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夢の終てまでも  作者: 木原式部
1.駅近くの歩道橋の上で
1/54

 今、自分がこの歩道橋の上から飛び降りたら、本気で悲しむ人は何人いるのだろう。


 東京メトロの駅近くの歩道橋。

 青井蛍あおいけいは歩道橋の上から道路を見下ろしながら、心の中でため息をついた。


 蛍は暗闇の中で車のライトが行き来するのを見ながら、胸がむかむかしてくるのを感じた。

 別に、車を見ていて気持ちが悪くなったわけではない。少々飲み過ぎたせいだ。

 今日は新卒から約3年間勤めていた会社の最後の出勤日だった。

 明日で蛍の働いていた会社は消滅してしまう。

 倒産だった。

 でも、飲み過ぎたのは、一緒に働いた人たちとお別れ会をしたから、というわけではない。

蛍はさっきまで一人で飲み歩いていた。飲み会みたいな行為が好きではない彼にしては珍しく、二件も店をハシゴしたのだ。

 今日は飲まずにはいられない気持ちだった。


 蛍は会社を退社する直前に、同僚の女性と交わした会話を思い出した。

 密かにその女性に好意を持っていた蛍は、「今度一緒にどこかへ行きませんか?」とデートに誘う予定だった。

 蛍はありったけの勇気を出して女性に話しかけたのに、こう言われたのだ。


 ――私、今度結婚することになったの。


 女性は「大学の時の同級生に会社が倒産するって話したら、『次の仕事見つかるまで、俺が面倒見るよ』って言ってくれたんだ」と嬉しそうに話した。


 笑顔で語る女性を前に、蛍はもう何も言えなくなってしまった……。



 蛍は女性の言葉を思い出しながら、歩道橋の手すりにうな垂れて、またため息をついた。

 さすがに失恋したくらいで、歩道橋の上から飛び降りるような真似はしない。

 ただ、この歩道橋の上から飛び降りたとしても、あの女性は自分が飛び降りたことにさえ気付かないだろう。自分がいなくなっても悲しむことなく、同級生と結婚して行くのだ。

 あの女性だけでなく、他の人だって……。


 多分、自分の母親や家族は悲しんでくれると思う。

 友だちの何人かも悲しんでくれるはずだ。

 でも、自分がいなくなって本気で悲しむ人は、何人もいない。


 自分の人生って何なのだろう、と蛍は思った。

 今まで、それなりに頑張って生きて来た気もするけど、いつも報われないような気がしてならない。

 どうしてなのだろう……。



 蛍は物思いにふけりながら、ひたすら歩道橋の下を流れて行く車のライトを目で追っていたが、ふと、何かの気配を感じて顔を上げた。

 酒のせいで重たい頭を左に向けると、自分に向かって人が歩いて来るのが見える。

 その人は、周りの暗闇に紛れてしまいそうな、真っ黒い服を着ていた。

 顔は影になって見えないが、服はワンピースだし、雰囲気的にも自分と同じくらいの年齢の女の子だろうか。

 履いている靴も靴下も、持っているカバンも黒かった。艶やかな髪も黒で、俗に言うボブカットくらいの長さだ。

