第7話 再会
約束の時間ぴったりに図書館に着くと、真田くんは既に問題集とノートを広げ、手にはシャーペンを持っていた。
隣の椅子に腰かけたわたしに気づくと、彼はニコッと笑った。
「吉村さん、おはようございます」
「おはよう」
「昨日あれから範囲一通りやってきたんですよ」
「全部やったの? がんばったね」
「でも、答え見てもわかんないとこ結構あって、聞きまくるんで覚悟してください」
真田くんは、昨日のことなど微塵も感じさせない笑顔をわたしに向けた。夢だったのではないかと錯覚してしまう。
「えっと、まずこの問題から。一番はわかったんですけど、二番からがさっぱりで……」
彼の示す問題は、発展問題ばかりであった。昨日から勉強を初めた割に、随分と進んだなぁと感心する。
化学は得意な方ではあるが、さすがにすぐには答えられなくなってきた。解答を見ながら、真田くんと一緒にその意味を考える。昨日とは違うスタイルで勉強を進め、気がついたらお昼になっていた。
お昼ご飯を食べてからは、真田くんはわたしに質問することもなく問題集を進めていった。このパターンは昨日と同じだ。
時刻は二時半を過ぎ、数学の勉強をしていたわたしは軽い睡魔に襲われていた。するとロビーの方が騒がしくなり、会議室に学生服を着た5、6人の男子高校生が入ってきた。恵美と同じ、高山高校の制服だ。
「おっ、涼し~」
「なー、お茶買ってこようぜ」
「行くんなら俺のも頼むわ」
彼らの他愛のない会話の中から、ふと、わたしの耳は聞き覚えのある声を拾いとった。思わず顔を上げて彼らをもう一度よく見ると、半数は同じ中学出身者だった。
そして、ある人物と目があってしまった。慌てて目をそらし、顔を隠すように机につっぷす。
彼は、中学時代二ヶ月だけ付き合っていた、池田くんだった。
しばらくすると、男子高校生たちも次第に静かになっていった。そろりと顔を上げ、彼らの様子をうかがう。彼らはまとまって座り、なにやら勉強しているようだった。
「吉村さん、疲れました? なんか、長時間付き合わせちゃってすみません」
机につっぷしていたわたしを、寝ていたと勘違いしたのだろう。真田くんが心配げな表情で声をかけてきた。
「全然、気にしないでよ。どうせ予定なくて暇だったんだから。それより、勉強はどう? わからないとこない?」
「はい、難しいのも自力で解けるようになってきました。あと少しで2周目が終わりそうです」
「明日の試験は大丈夫そうだね。それが終わったら休もうか」
「よし、俺頑張るんで、待っててくださいね」
真田くんが再び問題集に向かったのを確認し、わたしは席を立った。池田くんと同じ空間にいると思うと、胸がざわついて落ち着かなかった。
トイレに行き、その後ロビーの端の長椅子に腰を下ろした。向かい側の長椅子では、幼い子供を連れた母親同士が話していた。自然と大きなため息をついてしまう。後ろの壁に寄りかかり、目をつぶる。
昨夜、真田くんのことをたくさん考えていた。けれど彼への返事は全くまとまらなかった。
告白されて、嬉しくないわけじゃない。池田くんのをノーカウントとすれば、初めての異性からの告白だった。
ヒロキくんではなく、真田くんとして彼と出会ってから、まだ三ヶ月程だ。委員会の先輩後輩としての関わりしかなかったのに、彼の明るさには随分助けられたような気がする。彼のことは嫌いじゃない。むしろ好きだ。彼と付き合えば、毎日楽しくなるだろうな、とも思う。
そこまで考えたところで、真田くんはもうわたしと付き合う気は失せたかもしれないな、と思い至った。昨日、彼はわたしにドン引きしてないと言った。でも恵美を大嫌いだと言い放ったわたしのことを、今後も信用できるだろうか。親友と言っていた人を影でボロクソ言う女なんて、普通、信用できないんじゃないかな。
失敗した。あんなふうに、感情に任せて本音をぶちまけるべきではなかった。この数日で、恵美にも真田くんにも、取り返しのつかないことをしてしまっている。もっと、冷静な人間だと思っていたのに。本音を隠すのは、得意だったはずなのに。
でも、だけど、今後もしっかり付き合っていきたい相手なら、通らなければならない道なのだろうか。
ピッ、ガシャン、と誰かが自動販売機を操作している音が聞こえた。そして、足音がこちらへ近づいてくる。目を開けると、目の前には高山高校の制服のスラックス。ゆっくりと目線を上げる。池田くんだった。
一年ちょっと見ない間に、身長が伸びたように感じる。髪は以前より短くなり、顔の丸みが消え、より大人の男性に近づいていた。
「やるよ」
そう言って彼が差し出したのは、ペットボトルのレモンティーだった。
「え、あ、ありがと……」
「なにキョドってんだよ」
