①
(――それにしても)
蛍は「日本夢見研究所」の最寄り駅の発車メロディーを聴きながらふと思った。(――「あの人は子どもだから」ってどういう意味なんだろう?)
紫と一緒に軽井沢へ行ってから三日経った。
軽井沢から帰ってから二日は特に紫から連絡がなかったが、昨日「明日お願い」と連絡が入ったのだった。
紫の連絡はいつも必要最低限だけだ。蛍も「わかった」くらいの簡単な返事しかしない。
だからと言って紫が冷たい人間だとは思えなくなってきていた。
紫はもしかすると素顔は繊細で無邪気な女の子なのかもしれない。
前々から無意識にそう思っていたが、一緒に軽井沢へ行ってからは「かもしれない」が「そうなのだろう」くらいの気持ちに変わっていた。
もしかすると、紫の生い立ちが表面上は無表情でクールな女の子にさせているのかもしれない。
父親が有名な通販会社の社長で何不自由なく育ったのだろうと言うことは、蛍の目からも良く分かる。
ただ、何不自由なく育ったからとは言っても、生い立ちはかなり複雑なのだろう。
母親と同じように夢を見ない人間として生まれて来て、自分が夢を見ない代わりに他人に夢を見せられるという体質。
蛍が夢を見ない体質を母親にすら理解してもらえなかったのは、確かにトラウマと言えばトラウマなのかもしれない。
だからと言って、自分の夢を見ない理由が「他人に奉仕するため」だなんて、それはそれで虚しさを感じる。
そして、紫の母親と父親の不和。
紫と紫の母親は父親の家から出て行って、二人で暮らしていたらしい。
そして、紫の母親は「見たい夢を見せる」仕事をしていて、その時に夢の終てまで行ってしまい、戻れなくなってしまった。
(――見て見ぬ振りか)
蛍は電車を降りながら、心の中で呟いた。
――ママが本当は何を思っているかなんて見て見ぬ振りをしている。
紫の母親が父親と不和になったのは、この見て見ぬ振りが原因なのだろうか。
紫と出会ってから、この見て見ぬ振りという言葉が良く出てくる気がする。
そして、大体この見て見ぬ振りという言葉を言っているのは紫で、紫はいつも男にたいしてこのセリフを言っている気がする。
それは、どういう意味なのだろうか。
(――違う)
蛍は地下鉄の階段を登りながら、軽く首を横に振った。
きっと、たまたまだ。こんなに見て見ぬ振りという言葉が気になるのは、偶然だ。
自分がずっと見て見ぬ振りをしてきた人間だから気になるとか、そういうことは絶対にない。
紫の「日本夢見研究所」があるビルが近づくにつれて、蛍は何となく憂鬱な気持ちになってきた。
もちろん見て見ぬ振りのことが気になっているのもあるが、それよりもシンプルなデザイナーズビルにそぐわない、派手な赤い車が目に留まって仕方ないのだ。
赤いホンダのNSX。
紫の許嫁だった葉賀稔が、今日も来ているのだろう。
カバンの中からスマホを取り出して時間を見ると、紫が指定した時間よりも少し早い。
このままビルの前を通り過ぎて少しだけ散歩してきても十分間に合う時間だ。
――でも、なぜ自分が紫の元許嫁に遠慮しなくてはいけないのだろうか。
蛍はスマホをカバンに戻すと、そのまま真っすぐビルの中へと入って行った。
エレベーターを降りて「日本夢見研究所」のドアの前へ来てみると、ドアが少しだけ開いていた。
中から紫と稔の声が聞こえる。
蛍はドアノブにかけた手を引っ込めて、悪いと思いながらもそのままドア越しに耳を澄ませた。
「――この間、軽井沢に行かれたそうですね」
稔の声だ。
蛍は稔の声を聞いて、自分が何とも言えない不快な気持ちになっていることに気付いた。
あのホンダのNSXの赤い塗料が、頭から離れない。
「そう。仕事と、ママに会いに行って来たの」
稔の声に続いて、紫の声が聞こえてくる。
「お母さま、お元気でしたか?」
「知ってるくせに、相変わらずに決まってるじゃない。――パパも相変わらずだったけど」
「あなたのお父さまも『紫は相変わらず僕に会おうとしない』っておっしゃってましたよ」
「えっ? まさか、私が軽井沢に来てたこと、パパは気づいていたの?」
「ええ。病院の中庭を見知らぬ男と一緒にのぞき込んでいたと言っていました。軽井沢、助手の方と一緒にいらしてたんですね?」
「パパも相変わらずね。気付いていて、娘に話しかけようともしないなんて」
「あなたもお父さまに話しかけようともしなかったでしょ? やはり親子ですね、良く似ている」
キュッという音が聞こえて来た。
多分、部屋の中にいる紫か稔の靴が床をこすった音だろう。会話の雰囲気から、紫が体の向きを変えたのだろうか。
「私はママ似よ。良く分かってるくせに。――もうちょっとで仕事に行かなくちゃいけないから、そろそろ帰って」
「仕事ですか。いつまで今のお仕事をされているおつもりなんですか?」
「えっ?」
「あなたみたいなお嬢さまは仕事をせずにお父さまのところへ戻れば良いんです。もしくは、僕と結婚して……」
稔の声を遮るように、またキュッという音が聞こえて来た。紫の靴の音なのだろうか。
「その話はきっぱりと断ったはずよ。許嫁の話はパパが決めたことだし、私は家を出た人間だから、もうそんなの関係ないわ。あなたもいつまでも私みたいな小娘を追いかけてないで、さっさと諦めたら? 私はあなたと結婚なんて絶対にしないから」
「確かに許嫁の話はあなたのお父さまが決めたことです。あなたから断ると何度も聞きました。でも、僕はあなたと結婚したいんです、あなたを愛しています」
蛍は耳を澄ませたまま、その場から動けなくなった。
しばらくの間、蛍の耳には自分の心臓の音しか聞こえてこなかった。




