②
翌日の夕方。
蛍が出かけようと玄関で靴を履いていると、キッチンから蛍の母親の紅葉が顔を覗かせた。
「何? 出かけるの? 夕飯は?」
「ああ、帰って来てから食べるから、母さん先に食べてていいよ」
「どこ行くのよ? 友だちのところ? まさか、早速仕事の面接とかじゃあるまいしね……」
「まあ、そんなところ。――じゃあ、行って来る」
「行ってらっしゃい」
紅葉は後ろ手に軽く手を振った。
母親はきっと、さっきの自分の言葉を「友だちのところへ行く」と解釈したんだろうな、と蛍は思った。
――もし、あなたが今まで寝ている間に一度も夢を見たことがなかったら、すぐに仕事を紹介してあげられなくもないけど。
蛍は最寄り駅まで歩きながら、昨日、あの「賢木紫」という女の子が言った言葉を思い出した。
どうして、自分が夢を見たことがないなら、すぐに仕事を紹介してあげられるのだろうか。
どうして、あの賢木紫という女の子は、自分が夢を見たことがないことを知っているのだろうか。
もしかすると、自分が夢を見たことがないのを知っていなくて当てずっぽうで言ったのかもしれないが、それでもなぜ「夢を見たことがない」ことにこだわるのだろうか。
第一、あの賢木紫という女の子は何者なのだろうか……。
昨日、紫と別れてから何度も同じ問いを心の中で繰り返しているが、一つも回答が出てこない。
だから、蛍はこうやって紫が指定した18時に紫が指定した住所へ行ってみようとしているのだった。
紫の言った通り、蛍は今まで寝ている間に夢を見たことがない。
本当に、生まれてから一度も夢を見たことがないのだ。
夢を見ないせいかはわからないが、小さい頃から眠りが深く、睡眠時間は3時間くらいあれば十分だった。
3時間寝れば自然と目が覚めて、頭もスッキリしている。睡眠時間が足りないとか昼間に眠いと思うこともなかった。
母親に自分の「変な体質」を打ち明けたこともあったが、「何言ってるの? 夢見ても忘れてるだけでしょ?」「子どもがそんな睡眠時間で足りるわけがないでしょ?」と言って取り合ってくれなかった。
蛍も「母親の言う通りかもしれない」と自分の変な体質を見て見ぬ振りをして過ごして来た。
でも、やっぱり自分は夢を見たことがない。
睡眠時間も他の人に比べると、圧倒的に少なくて済む。
夢を見たことがないのはまだしも、睡眠時間が少ないのであればそれはそれで便利なのではないか、と思う人もいるだろうし、実際に蛍も「便利だ」と思ったこともある。
睡眠に時間が取られないので、勉強や趣味に時間を費やすことができる。
証拠に蛍はそれなりに勉強する時間が取れたので有名な私立大学に入学することが出来たし、普通の睡眠時間の人よりもたくさん本を読んだり映画を観たりすることができた。
ただ、厄介なこともたくさんあった。
母親に「何言ってるの? 夢見ても忘れてるだけでしょ?」「子どもがそんな睡眠時間で足りるわけがないでしょ?」と言われて、自分でも「母親の言う通りかもしれない」と見て見ぬ振りをすることにした以上、そのように振る舞わなければいけない。
夜は普通の男の子と同じような時間帯にベッドに入る。
でも、眠れないから、毛布の中で俗に言う「狸寝入り」をするか、母親に隠れてこっそりと本を読むかしていた。
母親はもちろん寝ていると思っている。母親だけでなく父親や姉も蛍が寝ていると思っている。
そうすると、時々聞いてはいけないようなことが耳に入って来るのだ……。
――がたん、と電車が停止する。
物思いに囚われていた蛍はハッとして辺りを見渡した。
向こうのホームからピアノの発車メロディーが流れて来た。
昨日、自分が賢木紫という女の子と出会った歩道橋にほど近いN駅に着いたのだ。
蛍は慌てて人混みをかき分けて、電車を降りた。
あの賢木紫は「ここの近くに研究所がある」と言っていたが、スマホで地図検索すると確かに「日本夢見研究所」はN駅の、昨日の歩道橋の近くにあった。
(――それにしても、この「日本夢見研究所」って一体何なんだろう?)
蛍は名刺の住所の場所へたどり着くと、上を見上げた。
5階建ての、小さなビルだった。ビルの入口の周りの壁は真っ白だと言うのにビルの外壁は真っ黒で、ベランダの形は直角三角形のような形をしている。
一応、デザイナーズビルというのだろうか。見た目はモノクロでシンプルだがベランダの直角三角形の構図と言い、ちょっと変わった造りのビルだった。
そんなモノクロのビルの前に、なぜか真っ赤なスポーツカーが停まっていた。
この車って、確かホンダの「NSX」だよな、と蛍は思った。
自分には一生縁がないような高級スポーツカーだ。
あの賢木紫が約束した18時までにはまだ少し時間があったので、蛍は悪いと思いながらも好奇心に押されて車の中を覗き見してみた。
車の外側だけでなく、中の座席も赤を基調としたシートで統一されている。
こんな高級なスポーツカー、しかも赤い色の車に乗る人物とは一体どういう人なのだろうか? と蛍が考えを巡らせていると、ビルの入口の白いドアがさっと開いた。
ビルの中からグレーのスーツを着た男性が出て来る。
年齢は蛍よりも5、6歳上だろうか。ついこの間まで平凡なサラリーマンだった蛍にもすぐにわかるくらい、仕立ての良いスーツを着ている。自分が良く買っていた紳士服販売チェーンのものとは明らかに違った。
蛍は思わずその男性の方をジッと見ていることに気付いて、慌てて顔を背けた。
スーツだけではない、男性は容姿やスタイルも仕草も洗練されていて、同性の蛍も目を見張ってしまうほどだった。
俳優と言われても納得するだろう。
もしかすると、自分が知らないだけで本当に著名人か何かなのだろうかと蛍が思っていると、男性はビルの前に停めてあったあの真っ赤なスポーツカーに乗り込んだ。
蛍が気にしていた車は、この男性の車だったらしい。
男性が車に乗り込む時、男性のスーツについていた小さな何かが、ひらりと道路に落ちた。
蛍が何が落ちたんだろうと思っていると、男性は車のエンジンをかけて、夕闇の街をどこかへと消えて行った。
車が行ってしまうと、蛍は車が停まっていた場所に歩み寄って、身を屈めた。
道路の上に、まるでさっきの赤いスポーツカーの一部が落ちたかのような、深紅の花びらが一枚落ちている。
さっき男性のスーツからヒラリと落ちたものは、この深紅の花びらのようだった。
蛍が花びらを拾い上げてみると、どうやら深紅のバラの花びらのようだった。
真っ赤なスポーツカーに深紅のバラの花びら。
まるで、異国の映画や小説に出て来る小道具のようだ……。
蛍は少しの間、その深紅のバラの花びらを見つめていた。
そのまま花びらを道路に落としても良かったが、何故かそんな気にはなれなかった。やがて蛍はバラの花びらを着ているジャケットのポケットにしまうと、ビルの中へと入って行った。