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第8話 二人の後悔

 その日の夜はなかなか寝付けなくて、やっと眠れたのは明け方に近い時間だった。浅い眠りの中で、わたしは夢を見た。中学時代の記憶だった。


 中学二年の冬くらいだろうか。わたしは恵美と二人で、クラス分の理科のワークブックを運んでいた。集配係りだった恵美を手伝っていたのだと思う。恵美とお喋りをしながら歩けば、重たいワークを運ぶことなど全く苦ではなかった。

『あ、そうだ。恵美、今日の放課後ね……』

『恵美ちゃん、恵美ちゃん』

 わたしが恵美に話しかけている途中で、恵美を呼び止める者がいた。同じクラスの女子だった。

『あのさ、今日学校終わったらみんなでカラオケ行くから、恵美ちゃんもおいでよ。田中くんが、恵美ちゃん誘って欲しいって言ってるんだ』

『あ、そうなの。でも……』

 恵美は困ったようにわたしを見た。そして彼女に向き合った。

『ごめんね、今日はなっちゃんと予定あるから』

『えー、じゃあなっちゃんもこっち来たら?』

 彼女は不服そうな顔で、今度はわたしに尋ねた。わたしは笑顔を作って首を横に振った。

『今日は行けない。恵美、行ってきなよ。わたし、お母さんから夕飯の準備頼まれてるんだった。だから早く帰らなきゃ』

『そうなんだぁ。じゃ、恵美ちゃんおいでよ』

 彼女はパッと笑顔になって恵美の肩に手を乗せた。恵美は少し躊躇いがちに頷いた。

『時間はねー、』

『あ、ちょっとごめんね』

 一人で話を進める彼女を止めて、恵美はわたしに『なっちゃん、先に教室戻ってて』と言った。言われなくてもそうするつもりだった。

『恵美、ワーク持っていくよ。乗せて』

『えっ、いいよ、重たいよ』

『それくらい持てるよ。ほら』

『うん……ありがと』

 恵美はわたしの勢いに負け、自分の持っていたワークをわたしに預けた。ずしりと重みが増す。だけど、持てない程じゃない。

 わたしは恵美たちに背を向け、一人で教室へ歩いた。

 クラス全員分のワークブックは、重かった。物理的なものじゃない、他の重みものし掛かっているようだった。

 惨めだった。情けなかった。自分も行くと言えず、嘘をついてまで身を引いてしまう自分が、嫌いだとはっきり思った。涙が出てきそうになり、わたしは唇を噛み締めた。

『吉村、一人でそれ運んでんの!?』

 男子トイレの前を通った時、ちょうどトイレから出てきたのは池田くんだった。彼はすぐにわたしに駆け寄り、ワークブックの三分の二を取った。

『これ、女子には重いだろ。吉村細いのに無理すんなよ』

『ありがとう……。でも、無理なんてしてないよ。ちゃんと持ててたし』

『あぁそうだな。よくがんばりました』

『あー、バカにしてるでしょ』

 わたしが言い返せば、池田くんは面白そうに笑った。

『あれ、吉村って集配じゃなくね? 俺と同じ教科連絡じゃん』

『……』

『ふーん。偉いな、人の仕事も手伝って』

 おそらく表情が強ばったであろうわたしを見ても、池田くんは口調を変えなかった。

『自分の仕事でもないなら、なおさら無理すんなよ。頑張ったって、誰も見てなかったら、損するぜ?』

『……そういうの、関係ないし』

『まぁ、俺は吉村が頑張ってるのわかってるけどね』

 池田くんは明るくわたしに笑いかけた。

 半分以下に減ったワークブックは、とても軽かった。池田くんはワークブックの重みだけでなく、わたしの心にのし掛かる重みも取り除いてくれたのだ。




 翌日、わたしは寝不足の頭で登校した。

 荷物を自分の机に置き、まっすぐさゆりの元へ向かう。

「捺、おはよ。……寝不足? クマ酷いよ」

 わたしの顔を覗き込んださゆりは、首を傾げた。

「うん、ちょっと」

「……捺、ついてきて」

 さゆりは鞄からピンク色のポーチを取り出すと、わたしの手を引いて教室を出た。向かった先は、女子トイレ。

「そんな顔で学校来ちゃダメじゃん。ほら、目つぶって」

 さゆりはわたしの目の下に、クリームや粉を塗布していく。なんとなく、くすぐったい。

「待って、化粧、禁止だよ」

「このくらいバレないよ。それに、その顔でいる方が目立つけど?」

 怒ったような口調でクマを消していたさゆりは、やがて洗面台の鏡を指差し、鏡越しに微笑んだ。

「ほら、だいぶマシになったでしょ」

「……ほんとだ。化粧してるのもわかんない」

「捺、化粧品持ってないの?」

「色つきリップくらいなら」

 自分の言葉に、ふと思い出すことがあった。中学生の時、薬局で買った色つきのリップクリーム。池田くんと付き合っていた頃、彼と会うときはいつもそれを塗っていた。それほど発色も良くなかったが、薄く塗るだけで、わたしは顔を上げて歩くことができた。リップ一つで、魔法がかかったように自分に自信が持てたのだ。