 髪も服も靴も、身に着けているものは全て黒いのに、袖口から覗いている手の甲は白かった。


 その時、目の前が急に明るくなった。

 歩道橋の下を通り過ぎる車の一台が、パッシングでもしたのだろう。

 自分に向かって歩いて来る女の子の顔が、ライトに照らされて一瞬はっきりと見える。

 蛍は思わず「あっ」と声を上げた。

 女の子の瞳は髪と同じように憂いを含んでいるかのように艶やかで黒く、唇の色は赤かった。


 美しい、と蛍は思った。

 一瞬見えただけなのに、あまりの美しさの衝撃に、蛍の脳裏には女の子の表情が彫刻か刺青のように刻み込まれてしまった。

 蛍は女の子の方を向いたまま、動けなくなった。


 女の子も立ち止まると、蛍の方を向いて動かなくなった。

 蛍と女の子はしばらくお互いの方を見たまま動かなかったが、蛍はあることに気付いて慌てて口を開いた。

「あの、別にここから飛び降りようとしていたわけでは……」

 蛍は女の子に向かって、大げさに首を横に振って見せた。

 こんな真夜中の時間帯に、独りで歩道橋の上から下を見ているなんて、蛍はてっきり女の子に「歩道橋から飛び降りようとしている男」と勘違いされたのだろうと思ったのだ。

 慌てている蛍とは裏腹に、女の子は無表情のまま、ゆっくりと口を開いた。


「――別に」

「えっ?」

「飛び降りても、私は構わないけど」

「えっ?!」


 蛍は自分の耳を疑った。

 憂いを含んだ声が聞こえたと思ったら、目の前の女の子は、確かに今、「飛び降りても、私は構わないけど」と言った。


 呆気に取られている蛍とは違い、女の子は無表情のまま、蛍の隣まで歩いて来た。

 そして、蛍と同じように歩道橋の手すりに手を置いて真っすぐと前を向いた。

 さっきまで暗闇に隠れて見えなかった女の子の顔が、手に取るようにはっきりと見える。

 やっぱり美しい、と蛍は思った。

 見ず知らずの自分に「飛び降りても、私は構わないけど」と言い放つ程のふてぶてしさだというのに、そのことを忘れてしまう程、女の子の容姿には惹きつけられるものがあった。


(――でも、どうしてこの、俺の隣にいるんだろう?)


「――あの」

 蛍は思い切って口を開いた。

 蛍が元から隣に存在しないかのように真っすぐと前を見ていた女の子が、蛍の方を向いた。

 あの真っ黒い憂いを含んだ瞳に見つめられて、蛍の胸が高鳴る。


「何か?」

「あの、その……」

「何? 『どうして隣にいるんだ』とか言いたいわけ?」

「あっ、うん」

 どうしてこのは自分の言いたいことがわかったのだろうか、と蛍は不思議だった。

「だって、ここ、私の定位置だから」

「定位置?」

「そう。私は良くここでこうやってるの。――あなたこそ、どうしてここにいるの?」


(――定位置、か)

 確かに自分はこの歩道橋の上に来たのは初めてだ。

 女の子の方が歩道橋の常連で、自分は「一見いちげんさん」なのだろう。

 

