③
賢木紫が来るように言った「日本夢見研究所」はビルの一番上の5階にあった。
蛍が一人でも定員オーバーになりそうなエレベーターを降りると、ビルの見た目と同じように壁は 真っ白でドアは真っ黒のモノクロで統一された内装が目に飛び込んで来た。
そっけないと言われればそれまでだが、シックとかシンプルと言われればそれはそれで納得できる。
小さいビルだから予想はしていたが、ドアは二つしか見当たらなかった。
蛍はもう一度紫からもらった名刺を見て、「日本夢見研究所」が奥のドアの方であることを確認した。
もう一つのドアもそうだが、蛍の目的地である奥のドアにも、何かしらのプレートのようなものはなかった。
ただそこには、飾りも何もない黒いドアがあるだけだった。
黒いドアの横には、「辛うじて」という言葉が似合うようなインターフォンがぽつりとある。
蛍は少し躊躇したが、思い切ってインターフォンのボタンを押した。
黒いドアの奥でチャイムの音が小さく聞こえる。
「――もう! いい加減にして!」
大きな声が聞こえたかと思うと、ドアががちゃりと開いた。
――賢木紫だ。
昨日と同じような、真っ黒いワンピースを着ている。
相変わらずボブカットの髪も瞳も黒く艶や かで、手の甲は白く、唇の色も赤かった。
ただ昨日と違うのは、頬を紅潮させているところだけだ。
昨日のふてぶてしいクールな表情とも、自分の腕を掴んで夢のことを問いただした時の表情とも違う。
何かに慌てているのか、怒っているのか……。
それとも、何かに恥ずかしがっているのだろうか。
随分感情を露わにしているし、紫の今の表情を見ていると、自分よりもずっと年下の少女のように思ってしまう。
蛍は紫の紅潮している頬を見て、ふと自分のポケットにしまい込んだあの深紅のバラの花びらを思い浮かべた。
それにしても、どうして紫はこうも感情を露わにしているのだろうか……。
「――あの」
蛍が紫の勢いに圧倒されて、どんな言葉を言えば良いか戸惑っていると、紫は蛍の顔を見上げて「あっ」という表情をした。
「やだ、そうだった……。あなただったのね。ごめんなさい、人違い」
「人違い?」
「そう。――どうぞ、入って」
紫はドアを大きく開くと、蛍を部屋の中に入れた。
紫は自分と誰を間違えたのだろうか。
蛍は気にはなったが、昨日会ったばかりの人間にそこまで突っ込んで訊くのは気が引けたので、何も言わずに軽く会釈し部屋の中に入った。
――殺風景な部屋だな。
これが蛍の第一印象だった。
ビルの見た目とそれほど変わらない。壁は白く、所々に置いてあるソファや机などの家具は黒で統一されている。
殺風景と言ってしまえばそれまでだが、シンプルとかすっきりしているとかノームコアとか言われれば、まあ頷けるような部屋でもある。
「――適当にそこら辺にでも座って」
蛍に背を向けていた紫が、くるりと振り返った。
(――えっ?!)
蛍は紫の表情を見て、心の中で声を上げた。
さっきのあの頬を紅潮させた少女はどこへ行ったのだろうか、目の前にいるのは蛍が昨日初めて歩道橋の上で出会った、ふてぶてしいと形容してしまうような態度の、息を飲むほど美しい女の子だった。
「――」
「どうしたの?」
蛍が呆気に取られていると、紫は部屋の中央に置いてある二つあるソファのうちの一つに座った。
「――あっ、はい」
蛍も慌てて紫が座った向かいのソファに座ろうとした。
ソファに座ろうとした蛍は、ソファの上に先客がいることに気付いた。
(――これ)
このソファが自分の場所のように陣取っていたのは、深紅のバラの花束だった。
蛍は反射的に自分のジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
あの赤いスポーツカーに乗った青年が落として行ったバラの花びらは、きっとこの花束から零れ落ちたものなのだろう。
あの青年は、紫の客人だったのだ。
「――ああ、今、どかすから」
紫は慌てた風に手を伸ばすと、さっと花束を取り上げた。
深紅のバラの花束を抱えている紫の頬が、また紅潮した。
まるで憧れの誰かに突然花束をプレゼントされた、年端もいかない少女のようだ。
蛍は紫をじっと見つめた。
――気になる。
この女の子が気になる、と蛍は思った。
初めて会った時はクールでふてぶてしかったが、今日はまるで少女のように頬を紅潮させている。
さっきクールに戻ったかと思うと、またこの少女のような表情。
一体、この賢木紫という女の子は何者なのだろうか……。
「その花束って……」
蛍は紫に「君は一体何者なの?」と訊きたかったが、やっぱりそんな抽象的な質問はできなかった。
ましてや、紫とはまだ二回しか会ったことがない。
蛍は代わりに次に気になった深紅のバラの花束のことを訊いてみた。
「ああ、これ? あなたの前に来た人がくれたの。別に何でもないけど」
紫は部屋の奥の方にある机の上に、花束をぶっきらぼうに置いた。
紫の言葉には「これ以上は何も訊かないで」という感情が見え隠れしているように感じた。
蛍は「赤いスポーツカーに乗って来た男が持って来たの?」と言いかけたが、口を閉ざした。
紫はあまり花束のことには触れたがっていないようだ。
だったら、自分はあの赤いスポーツカーの男のことも深紅のバラの花束のことも見なかったことにしよう。
見て見ぬ振りをしよう……。
「――そう、早速本題に入らないと」
紫は蛍の向かいのソファに再び座った。
蛍はやっぱり紫が気になるな、と思った。
紫の今のソファの座り方は明らかに上品だった。
初めて会った時から感じていたが、この紫と言う女の子は、クールでふてぶてしいが、仕草や言葉遣いや言い回しがどこかしら優雅で上品なのだ。
まるでどこかの国の王女様で、自分は執事か召使のように思ってしまう程だ。
「俺もそれが気になって……。どうして、俺が今まで夢を見たことないって知ってるの?」
「私はあなたなんて何も知らない。昨日、『一度も夢を見たことがなかったら』って言ったのは当てずっぽう。――でも、あの時当てずっぽうでも言ってよかった。私、あなたみたいな人をずっと探してたの」
「探してた?」
「そう、私と同じように『一度も夢を見たことがなかった人』を」
「私と同じように?!」
「そう、あなたみたいな人をずっと探していたの」
紫は蛍をじっと見つめた。