「あんたは小学生か。今度一緒に買いに行く?」

 あの魔法は、まだ効果があるだろうか。きれいになった目の下にそっと触れ、わたしは「うん」と頷いた。

「よし、決まり。捺に似合うの選んであげるよ。……ところでさ、何かあったわけ?」

「え?」

「そのクマの原因」

「あー、うん、ちょっとね」

「言えないこと?」

 さゆりがムッとした顔つきになる。わたしは首を横に振った。

「違う……。聞いて欲しいんだけど、どこから話したらいいか、わからなくて……」

「……全部話してくれたら、全部聞くけど?」

 思わず、さゆりの顔を見上げる。

「あの、今日、部活終わったらさゆりの家行ってもいいかな?」

「いいよ。生徒玄関で待ってる」

「さゆり、ありがとう」

 さゆりはふっと微笑んで、「教室戻ろう」と歩き出した。



 放課後さゆりの家で、わたしは全てを彼女に打ち明けた。体育祭からここ数日の出来事、中学時代のこと、恵美への思いまで、隠さずに話した。

 さゆりはわたしの話に驚いたり共感したり、途中泣いてしまったわたしにつられて涙ぐんだりして、しかし最後には不機嫌になった。

「捺、溜め込み過ぎ! 中学の頃から、誰にも相談しないできたの?」

「……だって」

「彼氏いたなんて、聞いたことなかったし! あたしや由美たちにも、誰とも付き合ったことないって言ったよね!? 嘘ついてたわけ?」

「ごめん」

「恵美ちゃんのことも、何か隠してるなとは思ってたけど……、こんな気に病むようなことならさっさと打ち明けてよ!」

「うん」

「体育祭の時だって、恵美ちゃんと会うの、辛かったんでしょ? 言ってくれたら、もうちょっと配慮できたのに」

「でもそれは、わたしの問題だから。……それに、恵美とちゃんと話さないといけない気がして……」

「そうじゃなくて! ……もっと、力になりたかった、っていうか……」

 めずらしくさゆりはうつ向き加減になり、語尾を濁らせた。わたしは思わず彼女の手を取った。

「さゆり、今まで言えなくてごめん。恵美のこととか、話したら嫌われそうで、怖かったんだ。一番仲の良かった友達のこと、実はそんなふうに思ってたなんて……」

 さゆりはゆっくり首を振って、わたしと目を合わせた。

「うん、わかるよ。あたしでもきっと、黙ってた。……でも、嫌ったりなんてしないから。捺はこうしてあたしに話してくれたんだし。それだけで、十分だよ」

 じわりと、涙が滲む。今朝、さゆりに全てを話そうと決意した時からずっと、拒絶されるのが怖かった。だけどさゆりは、わたしを受け入れてくれた。

「さて、これからどうしよっか」

 さゆりは明るい口調で話を切り替えた。わたしもそっと目元を拭う。

「とりあえず、明後日、その元カレくんに会うことになってるんだよね。……彼は、何が目的なんだろう? やっぱり、ヨリを戻したいのかな?」

 さゆりの疑問に、わたしも首をひねった。

「でも、卒業して一度も会ってなかったし、そもそも別れ話持ってきたのは向こうだし……」

「うーん、会ってみないことにはわからないね。……ねぇ、捺は、どうして元カレくんと会うことを承諾したの?」

「どうして……?」

 どうしてだろう。自分でも上手く説明できる気がしない。ただ、なんとなく、

「憎めなかったから、かな」

「憎めない?」

「あんな別れ方して、池田くんのこと嫌いになってると思ってたんだよ。でも、なぜか、話してるとそんなに悪い人じゃないって思えてきて」

 それから、池田くんは本気でわたしに何かを伝えようとしているようだった。彼が本気なら、わたしもしっかり聞かなければいけない。そう思った。

「あたしからしちゃ、怒りしか湧いてこないけどね。一発くらい、殴ってやりたいよ」

 さゆりはふんっと鼻を鳴らし、紅茶をすすった。わたしもティーカップを手に取る。来たときにさゆりのお母さんが用意してくれた紅茶は、既にぬるくなっていた。