 蛍はまた胸がむかむかしてくるのを感じた。

 会社が倒産して仕事もなくなった自分には、歩道橋の上にさえも居場所がないのか。

 それに、初めて会った人間に「飛び降りても、私は構わないけど」と言われるなんて……。


 蛍は女の子から目を逸らすと、真っすぐ前を見た。

 さっきまで「自分がいなくなって本気で悲しむ人は、何人もいない」と悲愴感みたいなものに囚われていたが、今度は自分の胸に苛立ちが湧き上がって来る。


「――どうしてって、久し振りに飲み歩いたから、酔いを醒ますためにここにいたんだけど」

 酒に酔っているせいもあるのだろう。蛍は苛立ちに任せて、いつもよりも強い口調で話した。

「そう」

「それに……」

「それに?」

「会社が倒産して仕事がなくなったから、これからどうしようって考えていたんだよ」


 本当は「自分がこの歩道橋の上から飛び降りたら、本気で悲しむ人は何人いるのだろう」と考えていたが、さすがにそんなことは言えない。

 でも、不思議だな、と蛍は思った。

 苛立ちに任せてとは言え、初めて会った女の子に会社が倒産したことをべらべらと話してしまうなんて、普段の自分ではあり得ない。

 蛍は女の子をちら見した。

 やっぱり、女の子は美しい。自分と同じ人間なのだと考えると落ち込んでしまいそうなレベルだ。

 でも、何故かわからないが、蛍は女の子に妙な親近感を覚えた。

 女の子が隣にいても、初めてあった人間なのによそよそしさを感じない。

 むしろ、ずっと昔からこの女の子を知っているような、そんな感じさえした。



「――そう、会社が倒産、か」

 女の子は特に表情を変えないまま、蛍と同じように真っすぐ前を向いたままだった。

「そう」

「じゃあ、あなたがもし、私の思っているような人間だったら、すぐに仕事を紹介してあげられるけど」

「えっ?」

 女の子の意外な言葉に、蛍はまた女の子の方を向いた。

 女の子は前を向いたままだ。


「もし、あなたが今まで寝ている間に一度も夢を見たことがなかったら、すぐに仕事を紹介してあげられるけど」


 女の子はそう言い終わると、口元にうっすらと笑みを浮かべた。

 ただ、その笑みは愛想笑いとか蛍の答えに期待しているとか、そういう笑みではなかった。

 どうせ「見たことがない」なんて答えは絶対に返ってこないだろう、と言うような諦めを感じさせる笑みだった。

 蛍は女の子の笑みを見つめたまま、動けなくなった。


「――どうして、そのこと知ってるの?」

「えっ?」

 女の子はあの憂いを含んだ瞳に驚きの表情を浮かべ、蛍の方を向いた。

「どうして、俺が今まで寝てる間に夢を見たことがないって、知ってるの?」


 女の子が目を見開いて、蛍を呆然と見た。

 蛍はどうして女の子が自分が夢を見たことがないと知っているのだろうかと疑問に思いながら、女の子が驚いた口元に手を当てる仕草が絵になるほど上品だな、と思っていた。

 見た目だけでなく、女の子は仕草の一つ一つも美しかった。


「――それって、本当?」

 女の子が蛍に一歩、近づいた。

「本当だよ。俺は今まで生きて来た中で、一度も寝ている間に夢を見たことがないんだ。『夢を見てるけど忘れているだけだ』って、誰も信じてくれないけど……。それよりも、どうして俺が夢を見たことがないって知ってるの? それが何だって言うの?」

「睡眠時間は? 睡眠時間はどうなの?! やっぱり短いの?」

 女の子は蛍の言葉を無視して、また質問をしてきた。

「確かに短いけど……。大体、3時間も寝れば十分かな? それよりも、どうして夢ばかりでなく、睡眠時間が短いのまで知っているの? 君は……」


 君は何者なの? と蛍が言おうとした時、どこからかピアノの音が聞こえて来た。

 女の子ははっとした表情をすると、カバンからスマホを取り出した。

 ピアノの音は、どうやら女の子のスマホの着信音だったらしい。


「――行かなくちゃ」

「えっ? どこへ?」

「仕事」

「仕事?」

 女の子はカバンにスマホを戻すと、代わりに服と同じ真っ黒な名刺入れを取り出した。

 そして、中から真っ白い名刺を抜き出すと、蛍に押し付けるように渡した。

 蛍は慌てて名刺を受け取った。


   日本夢見研究所にほんゆめみけんきゅうじょ

   所長 賢木さかきゆかり


 名刺にはそっけないフォントでそう書かれてあった。


「ここの近くに研究所があるの。明日の18時に名刺に書いてある住所のところまで来て」

「えっ? 何で? それに何で、俺のことを知ってるかとか……」

「今日は時間がないの。明日18時にそこに来たら、説明するから。――じゃあ」

 女の子……、賢木さかきゆかりはそのままくるっと蛍に背を向けると、小走りに歩道橋を後にした。

「ちょっと、待って!」

「仕事ないんだったら、ひまでしょ? 絶対に来て!」

 紫は歩道橋の階段の途中で一瞬振り返って大声を出すと、そのまま蛍の視界からいなくなってしまった。

「――ちょっと、待って!」

 蛍も紫に続いて慌てて階段を駆け下りたが、すでに紫の姿はどこにもなかった。

 目の前の道路では、まるで何事もなかったように、ただ車が往来している。

 蛍は車が往来する様をただ茫然と眺めた。

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