わたしがどもりながら受けとると、彼はクスッと笑った。そして、わたしの隣に腰を下ろした。
「久しぶりだな。なんで私服? 今日学校じゃねぇの?」
「土曜日、体育祭で、今日は振り替えで休み」
池田くんは、まるで久しぶりに友人にあったかのように自然に明るく話しかけてきた。別れてから卒業するまで、同じクラスだったにも関わらず、一言も話さなかったというのに。わたしは、戸惑いを隠すことで精一杯だった。
「え、マジで? 見に行けばよかったなぁ。吉村どんくせぇから、リレーとか抜かされまくりだろ」
彼の、わたしのことをわかっているとでも言いたげな口調にムッとする。
「一位、取ったから」
「は、嘘だろ。なんの種目だよ」
「……借り物競争」
池田くんは、失礼にもプッと吹き出した。口を尖らせて「なによ」と言えば、彼は「つーか、高校でも借り物競争あるのかよ」と笑った。
そっと池田くんを見上げると、彼もまたわたしをじっと見ていた。慌てて目をそらす。さっきから、彼の言動にいちいち身構えてしまっている。
「吉村、髪短くしたんだな。……そっちの方が似合ってるよ」
「……ありがとう」
顔が熱くなるのを感じた。褒められて喜ぶなんて、どうかしてる。池田くんはわたしに最低なことをした人なのに。
視線を落とすと、膝の上で握りしめていたレモンティーが目に入った。
「なんで、レモンティー?」
「なんでって……好きだろ? よくそれ買ってたじゃん」
「そうだけど……」
なんで、そんなことを覚えているの? たった二ヶ月しか付き合っていないのに。もう二年も前のことなのに。あなたは、わたしのことを好きですらなかったのに。
「なあ、一緒に来てるの、花野が昔付き合ってた奴だろ? 仲、いいのか?」
彼の口振りから、恵美と真田くんがとうに破局していたことは知っているようだ。……知らなかったのは、わたしだけか。
苛立ちとも悔しさとも判別できない感情が湧き上がる。
「仲いいから、一緒に来てるんじゃん」
どうしても、ぶっきらぼうな返答しかできない。池田くんは「へぇ」と意外そうに声を上げた。
「吉村、そんな顔もするんだ」
「……なに、そんな顔って」
「昔は、そんな怒ったような顔とか、仏頂面とか、見せてくれなかっただろ。吉村、俺といるときはいつも笑ってたよな」
「そうだっけ」
「そうだよ。いつも、笑ってたよ。……楽しくなくても、とりあえず笑ってただろ」
抑揚のない彼の言葉に、カチンとくる。わかったような口を聞くな。わたしのことなんて、何も見てなかったくせに。
「楽しかったよ! 楽しかったから、笑ってたんだよ!」
思わず大きな声で反論してしまい、ハッとする。何、変なところでムキになっているんだろう。ロビーの向かい側にいるお母さんたちが、こちらをチラチラ見ているのがわかる。池田くんが息を飲む気配が伝わった。
「……吉村、本当に?」
「なんで、嘘ついてると思うのよ。わたしは、池田くんと違って、池田くんのこと本当に好きだったんだから。一緒にいられるだけで満足で、幸せだったよ」
恨めしさを込めてそう言えば、池田くんは顔を歪ませた。
「……吉村、ごめんな」
今さら、何を謝ろうというのだろう。わたしを騙していたことか。わたしは、彼を許す気など毛頭ない。
「……謝って、どうする気よ。また仲良くなんて無理なんだから、初めから話しかけないでほしかった」
「無理……無理、だよなぁ」
池田くんが傷ついているように見えるのは、なぜ? わたしとの仲が修復しなくたって、彼は痛くも痒くもないはずだ。
「なぁ、さっきの後輩とは、つき合ってるのか?」
「つき合ってますよ」
池田くんの質問に答えたのは、真田くんの声だった。わたしと池田くんは、ぎょっとして声の方を仰ぎ見た。いつからここにいたのだろう。
「俺と吉村さん、つき合ってます。あなた、吉村さんの元カレさんですか? 今さらより戻そうったって、無駄ですよ」
真田くんは、池田くんを挑発するようにニヤリと笑った。わたしは小さく溜め息をついた。
「嘘。わたしたち、つき合ってないよ」
「ちょ、吉村さん! いいじゃないですかそこは!」
「いや、嘘つく必要性を感じないし」
「俺の顔を立たせてくださいよ。元カレに言い寄られて困ってるところをかっこよく助ける俺に、吉村さんがときめいちゃうポイントですよここ!」
「別に言い寄られてないし、困ってもなかったし。真田くん、慣れないことするからかっこよくもなかったよ」
「えっ、そんなぁ」
大袈裟に肩を落とす真田くんに、ふふっと笑みがこぼれる。池田くんは、ポカンとした表情でわたしたちを見比べていた。
「真田くん、勉強は?」
「終わりました。もう百点とる自信あります。吉村さんがなかなか戻ってこないから、心配で様子見にきたんです」
「そう。……じゃあ、帰ろっか」
「はい」