「もし、また酷いこと言われたら、急所蹴り上げて帰ってきなね」

「うん、そうする」

 さゆりなら本当にできそうだなと思い、クスッと笑ってしまう。

「あとは……、恵美ちゃんのことはとりあえず置いておくとして、後輩くんの告白はどうするの?」

「真田くん……か」

「その場でしっかり断らなかったってことは、少なからず好意はあるんでしょ?」

「うん。好きは、好きなんだと思う」

 真田くんが恵美の元カレとわかったとき、わたしはショックを受けた。いろんな感情の混ざったショックだったが、彼に好意を抱きつつあったことも理由の一つであると思われる。

「……でも、真田くんは恵美のことをよく知ってるんだよ。わたし、容姿でも性格でも、恵美に勝てることなんて一つもないのに。また恵美と比べられるの、もう嫌なんだよ」

「そっか」

「それに、この前恵美のこと、すごく傷つけた。こんなこと知ったら、さすがに嫌われるんじゃ、ないかな……」

「だったら、それをそのまま後輩くんに伝えなよ」

「え?」

「捺が後輩くんに好意があって、でも付き合えない理由があるのなら、正直に話してみればいいじゃない。あとは、後輩くんに任せればいいよ」

 わたしは無言で頷いた。真田くんにも、正直な思いを伝える。そしてその後、どうなるのだろう。わからない。そのときになったら考えれば、それでいいか。

「捺の気持ち、ちゃんと伝えないとさ、やっぱり後輩くんもかわいそうだし」

「うん、そうだよね」

「ていうか捺、ちゃんと恋してんじゃん」

 さゆりはクッキーをかじりながら、ニヤリと笑った。今さら、頬がカーッと熱くなる。

「恋……なのかな。あんまり、自覚なかったんだけど」

「まぁ、今まで恋愛避けてきたんなら、しかたないか。……ふふ、これからが楽しみだな」

 楽しそうに笑うさゆりを見て、随分心が軽くなっていることに気づいた。問題が解決したわけでもないのに、誰かに話を聞いてもらうだけでこんなに変わるものなのか。

 もう、一人で悩まなくてもいいのだ。これからは、さゆりがそばにいてくれる。わたしの問題に巻き込んでしまったわけだが、しかし彼女は笑顔だ。これでよかったのだと思える。ありがとう、とさゆりに心の中で呟いた。




 木曜日。暑い日だった。夏服への移行期間ではあったが、全校生徒の九割は夏服で登校していた。

 最寄り駅で電車から降りると、駅の待合所で硬い表情で椅子に座る池田くんを見つけた。彼の目の前に行き「池田くん」と声を掛ける。彼は顔を跳ね上げ、「あ、おう、お疲れ」と言った。どことなく、ぎこちない。

「どこ行こうか。喉、渇いてない?」

「うん。そこの喫茶店とかは?」

「いいけど……、吉村、よくそこ行くの?」

「たまに行くけど、どうして?」

「いや、今後行きにくくなったら困るかな~とか思って」

「……」

 それは、つまり、人に聞かれたら不味いような話をするということか。池田くんをじとっと見上げると、彼は気まずげに視線をそらした。

「えーと、俺んち来るのは、やっぱ嫌? ここから近いけど」

 わたしはため息を吐いて「もう、それでいいよ」と答えた。彼の家には、何度かお邪魔したことがある。異性の家に一人で行くのは抵抗があったが、先日からの池田くんの態度から、彼が何かしてくるとは思えなかった。

「じゃあ、コンビニでジュースとかお菓子買っていこう」

 池田くんはやっと表情が和らいで、歩き出した。

 一歩後ろから彼についていく。池田くんはちらりとわたしを振り返り、歩幅を調節してわたしの隣に並んだ。

 付き合っていた当時から、彼はわたしに歩幅を合わせてくれていた。わたしは恵美以外の誰に対しても、気後れして横に並んで歩くことができなかった。いつも、誰かの後ろを歩いていた。そんな中、彼の行動はとても嬉しかったのだ。隣にいてもいいんだ、と自信をくれたのだ。結局その自信は、彼の手によって粉々に砕かれたわけだが。


