①
「――あっ!」
目の前にいた紫が何かに気付いたような声を上げると、突然走り始めた。
「えっ?!」
蛍は思わず紫が走って行った方向に手を伸ばした。「どうしたの? 何かあったの?」
蛍は自分も走り出そうとしたが、足元に柔らかく絡みつくものに足を取られて上手く前へ進めない。
――柔らかくて心地よい。
足元に絡みつくこれは何なのだろう?
毛足の長いカーペットのようでもあるし、温泉にある足湯のようでもあるし、口に入れた途端に溶けていくゼリーのようでもある。
靴や靴下に何か水分のようなものが入って来る感覚もあるが、不快な気持ちは一切ない。
ずっとこのまま足元に絡みついてほしい気もするが、目の前の紫がどんどん遠くへと走って行ってしまう。
「――待って!」
蛍は紫の背中に向かって叫んだ。
どんなに心地よい場所とは言え、ここに独りで取り残されるのは不安だ。
自分を置いて行かないでくれ……。
「――大丈夫?」
ふいに左肩を叩かれる。
上から聞こえて来た声に、蛍は瞼を開いた。
さっきまでいた心地よい世界はどこにもない。薄暗い部屋の中で瞼を開くと、目の前に紫の無表情の顔があった。
大丈夫? と言っている割には特に心配もしていないような表情だ。
蛍は慌てて身体を起こした。
薄暗くて良く見えないが、明らかに広くて豪華な部屋の風景が広がっている。
ここは……。某高級ホテルのスィートルームの一室だ。
そんな高級な部屋の隅で、自分は倒れていたらしい。
前も気付いたら倒れていたし、その前も気付いたら倒れていたな、と蛍は立ち上がりながら苦い表情をした。
自分に似つかわしくない高級な部屋に行くと、アレルギーか何かでも起こしてしまうのだろうか。気付いたら三度ともぶっ倒れているなんて……。
紫に連れられて、見たい夢を見せるためにクライアントの元へ来たのもこれで三度目だが、全く慣れないと蛍は思った。
まず、クライアントに慣れない。初めて紫に着いて行った時のクライアントは豪邸の持ち主だったが、他のクライアントも同じような感じだった。今日は高級ホテルに招かれたが、この間のクライアントの自宅も目を見張るような大きくて豪華な家だった。
あと、夢の世界にも慣れない。
いつの間に夢の中へ行って夢の中から出て来るのか全くわからなかった。さすがに最初ほど夢の中へ行く時に恐怖は感じないが、気付いたら夢の世界にいてあの何とも言えない心地よさを味わい、気づくと豪華な部屋の隅にぶっ倒れているのだ。
紫は特に「夢の中にはこう入って……」とか「夢の中に入るにはこうすれば……」とか説明はしない。ただ、紫が眠っているクライアントの横に座って瞼を閉じると、自分も紫もいつの間にか夢の世界に移行しているのだった。
一体、紫はどうやって夢の世界へ入っているのだろうか。
(――そう言えば、「私とか私のママとかあなたみたいに夢を見ない人間は、他人に見たい夢を見せることが出来るの」って言っていたな)
夢を見ない人間は他人に見たい夢を見せることが出来る。
自分にも紫と同じようなことができるのだろうか。
(――でも、いくら俺が夢を見ないとは言っても、だからって他の人に夢を見せることができるとは限らないし)
今の自分の状況では、紫と同じ芸当が出来るとは到底信じられない。
蛍がまだ夢の中と言った感じでぼんやりとしていると、紫は窓の近くのテーブルに置いてあった封筒を手に取って中身を見た。
多分、あの中には夢を見せた謝礼の札束が入っているのだろう。
「――OK、ちゃんと指定した金額が入ってる。じゃあ、帰ろうか。……今日もだめだったし」
「えっ?」
(――「今日もだめ」って、何が?)
蛍は紫が最後にがっかりした表情を浮かべながら独り言のように呟いた言葉を聞き逃さなかった。
そう言えば、この間も「違う……」とか何とか紫は呟いていたような気がする。
(――「指定した金額が入ってる」って言ったから、謝礼の額が違うってわけではないだろうし)
蛍は紫に「だめって、何が?」と訊こうとしたが、いつものくせで見て見ぬ振りをしてしまった。
――何か言いたいこととか訊きたいこととかないの?
紫が初めて夢の中に入った日に言った言葉が蛍の頭を過った
紫はあの日以来、「何か言いたいこととか訊きたいこととかないの?」と自分に言っては来ない。
でも、何を訊いて良いのか何を訊いてはいけないのかよくわからない。
紫が自分に「夢の中への入り方」を言って来ないのも、もしかすると、自分が夢の中の世界に慣れていないから(いつも気付くとぶっ倒れているから)、慣れたら言おうと思っているのかもしれない。
蛍はそんなことを考えながら、紫の後に続いてタクシーの後部座席に乗り込んだ。
「――今日もありがとう。じゃあ、これ」
例の「日本夢見研究所」に戻ると、紫は蛍に封筒を手渡した。
蛍が紫の仕事を手伝った――とは言ってもまだぶっ倒れるのが仕事のようなものだが――謝礼だ。
謝礼は蛍が予想していたよりも遥かに高い金額だった。
まあ、紫が実際に夢を見せたクライアントからもらう金額に比べれば微々たるものかもしれないが、それでも蛍は短時間でこれだけの金額を貰えて満足だった。
「じゃあ、俺はこれで……」
蛍が封筒を受け取って部屋を出て行こうとすると、紫が何かに気付いたらしく部屋の奥の窓に駆け寄って下を見つめた。
「こんな遅くに……」
「えっ?」
蛍が紫の隣に行って窓の下を見下ろすと、ビルの前に車が停まっている。
さっきビルに戻って来た時には車なんて停まっていなかったから、今停まったのだろう。
夜の街でも目立ってしまう、真っ赤なホンダのNSX。
蛍は「あっ」と声を上げそうになってしまった。
あのNSX、自分が初めてこの「日本夢見研究所」を訪れた時に停まっていた車と同じではないだろうか。
蛍の問いに答えるかのように、運転席のドアさっと開いて、中からスーツを着た男性が降りて来た。
やっぱり……と蛍は車から降りて来た男性を見ながら思った。
この間とは違うが、やはり見た目に仕立てが良いとすぐにわかるような濃いグレーのスーツ。
そして、男性の手には淡いピンク色のバラの花束が抱えられている。
蛍は隣りにいる紫を見た。
紫の表情は特に変わらない。いつもと同じ無表情だ。
ただ、バラの花束を抱えている男性を、いやにじっと見つめている。
あの男性はやはり紫の客人なのだろうか、蛍がそんなことを考えていると、インターフォンの音が部屋に響いた。
蛍と紫は反射的にドアを振り返った。
紫は少し躊躇したが、やがて「どうぞ」とそっけない口調で言った。
ドアが開いて、さっきのスーツ姿の男性が目の前に現れる。
男性の姿を見て、蛍は思わず声を上げそうになった。
初めて男性を見た時も同性だというのに目を奪われたが、間近で見るとまた違う迫力があった。
スタイルの良さ、仕立ての良いスーツ、手に抱えているバラの花束と相まって、本当にテレビ画面か映画のスクリーンから飛び出て来た俳優のように見える。




