの噂を聞いたみたい。見たい夢が見られるなんて、そんな枕や寝具があったら売れるだろうと思ったらしいんだけど、さすがにそんなに上手くは行かなくて……。

 でも、代わりにパパはママが好きになって、ママは最初パパには興味なかったみたいだけど、あまりにもしつこくしてくるから結局は折れたって言ってた」

 蛍は紫にしつこくしてくる父親の幸樹を思い出した。

「それで、早く結婚したんだね」

 紫は軽く頷いた。

「ママ、前々からパパが自分を人として見てくれないって言ってた。人形か何かみたいに見てるって。だから、ママが何か言ってもただ笑顔で聞いているだけで何もわかってくれないって言ってた。ママが私を連れて家を出て行った時だって、どうしてママが出て行ったのか何も理解しなかったって……。

 私もパパのそういうところがいやだけど、ママはもっといやだったと思う。パパだけじゃなくて、あの人だって……」

 紫はそこで口を閉ざした。

 紫が言うあの人とは、紫の許嫁だった稔だろう。

 紫は前に「そんなのうそよ。あなたが愛しているのは私じゃない。私のママよ」と言っていた。


 紫の母親と稔の間には何があったと言うのだろうか。


 少なくとも「あなたが愛しているのは私じゃない。私のママよ」と言っていたと言うことは、紫の母親と稔はお互いを知っていたのだろう。


 しばらくの間、蛍と紫の間に沈黙が訪れた。

 蛍が何かを話した方が良いのか、それとも紫が何か言って来るのを待っていた方が良いのかと考えていると、紫がじっと自分を見ているのに気付いた。

 あの真っ黒い瞳の中に自分が写っているのが見える。


「――あの、どうしたの?」

 紫が余りにも自分を、それこそ穴が開くほど見ているので、蛍は思わず言葉を発した。

「ううん、別に……。やっぱり、全然訊いて来ないんだなって思って」

 紫は蛍から視線を逸らすと、顔を少し俯かせた。

「えっ? 訊いて来ないって?」

「私とあの人がどういう関係なのか、とか」

「あの人って?」

 紫の言う「あの人」なんて訊かなくても稔だとわかっているが、それでも蛍は訊いてしまった。

「あの人よ。さっき、このマンションの前で待ち伏せしていた葉賀さん」

「あの葉賀さん? でも、あの人は……。前に葉賀さんが許嫁って言っていたし、でも君は『そのことは前にちゃんとお断わりした』って言ってたし。つまり、君の許嫁だったけど、今は違うってことだよね?」

 自分の言っていることは正しい、と蛍は思った。

 稔が紫の許嫁で、でも紫は許嫁を断ったと自分の耳ではっきりと聞いたし、これは真実だ。


 ただ、自分が知っているのは真実までだ。

 稔がなぜ紫の許嫁になったのか、なぜ紫が許嫁を断ったのか、そして、紫が言っていた「あなたが愛しているのは私じゃない。私のママよ」と言っていたことの真相まではわからない。

 事の真相を聞きたい気持ちはあるが、訊くのが怖いような気がする。

 なぜ怖いのか自分でも良く分からないが、何かが怖いのだ。

 だから、自分は真実だけ語って、さも真相には気づかないような振りをしている。

 見て見ぬ振りをしている。


「そうよ。あの人は前は私の許嫁だったけど、私が家を出る時に断ったの。――でも、どうして断ったかとかは訊かないのね? どうして断ったと思う?」

 確かにどうして紫は稔の許嫁を断ったのだろうか。

 紫は稔に対して非常に厳しい態度を取っているが、時折見せるあの頬を紅潮させる表情は明らかに稔に何かしら特別な感情を抱いていると思わせる。

 いや、稔に厳しい態度を取っているのだって、例えば小学生の男子が気になる女子に意地悪をするようなものなのかもしれない。

「それは……」

 蛍は少し考えてから口を開いた。「それは単純にお父さんが決めた許嫁と結婚するのがいやだったとか? 君はお父さんがいやみたいだし、そんないやな人が選んだ人と結婚するのがいやだったとか、なのかな?」

「もちろん、それもあるわよ。パパは葉賀さんを養子にしたいくらい見込んでいるけど、養子にするくらいなら私と結婚させて義息子にしようと思ったみたい。あの人、大学生の頃にパパの会社でバイトしていて、その頃からパパに目を付けられていたみたい。

 でも、本当の理由は……。あの人は私のママが好きだったのよ。そして、未だに私のママが好きなの。あの人がしつこく私に言い寄って来るのも、私の中にママを見ているからなの。だから、私はあの人との許嫁を断ったの」

「でも……。それってどうして好きだってわかるの? 葉賀さんから聞いたの? それとも、君のお母さんから聞いたの?」

「ううん」

 紫は微かに首を横に振った。

「だったら、どうして……」

「私にはわかるのよ。あの人は私のママが好きなのよ。ママと接している時のあの人の表情を見れば、誰だってわかるわよ」

 いや、違うな、と蛍は心の中で首を横に振った。

 紫が言う「誰だってわかる」というのは違う。

 やはり、紫は稔が好きなのだ。

 好きな相手のことは良く見ている。だから、微妙な表情の変化や仕草で、稔が母親を好きだわかるのだ。


 蛍は自分の中に何とも言えない重たくて暗いものが広がって行くのを感じがした。

 この感じって何なのだろうか

 少なくとも、自分は「紫は稔が好き」と改めて思った時、思った以上のショックを感じていたような気がする。


「そう、なんだ……」

 蛍は「誰だってわかるわけじゃない」「思った以上にショックを感じた」なんて言えなかった。

 そっと紫を見ると、紫はさっきのように自分をじっと見ていたが、やがてまた視線を逸らした。


「――何だか、引き留めて話に付き合ってもらっちゃってごめんなさい」

「いや、全然……。でも、どうして、そんなに今日は話して来るの?」

 普段はそんな話なんてしないのに不思議だ、と蛍は思った。

「何となく。――じゃあ、今日の夜もよろしく」

「うん、わかった」

 蛍は残っていた紅茶を飲み干すと、礼を言って紫の部屋を後にした。

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