 池田くんの家の前まで来たところで、彼はピタッと足を止めた。

「そういえば、今日家に母さんいるんだけど、吉村のこと紹介していい?」

「……なんて?」

「えっと、友達?」

「まぁ、いっか」

 彼の家族に会うのは初めてだ。以前お邪魔した時は、家に誰もいなかった。両親は共働きだと聞いていた。

 元カノの分際で彼の親に紹介されるのは非常に気が引けるが、家で二人きりという状況になるよりはいいかなと思える。

「ただいま」

「お邪魔します」

 池田くんに続いて、家の中に入る。リビングの方からはテレビの音がしている。わたしたちの声に気づいたのか、背の低い中年の女性が顔を覗かせた。池田くんとは似ても似つかない。

「おかえり。……あら、お客さん?」

「中学の友達の、吉村」

「はじめまして。侑人ゆうとくんとは中学で同じクラスで、仲良くしてもらってたんです」

 少々良心が痛む挨拶をすると、彼女は優しげに微笑んだ。

「その制服北高じゃない。賢いのね~。こんなかわいいお友だちがいるなんて知らなかったわ、ゆっくりしていってね。……侑人、お菓子とか用意しようか?」

「大丈夫、買ってきたから」

「はい、全然、おかまいなく」

「そう? じゃあ、ごゆっくり」

「俺コップ持っていくから、吉村先に部屋行ってて」

 コンビニの袋を渡されたわたしは、頷いて何気なく階段を上ろうとした。そこで、はたと気づく。お母さんの手前、わたしは池田くんの部屋を知らないことになっているのだと。池田くんもそのことに気づいたのか、焦りが顔に表れていた。

「侑人の部屋はね、二階に上がって一番奥の、茶色い扉よ」

「あ、ありがとうございます」

 良いタイミングで彼のお母さんが部屋の場所を教えてくれる。わたしは軽く頭を下げて、そそくさと二階へ上がった。

 二年ぶりに入る池田くんの部屋は、以前と家具の配置も変わっていなかった。部屋の中央にコンビニ袋を置き、腰を下ろす。

 二年前、この部屋で池田くんとたくさんお喋りをした。唇を合わせた。ベッドで肌を重ねた。

 そこまで思い出したところで、わたしは強くかぶりを振った。今のわたしたちは、あの頃とはもう違う。関係性も、お互いの感情も違う。……いや、当時から、池田くんはわたしのことを好きではなかったんだっけ。

 お盆にグラスと布巾を乗せて、開けっ放しの扉から池田くんが入ってくる。そして、扉をパタンと閉めた。

「お待たせ。床で悪いな。座布団あるから使って」

 お盆を床に置くと、池田くんはクローゼットから座布団を二枚引っ張り出した。

「あ、それ……」

「ん? 何?」

 クローゼットの下の段に、中学や高校一年の教科書類がまとまって置かれていた。その中に、卒業アルバムが混じっていた。

「卒アル、中学の?」

「あぁ、そうだよ。……懐かしいなぁ」

 池田くんは卒業アルバムも手にとって戻ってきた。座布団を一枚受け取り、お尻の下に敷く。池田くんは、わたしとの間にアルバムを置いて座った。

「見る?」

「……うん。わたし、それ一度も見たことなかったんだ」

「えっ、なんで」

「もらってすぐ、なくしちゃったから」

「……そうか」

 中学の思い出になど、浸りたくなかった。嫌な感情が湧き上がることなど、容易に想像がついた。だからわたしは、一度もページを開くことなく物置の奥に仕舞い込んだのだ。

 だけどなぜか今、クラスメイトたちとの思い出を覗いてみたくなった。

 池田くんはゆっくりページをめくっていった。集合写真や個人写真のページの後に、イベントのスナップ写真が現れる。

「吉村、いい感じに写ってる写真何枚かあったよ。ほら、これとか」

 池田くんが指差したのは、修学旅行の写真だった。清水寺を背景に、五人くらいが並んでいる。確かにわたしは笑顔で写っていた。しかし……、隣の恵美に意識が向かう。彼女が隣にいれば、わたしはどうしても見劣りしてしまう。存在が、霞んでしまう。

