④
蛍はその日、「友だちの家へ泊まりに行く」と言って、一泊分の荷物を持って家を出た。
母親の紅葉は特に不審そうな視線も見せずに、「はい、行ってらっしゃい」といつものように送り出した。
紅葉に言った「泊まりに行く」は本当だが、「友だちの家へ」はうそだった。
昨日、突然紫から電話が来たのだ。
――明日の仕事は泊りだからよろしく。
それだけ言って、紫は電話を切った。
さすがに蛍も「えっ? どこへ?」と訊こうとしたが、電話が切れてしまったので訊きそびれてしまった。
別に紫に電話を掛け直して「どこに行くの?」と訊いても良いのだが、何となく自分から連絡するのは気が引ける。
蛍が紫の「日本夢見研究所」へ行ってみると、紫は相変わらず黒いワンピース姿だった。
いつもと一つだけ違うのは、手元にいつもよりも大きいボストンバッグを抱えているところだけだった。
ただ、そのボストンバックも相変わらず黒色だ。
「じゃあ、行きましょうか」
紫はさっさと歩き始めた。
「――あの」
蛍はさすがに紫に声を掛けて引き留めた。「一体、これからどこへ行くの?」
「軽井沢」
「軽井沢?」
「そう、今日のクライアントは軽井沢に住んでいる人なの」
タクシーに乗って東京駅へ行き、新幹線に乗って軽井沢まで行く。
東京から軽井沢へ行くまで、蛍と紫はほとんど会話をしなかった。
移動の時間、普通の人なら眠ることもあるのだろうが、蛍も紫も睡眠時間は十分足りている。新幹線の座席に座るなり、紫はバックから取り出した本を読み始めたので、蛍も文庫本を取り出して読み始めた。
蛍は時々活字から目を離して窓の外を眺めたり周りの乗客を見たりしたが、紫はほとんど本から目を離さなかった。
――紫も読書が好きなのだろうか。
紫も自分と同じように夢を見ず睡眠時間も短くて済むなら、自分と同じように夜の長い時間を持て余して来たのかもしれない。
皆が寝静まっている時にできるのは、読書がヘッドフォンをしての映画鑑賞か音楽鑑賞か、それくらいだ。
紫も自分と同じように睡眠時間が少ないのであれば、長い夜の時間に本を読んだり映画を観たりしているのだろう。
――どんな本を読んで、どんな映画を観ているのだろう。
気になるな、と蛍は思ったが、ただ活字を目で追っている紫には何かしら迂闊に声を掛けられないような雰囲気が漂っている。
蛍は諦めて、自分が開いている文庫本の続きを読み始めた。
軽井沢駅に着くと、紫は迷わず真っすぐにタクシーの停まっている場所へ行き、空車を一台捕まえた。
紫に手招きされて、蛍は紫に続いてタクシーの後部座席に乗った。
「――もう、クライアントのところへ行くの?」
辺りはまだ明るいのに、もうクライアントの元へ夢を見せに行くのだろうか。
「まだ、これからホテルへ行くの」
「ホテル?」
蛍が言うと、まるで答えか何かのようにタクシーがすっと停まった。
紫に続いてタクシーを降りた蛍は思わず目を見開いてしまった。
紫はホテルなんて何でもないような口調で言ったが、目の前に建っていたのは明らかに高級の部類に入るホテルだった。
ホテルというよりは洋館のようなモダンな作りの建物。
広々とした庭の植え込みも良く手入れされている。
ホテルと言うと駅前にあるようなビジネスホテルしか利用したことがない蛍は、立ち止まってホテルを見上げてしまった。
ただ、紫はさっきタクシーを捕まえた時のように何の迷いもない様子で、さっさとホテルに入って行く。
蛍は慌てて紫の後を追いかけながら、もしかすると紫は何度も軽井沢を訪れたことがあるのではないのだろうかと思った。
さっき、軽井沢駅に降り立った時も全く迷うことなくタクシーのある場所へ向かったし、ホテルの入口やフロントの場所も熟知しているような様子だ。
「――はい、これ、あなたの部屋の鍵」
フロントでチェックインした紫はそわそわしている蛍にカードキーを手渡した。「私、ちょっと出かけて来る。戻ったら仕事しに行くから、部屋で待ってて。戻ったら連絡するから」
「えっ? 出かけるの?」
蛍は「どこへ?」と反射的に訊きそうになったが、紫は蛍に背を向けるとホテルを出て行ってしまった。
一人残された蛍は、とりあえず自分の部屋へ行ってみた。
部屋に入ってみると、ホテルの見た目に違わないゆったりとして快適そうな室内だった。
良くあるビジネスホテルの泊まるだけが目的の部屋とはまるで違う。
部屋の作りにはゆとりがあるし、ベッドはダブルサイズだし、バスルームも異様に広い。
蛍が窓にかかっているカーテンを開けると、軽井沢らしいずっと眺めていたいような自然の風景が広がっている。
一応自分は仕事でこのホテルの泊まるのだから、これは出張なんだよな? と蛍は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
でも、普通の会社に勤めていたら、こんな豪華なホテルを出張目的では使えないだろう。
フロントでは紫がキャッシュカードをスタッフに渡していたから、交通費はもちろんホテル代も紫持ちなのだろう。
本当にあの紫という女の子は何者なのだろうか。
そして、紫は自分を置いてどこへ出かけたのだろうか。
蛍はそんなことを考えながら、ただ窓から自然の風景を眺めていた。
二時間ほどすると、紫から「フロントに来て」と連絡が来た。
部屋の中ですることもなく、ぼんやりと窓の外を見たり部屋の中をぐるぐる回ったりしていた蛍は、上着を羽織るとすぐに下へ降りてみた。
もう、陽が傾き始めている時間だ。
窓の外からは赤い夕陽が見えて、ホテル中の照明も灯り始めている。
紫はフロントに降りて来た蛍を見つけると、そのまま背を向けてホテルの出入り口へと歩き始めた。
蛍も紫の後ろを付いて行った。
ホテルの前にはタクシーが一台停まっている。
紫はタクシーに乗り込み、蛍も続いてタクシーに乗り込んだ。
「――何してたの?」
タクシーに乗って少し経つと、紫が口を開いた。
この一日、紫との会話がほぼなかったため、蛍は最初自分が話しかけられていると思わなかった。
少しして紫は自分に訊いているのだろうと気付いて、慌てて紫を見た。
紫は特に蛍には目もくれず、ただ前を見つめている。
「いや、別に……。ただ、部屋にいたけど」
「そう」
紫はそれ以上、何も言わなかった。
蛍は紫に「君はどこへ行っていたの?」と訊こうとも思ったが、そのまま黙っていた。




