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夢の終てまでも  作者: 木原式部
3.夢の終てまでも
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「――紫お嬢さま」

 男性は笑みを浮かべながら部屋に入って来たが、紫のすぐ隣に立っている蛍に気付いて怪訝けげんそうな表情をした。「お嬢さま、こちらの男性は一体……」

「私の助手よ」

「助手?」

「そう、この間から仕事を手伝ってもらってるの」

「なるほど、では、ご挨拶をしないと」

 男性は蛍に笑顔を見せた。「初めまして、葉賀稔はがみのりと言います。そちらにいらっしゃる紫お嬢さまの許嫁いいなずけです」

「許嫁?!」

 蛍が大きな声を上げて紫を見ると、さっきまで全く表情を崩さなかった紫が明らかに怒ったような表情を見せた。

「葉賀さん、そのことは前にちゃんとお断わりしたはずよ」

「でも、僕は承諾していない。もちろん、あなたのお父様もね」

「パパは関係ないわ。それに私、家を出て行ったし……」

「お父様はいつもあなたを心配してますよ」

「心配してるって、どうだか。パパ、自分で来ないであなたを寄こしている時点でそんなに心配してないんじゃないの?」

「ここに来ているのはあなたのお父様の差し金としてではありません。僕の意志です」

 葉賀稔はがみのりと名乗った男性は紫に近づくと、手に抱えていた花束を紫に差し出した。

 ふわり、とバラの花の香りが蛍まで漂って来る。

「今日はそれ、受け取らないから」

 稔が近づいて来るに連れて、紫の表情に変化が現れたのを蛍は見逃さなかった。

 紫の周りから怒りのオーラが消えて、代わりに紫の頬が紅潮してくる。


 蛍は初めてこの部屋を訪れた時のことを思い出した。

 あの時も紫は今みたいに少女のように頬を紅潮させていた。

 やっぱりあの時、この部屋に来ていた先客はこの稔で、あの深紅のバラの花束を持ってきたのも稔だったのだろう。

(――それにしても、許嫁って)

 許嫁なんて今ではほとんど使わない言葉だが、蛍だって言葉の意味くらいは知っている。

 今はどうかはわからないが、この二人はいずれ結婚すると約束されていた間柄なのだ。

 それに、「お嬢さま」って……。

 少なくとも、一般の家庭に育った人間にお嬢さまなんて言わない。

 蛍も他人からお坊ちゃまと言われたことはないし、年の離れた姉がお嬢さまと言われたのも聞いたことがない。

 紫はお嬢さまと呼ばれるに相応しい家柄の生まれなのだろう。


 納得できる、と蛍は思った。

 今までの紫の仕草を見れば、紫がお嬢さまと呼ばれるに相応しい人間なのは納得できる。

 どんなにすごい豪邸に入ってもまるで自分の家のように平然と振る舞っているし、謝礼の札束の入った封筒を受け取っても表情一つ変えない。

 何よりも普段の仕草や言葉遣い。

 一般の女の子に比べれば、仕草は上品だし言葉遣いも上品だ。

(――成り行きとはいえ、俺、もしかしてすごい令嬢の仕事を手伝っているんじゃないのか?)


 それにしても、と蛍は隣にいる紫と稔に見惚れている自分に気付いた。

 頬を紅潮させている美しい女の子とまるでスクリーンから出て来たような男性、そして、かわいらしい淡いピンクのバラの花束。

 まるで、ドラマか映画のワンシーンのようだ。

 蛍は自分がここにいるのが場違いな気がして来て、二人から一歩離れてしまった。


 稔は顔を背けている紫の手を取ると、バラの花束を握らせた。

 その一連の仕草もまるで絵画か何かのようだった。

 蛍は言葉を発することも出来ず、ただ二人の様子に見入っていた。


 紫は「今日はそれ、受け取らないから」と強気で言った割には、頬を紅潮させたまま、大人しくバラの花束を受け取っていた。


 紫の稔を見上げた時の、あの熱っぽい視線。


 蛍は紫の熱っぽい視線を見た瞬間、胸の奥に小さな痛みが走ったような気がした。

 あの視線、紫が「そう、あなたみたいな人をずっと探していたの」と自分に言った時と同じ視線だった。

 自分は紫からあの視線で見られた時、「この女の子は自分に恋している」と勘違いしそうになったっけ……。

(――あの視線、他の人にも向けるんだ)

 自分だけに向けていたものじゃないのかと思うと、胸の奥が痛いような気がする。


「――今日は助手の方もいらっしゃるようですし、これで帰ります。また来ますね」

 稔は紫に微笑みかけると、助手と言った蛍にも微笑みかけたが、蛍に向けた笑顔は明らかに違うものだった。

「もう、来なくて良いから」

「また、来ます」

 稔はドアの前で振り返ってもう一度紫にだけ笑顔を見せると、そのまま部屋を出て行った。


 部屋の中に沈黙が訪れた。

 蛍はただ黙って紫と紫が抱えているバラの花束を交互に見ていた。

 紫の頬はもう紅潮していないが、それでも頬紅をひと刷毛塗ったかのようにほんのりとピンク色になっている。

 まるで、抱えているバラのピンク色が頬に移ってしまったかのようだった。


「――何、こっちを見てるの?」

「あっ」

 紫に声を掛けられて、蛍は我に返った。

 紫は机の上に花束を置くと、部屋の隅にかけてあった薄手の上着を羽織った。

「もう、帰りましょう。私も帰るから」

「うん」

 蛍は紫に色々と訊きたかったが、何も言うことが出来ず黙ったままソファの上に置いてあった自分の上着を手に取った。

 今度は紫がいやにじろじろと蛍を見てくる。

「――何も訊かないのね」

「えっ?」

「ほら、さっきの男が何者なのかとか、あの男が言っていたことが本当なのかとか」

「それは……」

 蛍も確かにあの稔が何者なのか、どうして紫がお嬢さまと呼ばれているのか、本当に稔と許嫁なのか……等々、訊きたいことがたくさんあった。

 でも、訊けなかった。

 訊いて良いのかわからないし、訊いて紫が不愉快になるのもあれだし、と思ったのだ。

 色々と考えてみると、自分の好奇心を満たすために質問するよりも、何も見なかった振りをして何も訊かないでいた方が平和だと思ったからだ。

 今までもそうやって見て見ぬ振りをしてやり過ごしてきた。

「まあ、確かに訊きにくいことだし、仕方ないか。――本当、どうして男の人って見て見ぬ振りするのかしら?」

「えっ?」

「ううん、こっちの話。――早く出て、鍵かけるから。また次回もよろしく」

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