 ざっと全体の写真を見てみると、恵美の写っている写真が多いように感じる。アルバム委員の人が、つい恵美に目を引かれてしまったのだろうか。それに比べて、わたしはきっと最低限の枚数しかいないだろう。そして、大抵隣に恵美がいる。そもそも、イベントごとでカメラを向けられた記憶があまりない。恵美と一緒にいる時くらいしか、撮ってもらえなかったと思う。

 やはり、卒業アルバムを見ても鬱々とした気分にしかならない。家で一人で見なくて正解だった。

「そうだ、一枚だけ、俺たち一緒に写ってたんだよ」

「え、うそ」

 池田くんがページをめくる。三年生のページになった。

「あった、これこれ」

 それは、三年の体育祭の写真だった。わたしは走ってきたのか赤い顔をして、バトン代わりのお玉を池田くんに渡そうとしている。池田くんはわたしに向かって手を伸ばしていた。学年委員が考えた、オリジナルの水汲みリレーの一場面だ。

「これ、俺たちが付き合い始めた日だったな」

「そう、だね」

 そうだ、体育祭が終わった後に告白されたのだった。あの日の夕焼け空が思い起こされる。オレンジ色の日差しの中で、池田くんはわたしに笑顔で手を差し出した……

 たくさん叫んで嗄れた喉の痛み。日焼けした皮膚の火照り。覚えてる。「話がある」と言った彼の後ろを歩いているときの、不安と期待。思いが通じた喜び。苦しい程の胸の高鳴り。全部、覚えている。

 アルバムから顔を上げた池田くんは、グラスにジュースを注いでくれた。わたしはそっと、アルバムを閉じた。

「北高はどう? 高山中から行った人少ないよな。楽しくやってる?」

「うん。勉強はちょっと大変だけど、楽しいよ。友達もできたし」

「そっか。なら良かった」

 池田くんは少し寂しげに笑った。恵美も、似たような反応をしていたと思った。

「でもまさか、吉村が北高行くとは思わなかったなぁ」

「三年の夏から、こっそり勉強頑張ってたからね」

「……最後の進路希望調査の前にさ、俺、花野に探り入れたんだ。吉村はどこ行くのって」

「恵美に?」

「そう。……そしたら、高山って言ってた。あいつ、高校もなっちゃんと一緒だって嬉しそうだったよ」

「……そう」

 池田くんがわたしの進路を気にしていたことは意外だったが、彼の口から恵美の名が出てくるのは未だに不愉快だ。池田くんから視線をそらし、買ってきたお菓子をつまむ。自分で選んだ好きなお菓子のはずなのに、あまり美味しいと感じられなかった。

「俺の、せいか?」

「……何が?」

「吉村が、北高に行ったこと」

 わたしは数秒考え、首を横に振った。

 関係ないと言ったら、嘘になる。だけどわたしは北高を選んだことを一切後悔していないし、さゆりたちと出会えたことを嬉しく思う。だから、「せい」では、ないのだ。

「わたしは、自分の意思で北高を選んだだけだから」

「そう、か。……俺、高校入ったら、吉村にちゃんと謝ろうと思ってたんだ」

 思わず、池田くんを見上げる。彼は真っ直ぐわたしを見据えていた。

「いざ入学したら吉村はいないし、携帯も繋がらなくて、遅くなったけど……。中三の時、吉村のこと、すげえ傷つけた。本当にごめん」

 池田くんは、床に手をついて頭を下げた。わたしは、あっけにとられてしまった。

「え、ちょっと、池田くん……」

「ずっと、後悔してた。最低なことをしたって。謝って許されるとは思ってない。でも、謝らなきゃ、何も変われないから……」

 顔を上げた池田くんは、わたしたちの間にあった卒業アルバムをすっと横にどかした。距離が近くなったような気がして、身がすくむ。

「俺、吉村のこと好きだったよ。別れたときも、本当は好きだった」

「どういう、こと? 恵美は?」

 わたしは距離を詰めてくる池田くんに怯えつつも、疑問を言葉にする。池田くんの言葉を素直に受け止められず、疑い深くなってしまう。いや、信じられるわけがない。

「花野は、別れるための口実だった。勝手に巻き込んで悪いとは思ったけど、吉村の性格から、花野の名前を出せばしっかりと別れられると思って利用した」

「……恵美を好きなのは、嘘だった、っていうこと?」

 池田くんは視線を斜め下にそらし、躊躇うように口元をもごもごと動かした。

「嘘……というか、順番が違う、というか……。最初は、花野のことを見てたんだ。好きだったのかもしれないけど、ただ、可愛い子だなと思って。それから、花野の隣にいる吉村に気づいた。……いつも人から一歩引いてて、喋りたそうなのに喋れなくて、そういうのが何となく気になって目で追うようになってた」