わたしが立ち上がったのを確認して、真田くんは会議室へ歩き始めた。わたしも後に続く。すると、「待って」という声とともに手首を捕まれた。
「……吉村、二人だけで、話がしたい」
わたしは思わず真田くんを見やった。たぶん、すがるような顔をしていただろう。しかし彼はわたしから目をそらした。
「俺、先に戻ってますね」
真田くんはそう言って、ロビーから消えてしまった。
わたしは椅子には座らず、立ったまま池田くんに体を向けた。
「……話って?」
「落ち着いて、話したいんだ。今日じゃなくてもいい。……吉村、俺のこと着拒してるだろ? それ、解除してくれないか?」
「えっ……」
確かに、着信拒否していた。別れた当初、携帯が鳴る度に池田くんかもしれないと、ありえない期待を持ってしまうことがつらかった。だったら、絶対に池田くんからの連絡が来ない状態にしてしまった方が、気が楽だったのだ。
でも、彼が着信拒否に気づいているということは、わたしに連絡を試みたということなのか。いつ。なぜ。何の用で。
「頼む。話を、聞いて欲しいんだ。一度だけでいいから」
真剣に懇願する彼に、話を聞かなければ悪いような気がしてくる。でも、彼のペースに流されてしまっていいのだろうか。
「……じゃあ、着拒だけ、解除しておく」
「今、この場で解除してくれないか?」
「……うん。わかった」
ポケットから携帯電話を取りだし、設定をいじる。メールと電話、どちらも着信拒否を解除した。
「解除、したよ」
池田くんは、ほっとしたように息をついた。
「ありがとう。……今夜、電話してもいいか?」
容姿は大人っぽくなったが、今わたしを見つめる彼の目は、付き合っていた頃と変わらなくて。返答に数秒迷ったが、わたしは頷いていた。
「いいよ」
その後、真田くんは池田くんのことについて何も聞いてこなかった。昨日の話の続きも一切なかった。再試で受かったら何かご褒美をあげると約束して、少しふざけあって、彼とは別れた。
その日の夜九時半過ぎ、本当に池田くんから電話がかかってきた。
サブディスプレイに久しぶりに表示される『池田侑人』の名に、かつての甘酸っぱい気持ちが思い起こされる。
「……もしもし?」
「……吉村か」
「わたしの携帯にかけてるんだから、わたしに決まってるじゃない」
「そういうことじゃねぇよ。吉村が電話に出てくれてほっとしてるの」
「……」
久しぶりに聞く、電話越しの池田くんの声。最後にこの声を聞いたとき、わたしは彼に恋をしていた。
「吉村、今日は、会えて嬉しかったよ」
「……わたしは会いたくなかったけどね」
憎まれ口を聞けば、電話の向こうで池田くんは「はははっ」と笑っていた。
「吉村、変わったよなぁ。でも、今の方がずっといいよ」
中学時代から、わたしは本当に変わったのだろうか。変われたのだろうか。
「体育祭は終わったみたいだけど、今週は忙しかったりするの?」
「ううん、特に何もない」
「そっか。俺は明日で中間終わるから、そしたら落ち着く感じ」
「えっ、テスト期間だったの? 電話してて大丈夫?」
「……それは、俺との電話が嫌だから早く切れってこと?」
「違うよ。わたしのせいで勉強に支障出たら困るから」
「ほう。……まあ、明日は軽い科目だけだから大丈夫だよ。勉強も、もう十分したし」
「なら、いいんだけど……」
「吉村、おもしれぇな。俺の心配なんてしてやんの」
カーっと顔が熱くなる。確かに、池田くんの成績がどうなろうと、そんなの知ったことじゃない。それでも心配してしまうのは、情が残っているからだろうか。
池田くんが、すっと息を吸う気配が伝わる。
「電話でもいいかなって思ってたけど、やっぱり会って顔見て話したいわ。……なあ、明日の放課後、空いてないか?」
「えっと、明日は、部活ある」
「そうか……木曜は?」
「たぶん、何もない」
「よし、じゃあ木曜な。場所はどうしようか。落ち着いて話せるとこがいいけど……俺んち来る?」
「絶対に嫌」
「あはは、だよなぁ。……場所はその時に決めればいいか。吉村は電車通学だよな? 駅に迎え行くよ」
「……うん、わかった」
「決まりな。また連絡する」
「うん」
「じゃあ、おやすみ」
「……おやすみ」
通話が切れる。机の上には、未開封のレモンティーが置かれている。池田くんから貰ったものだ。馴染みあるはずのそのペットボトルは、どこかよそよそしく立っていた。
頭の中で、先程の会話を何度も復唱する。
池田くんが話したいこととは、なんだろう。どうしてわたしは、彼と会うことを承諾したのだろう。
単純な興味はある。でも恐怖もある。それとは別に、期待もある……だろうか。
期待って何? あんな最低な男に、何を期待しているというの?
自分が何を考えているのか、わたし自身もよくわからなかった。