第2話
遅刻寸前の時間帯、学生の姿の見えない通学路を全力疾走する。
それなりに余裕のある時間に家を出たはずだったが、途中で見つけたネコに恥ずかしい自分語りをしているうちに時刻はレッドラインを突破していた。
初日から遅刻は流石にマズい。社会人の倫理観がアップデートされている俺としては許容できない。
成嶋鳴希の身体能力は非常に高い、今はそれを遺憾なく発揮する時だ。
余計なことを考えずにひたすら走り続ける。
そうこうしているうちに学校が見えてくる。
校門の前には生徒指導担当と思われる教師の他には、今まさに閉まり始めた校門を通過しようとする“女生徒”が一人いるだけだ。
走る速度を上げる。あきれ顔で校門を締めようとする教師をしり目にギリギリ校内へ駆け込んだ。
「間に合ったぁぁぁぁ!」
思わずガッツポーズ。その様に教師だけでなく俺の前を歩いていた女生徒の注目を引いてしまう。
俺はその後ろ姿を見てハッとした。
女生徒が振り返ると、俺の視線は彼女にくぎ付けにされる。
青みがかった黒髪を揺れる。胸元まで伸びた長い髪がふわりと広がり陽の光が反射して煌めく。長い前髪は片目が隠れるほどであり、もう片方からうかがえる深い藍色の瞳は少し微睡んでいるようで、垂れ気味の目元は眠そうにも見えた。
俺の身長より頭一つくらい小さい彼女。
制服の上着を少しだけ着崩しポケットからはイヤホンのコードが伸びている。スカートは規定のそれとは少し短く、すらりと伸びた両脚は黒のストッキングが包み込んでいた。
不思議そうにこちらを見ている彼女から目が離せない。薄い桃色の唇、柔らかそうな白い肌は思わず手を伸ばしてしまいそうになる。
時間が止まったように思えた。それくらいの衝撃だった。
そして、この感覚は二度目。一度目は紙面上、二度目の彼女はここに居る。
久遠千代。俺が大好きなキャラで、選ばれることの無かった負けヒロインだ。
心臓の鼓動が早いのはここまで走ってきたからか。
この瞬間がいつまでも続くのかと思ったその時。
「お前らぁ! 初日から遅刻するぞ!」
生徒指導の教師の怒号が響く。
忘れていたが今まさに遅刻寸前だった。
振り返ると体育会系のゴツい教師はかなりの迫力があった。
確かに、明確に遅刻したわけではないが入学式当日に遅刻寸前、おまけに染髪したチャラい生徒相手なら指導にも熱が入る。
急いで校舎に向かう。すでに久遠千代は玄関口まで到着している。意外と足が速い。
後を追うように校舎に駆け込む。入学案内を見るまでもない、俺のクラスはわかっている。前から知っている。
主人公と正妻ヒロイン二上双葉、そして負けヒロイン久遠千代と同じクラスだ。
下駄箱に靴を放り込んで急いで階段を駆け上がる。三階まで上って廊下を爆走。生徒の姿は一人も見えない。
1年C組の札を見つけてそのまま教室に飛び込む。教室内にはすでに教師の姿があったがクラス内は立ち話をして居る生徒が多数でありギリギリ間に合ったことがわかった。
自分の机を見つけてカバンを置く、同時に始業を告げるチャイムが鳴る。
みんなが自分の席につくと担任の男性教師が入学式の説明を始めた。
困らない程度に聞き流しつつ思考を巡らせる。
俺の目的は久遠千代の恋を成就させること。そのために何をするべきか。
まず、漫画通りの展開をなぞるわけにはいかない。そうなったらそのまま負けヒロイン直行だからだ。意味がない。
では、どうするのか。
漫画では、主人公は父親の仕事の都合で入学式から一週間遅れで学校に来た。結果、クラス内の人間関係になじめず孤立していたところを正妻ヒロイン、二上双葉から話しかけられる。
翌日、寝坊して遅刻した主人公が校門を通過できずに締め出されたところを久遠千代が見かけてそれをきっかけにフラグが立つ。
つまり、俺がやるべきことは主人公と二上双葉の接点を断ちつつ、久遠千代と主人公が接近するのを邪魔しなければいいわけだ。
なんだ割と簡単だな。漫画の序盤は久遠千代とのエピソードが多いから“余計なこと”をしなければ勝手に進展するわけだからな。
そこで気付く。さっき俺がしでかした失敗に。
さっきの遅刻寸前の俺、主人公と久遠千代の出会いのシーンにそっくりじゃねぇか……。
いやいや、主人公は締め出されてたけど俺は間に合ったからうん。違う違う。
いやでも、ばっちり目があった。なんなら物理的距離だけなら俺の方が近いまである。
大丈夫だよな……?
視線を左前に向ける。そこには少し気怠そうに教師の言葉に耳を傾けている久遠千代の姿があった。
不思議な感覚だ。好きな漫画のキャラが実際にすぐそばに居る。夢のような現実。
眺め続けているのも不自然なので視線を教師に戻してからもう一度久遠千代の方を見た。すると彼女の藍色の瞳と目があった。
一秒に満たない時間。視線を外したのは俺の方だった。顔が少し熱くなったのがわかる。
窺うように視線を彼女に向けるとすでにその瞳の先は教師に戻っていた。
これは、良くないな。
明らかに主人公のフラグの一つを奪ってしまったことがわかった。
どこかで帳尻を合わせなければならない。
これからの算段をしつつ、俺は入学式の会場に向かう。