 わたしは、羞恥から頬が熱くなり、ギリっと奥歯を噛み締めた。そんなこと、誰にも気づかれたくなかった。自分の大嫌いな部分だ。それを的確に指摘されてしまった。いや、誰から見ても、わたしはそういう人間だったのだろうか。

「この子は今、どんな言葉を飲み込んだんだろう。どんな感情を殺したんだろう。そう、気になって、吐き出してくれればいいのにって思ったんだ。俺にだけ、全部ぶちまけてくれたらいいのにって。俺が、この子の理解者になれたらいいのにって、思ってた」

 池田くんは、時折声を震わせながら話し続けた。

「そしたらだんだん、花野よりも吉村が気になって、可愛く思えてきた。……好きに、なってた」

 初めて打ち明けられる、彼のわたしへの想い。二年前のわたしだったら、こんなふうに想われていたことを嬉しく感じていたかもしれない。だけど、彼の言葉を信じていいのだろうか。わからない。まだ、疑問が多く残っている。

「じゃあ、なんで、わたしはフラれたのよ」

「それは……」

 池田くんは、うつ向きがちに口をつぐんだ。

「恵美のことは口実って今言ったよね。わたしのことも好きだったって。じゃあ、何が問題だったの」

 わたしも、声が震えていた。真実が何であっても、もうわたしには関係のない話だ。だけど、知りたくて、同時に知るのが怖かった。

「吉村には、本当の理由を言おうか、ずっと悩んでた。というか、言うべきじゃないんだ。……でも、今日は全部話すって決めてきたから……」

 池田くんは下を向いて、小さな声で答えた。嫌な予感しかしない。

「吉村、いつも花野と一緒にいただろ? だから、二人のこと比較するやつとかいて……。その、花野はアイドルみたいにかわいいのに、吉村は地味だとか……。俺が吉村と付き合ってること知られたら、俺までバカにされるんじゃないかって、怖かったんだ。花野が好きって嘘ついた本当の理由は、吉村を好きだという証拠を消せると思ったからなんだよ」

 膝の上でスカートを握りしめた拳が震えた。中学のクラスメートの顔が数名浮かぶ。浮かんだ瞬間、真っ黒な手でその顔を握りつぶす。

 自分が地味なのはもちろん自覚していた。恵美と比べられてバカにされているなんて被害妄想もあった。……でも、妄想じゃなくて、本当にバカにされていたんだ。

 だけど、わたしが地味だなんて、最初からじゃない。二ヶ月つきあって、耐えられなくなったわけか。そのおかげで、わたしは必要以上に劣等感を拗らせてしまった。親友を、失った。

「池田くんにとっては、わたしと付き合うのは恥ずかしいことだったんだね」

 池田くんはハッとしたように顔を上げた。その表情は、泣き出しそうだった。こっちだって、泣きたい。わたしは当時池田くんから自信をもらっていたのに、彼にとってわたしの存在は疎ましいものだったのだ。

 付き合っていることは内緒にしようと言ったことも、学校では挨拶以上の会話をしたがらないことも、ただ自分の身を守ろうとしていただけだったんだね。

「俺、一人で焦ってて、どうしたらいいかわからなかったんだ。付き合ってることが恥ずかしいと考えるなんて最低すぎるし、とりあえず別れなきゃ、距離をおかなきゃって思った。こんな気持ちで付き合ってていいはずない、って。今の俺には、吉村の彼氏でいる資格はないから、って」

「……今さら気を使うような言い方しなくていいよ。結局は付き合ってるってバレるのが恥ずかしくて、その前に別れようと思っただけでしょ。……どうせ、わたしのことなんてそんなに好きじゃなかったくせに」

「好きだったよ! 本当に好きだった! 今でも、好きなんだよ……。もう一度、やり直したいんだ」

 窓から風が吹き込んでくる。その風が池田くんの前髪を揺らす。彼は腕で目元を覆った。そこから、一筋の涙が流れ落ちる。その涙の意味は、なんだろう。

「ごめんな。俺、ガキだったんだよ。今でも、ガキだけどさ……。周りの目を気にして、一番大切なものを自ら手放して……。自分を守ったって、吉村がいなきゃ意味がないのに……」

