⑦
紫と蛍が廊下に出ると、あのグレイヘアの女性が手に封筒を持って近づいて来た。
「――今日も遠いところをありがとうございました。こちらを」
女性が紫に封筒を渡す。
多分、封筒の中には謝礼が入っているのだろう。紫は軽く会釈をして女性から封筒を受け取った。
「また来ます」
「はい、宜しくお願いします。ありがとうございました」
女性が深々とお辞儀をすると、紫は足早に廊下を歩いて行く。
蛍も紫の後を追った。
さっきまで幼い子どものように震えていたとは信じられないような速さだ。
紫は玄関までその速さで駆け抜けるように歩いて行ったが、玄関の扉を開けて外に出た途端、ぴたりと歩みを止めた。
(――えっ?!)
どうして急に止まったのだろうかと蛍が思っていると、紫の身体がぐらりと傾き、紫はその場にしゃがみ込んでしまった。
「――えっ?! 大丈夫?」
蛍が慌てて紫に駆け寄ってみると、紫の顔色は真っ青になっていて身体も微かに震えている。
さっきの恐怖の表情が、また紫の顔に表れていた。
「別に、大丈夫……」
紫は微かな声で言ったが、顔色を見ただけでも大丈夫でないのは明白だった。
「大丈夫じゃないよ! 顔が真っ青だし。ここら辺、救急外来は……」
蛍が立ち上がって辺りをきょろきょろと見渡すと、紫は蛍の手を掴んだ。
「本当に大丈夫。とりあえず、ホテルに戻りましょう」
紫は立ち上がったが、ふらりと身体をよろめかせた。
蛍は慌てて紫の身体を支えた。
――花の香りがする。
紫の身体を支えた瞬間、蛍は確かに花のような香りを感じた。
周りには香りがするような植物や花は何もない。
多分、紫のつけている香水か服の柔軟剤の香りなのだろう。
でも、蛍はあのバラ園の夢の続きを見ているのだろうか、と思ってしまった。
家の前の道路にはあのグレイヘアの女性が用意したのか紫が呼んだのかはわからないが、タクシーがエンジンを切らない状態で停まっていた。
蛍は紫を抱えるようにタクシーの後部座席に乗ると、さっき入ったホテルの名前を運転手に告げた。
紫は座っているのさえも難儀そうにタクシーの後部座席にうな垂れていた。
顔色も悪いままだ。
タクシーの運転手も心配してくれたが、紫は小さい声で「大丈夫です」と繰り返すだけだった。
(――いや、全然大丈夫じゃないだろう)
さっきは確かに気丈に歩いていたはずなのに……と思ったが、あれはただ単に気が張っていただけなのかもしれない。
紫は仕事のクライアントに対して愛想笑いもしないし優しい言葉も掛けないが、仕事自体に対してはプロ意識が高いのかもしれない。
クライアントの前では、心配を掛けまいと具合が悪いのを隠していたのだ。
だから、玄関のドアを出た途端に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだのだ。
蛍は心配しながら紫の隣に座っていたが、それでもホテルに着く頃には紫の顔色も少しは良くなってきていた。
それでも、タクシーを降りる紫の足元はふらついている。
蛍は紫のカバンを持つと、紫の腕を掴んだ。
「――大丈夫? 部屋まで送るよ」
「大丈夫、一人でも行けるから」
紫は蛍の腕を振り払うように歩き始めた。
まるで幽霊か初めて歩き始めた子どものような足取りだった。
蛍は紫がふらふらと歩みを進めるのをじっと見ていた。
――このまま一人で行かせた方が良いのかもしれない。
本人も「一人で行けるから」と言っているし、自分がこれ以上口を挟むのは紫の迷惑になるかもしれない。
多分、紫も頬っておいてもらうことを望んでいるのだ。
自分は紫にとってはただの「仕事の助手」という立場なだけだし……。
「――待って!」
蛍は「このまま自分の部屋に戻ろう」と思っていたはずなのに、気づくと手を伸ばして、再び紫の腕を掴んでいた。「やっぱり、部屋まで送るよ。途中で倒れたりしたら危ないし。カバンとカギ貸して」
「でも……」
「良いから、貸して」
蛍は呆気に取られている紫の腕を掴んだまま、紫のカバンと上着のポケットに入っていたカードキーを半分無理矢理に取った。
「――」
紫は表情を変えなかったが、それ以上は何も言って来なかった。
蛍は紫の腕を掴んで身体を支えるようにして、そのまま廊下を歩いて行った。
二人は無言のままエレベーターに乗った。
紫の部屋は蛍と同じ二階だったが、少し離れた一番奥にある部屋だった。
ドアの感じが違うから大体の予想はついたが、蛍の部屋よりも紫の部屋の方が大きく、ベッドや部屋の造りにもゆとりがある。カーテンの向こうにはバルコニーも見えた。
蛍は紫をベッドに座らせると、カバンをソファの上に置いた。
紫をベッドに座らせる時に紫の顔を覗いてみたが、かなり顔色は良くなっていたし、座る時の足取りもしっかりとして来たように見える。
「何か飲み物買って来ようか? いるものとかある?」
「でも……」
「あっ、俺も何か食べるの買いたいから……」
ホテルの近くにコンビニらしいものはなかったが、駅の近くには何かあったはずだ、と蛍は昼間ホテルへ来るまでの工程を思い出しながら言った。
「そうしたら、早く行かないと。軽井沢、コンビニは23時には閉まっちゃうから」
「えっ?! そうなの?」
コンビニって普通は24時間やっているものではないのだろうか、と蛍は慌てて自分のポケットに入っていたスマホの時計を見た。
とりあえず、23時まではまだ時間はあった。
「そうよ、レストランとかも23時には閉まるの。とりあえず、早く行って来て。私は水とかそういう飲み物だけで良いから」
「わかった」
蛍は足早に部屋を出た。
紫はもう大丈夫だろう。部屋には戻ったし、食欲はないかもしれないが足取りも顔色も良くなってきている。
蛍はホテルの前でタクシーを捕まえると駅前のどこかコンビニへと告げ、スマホを取り出した。
スマホで調べてみると、軽井沢のコンビニが23時に閉まるのは本当だった。
軽井沢には特別に条例があり、23時以降の営業活動が禁止されているらしい。コンビニだけでなくレストランなど全ての店が同じだ。
危なかった……と蛍はため息を吐いた。
東京と同じ感覚で過ごしていたら、うっかり夕食抜きになるところだった。
駅前のコンビニで買い物を済ませて、またタクシーでホテルへ戻る。
タクシーの窓に映る風景はのどかな田舎そのもので、明かりもぽつぽつとしか見えない。
東京を「眠らない街」などと表現する時もあるが、ずっと東京で暮らして来た蛍にはイマイチ実感のない言葉だった。
生まれた時から「眠らない」が当たり前だったからだ。
でも、今確かに東京が眠らない街なんだと良く分かった。
自分の住んでいる東京は、軽井沢などの地方から見たら東京の方がむしろ特別なのだろう。