 頬を伝った涙は、顎先から膝の上に落ち、染みを作った。

 なんとなく、彼の気持ちもわからないでもないな、と思った。

 学校社会は、本当に狭い。高校生の今でもそうだが、中学は特に息苦しかった。自分の居場所を確保するのに一生懸命なのに、その中で恋もして。人からは好かれたい。だけどそれ以上に、嫌われたくない。優先順位がわからなくなってしまうことだってある。

 そう、お互いに子供だったのだ。わたしだって、大切なものを見失ってきたではないか。

「池田くんの気持ちはわかったよ。……わたしも、後悔してることはあるよ。池田くんはわたしのこと、意思がないって言ったよね。池田くんと一緒にいられるだけで満たされていたのは本当なんだけど、言いたいのに言えなかったことも確かにあった。別れようって言われた日、なんで素直に引き止められなかったんだろう、って。遠慮とか捨てて、自分の気持ち、全部伝えられたら良かったのにって思う」

「吉村、だったら、」

「でも!」

 池田くんの言葉を遮る。わたしは相手のペースに流されやすい質だ。その結果、不本意なこともたくさん経験した。それじゃ、ダメだ。少しずつ、変わるんだ。

「今さら付き合うことはできない。池田くんに対して、あの頃と同じ感情は抱けないの」

「……好きな奴、いるのか?」

「……」

 わたしは彼の質問に、否定も肯定もできなかった。その代わりに、頭に浮かんだのは、人懐っこい笑顔を浮かべる真田くんだった。

 池田くんはギリっと奥歯を噛み締め、そして次の瞬間、わたしを抱きすくめた。

「ちょっと、何するの! やめてよ、大声出すよ! 床叩くよ!」

 慌てて腕の中から抜け出そうともがけばもがくほど、彼の腕はきつくわたしを抱き締めた。

「なんでだよ……。俺、誰よりも、吉村のこと見てきたよ」

 押し返してもピクリともしない彼の熱くて厚い胸板に、わたしは抵抗を諦めた。

「吉村のいいところも悪いところも、好きなところも嫌いなところも言える。……俺は、見てたよ。吉村がどういう人間か、わかってるよ」

「……だから?」

「吉村の好きな奴って、この前一緒にいたあいつだろ? なんで、よりによって花野の元カレなんか選ぶんだよ。あいつより、俺の方が吉村のこと理解してるよ。俺なら、吉村を、」

「……やめてよ」

 池田くんの腕の力が僅かに緩んだ。その隙をついて、彼の腕から抜け出す。

「わたしを見ていたから、なんなのよ。それに、そんなの中学生のわたしでしょ。今のわたしは違うんだよ!」

 高校で新しい出会いをして、髪を切って少しだけ自信も生まれて、あの頃とは変われたと思うんだ。もう、嫌いな中学時代にわたしを縛り付けないで。わたしを『あの頃』に戻さないで。

「変わりたいんだよ。……池田くんが昔のわたしをよく見てくれて、その上でわたしのことを好きだって思ってくれるなら、それは嬉しい。でも、わたしは嫌いなの。中学の自分が、大嫌いなんだよ」

「……じゃあ、今の自分は、好きなのか?」

 池田の質問に、言葉が詰まる。「自分が嫌い」という考えに慣らされてきたから、素直に好きと思えないのだ。

 恵美を傷つけたり、さゆりたちに腹を割って話せない自分はあまり好きじゃない。でも、時々、世界がキラキラして見えるときがあるんだ。そんなときは心が軽くて、楽しくて、自分が嫌いだなんて思わない。

「前よりは、好きだよ」

 はっきりした口調で、曖昧なことを言う。池田くんは、薄く微笑んだ。

「俺が見て理解したつもりになってたのは、吉村のほんの一部だったのかな……」

 わたしはそれには答えず、荷物をつかんで立ち上がった。

「わたし、そろそろ帰るよ」

「……あぁ。お菓子、余ったの持ち帰れよ」

「……」

 いらない、と言おうとして、思いとどまる。好きなお菓子を中心に鞄に詰める。池田くんはそんなわたしを見て、クスッと笑った。

 だって、お腹がすいてつい手が伸びてしまったんだ。

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