第6話 元カレと元親友
市立図書館は、閲覧スペースは決して広いとは言えない。だが図書室とは別室に会議室があり、使わない時間は主に勉強を目的に来た学生向けに解放されていた。会議室では、騒がない程度に会話をするのは許されている。
その会議室の一角で、わたしたちは化学の教科書や参考書を広げた。
「次にわかんないのが……、」
「そこはね……、」
真田くんの四十八点の答案用紙を見ながら、できていないところを潰していく。再試験は、本試とは少し問題が変わるらしい。
「これは全部暗記。教科書の、この表覚えるしかないの」
「ここを暗記……と」
「特に、この上の三つの元素は良く問題に出るから」
「はい」
真田くんは、教科書のわたしが教えたところにマーカーを引いたり付箋を貼ったりして、真面目に勉強している。十時に始めて、休憩をはさまず二時間以上は経つ。わたしの方が疲れてきた。
「真田くん、もう休もうよ。お昼だよ」
休憩に入る気配を見せない彼に、しびれを切らす。彼はやっと部屋の時計を見た。
「わ、本当だ。もうこんな時間だ」
「その集中力はすごいね」
「へへ」
真田くんは照れたように笑った。
その表情も、恵美に見せていたのだろうか。
昨日、真田くんが恵美の「元カレ」のヒロキくんだと気づいてから、恵美の存在を抜きにして彼を見れなくなった。わたしはまた、恵美の呪縛にかかってしまったのだ。
真田くんも、恵美が好きだったのだ。どうか、わたしと恵美を比べないでほしい。恵美と比較されたら、わたしは自分の存在意義をなくしてしまいそうだ。もう、嫌だ。恵美の完全にいないところへ行きたいよ。
「ところで、他の科目は大丈夫だったの?」
「はい、問題なしです」
近くにちょうどいい飲食店もないため、お昼はコンビニで済ませることにした。会議室は食事が禁止されているため、ロビーの椅子に座って食事をとる。
「吉村さん教え方上手いですね。解説読んでもわかんなかったとこ、すぐ理解できましたよ」
「いや、それは、真田くんが真面目に理解しようとしてたからでしょ」
謙遜でもお世辞でもなく、本音だ。わたしは人に勉強を教えたことはほとんど経験がないが、それでも真田くんの飲み込みが早いのは感じた。化学以外の科目では良い点を取れていたことも頷ける。
「なんで化学だけ、勉強しなかったの?」
ただ気になったのは、彼の教科書がやけに綺麗だったことだ。普通に授業を受けて勉強していれば、彼なら十分良い点は取れたはずだ。
「だって……、化学の高橋、嫌いなんですよ」
「……はぁ」
「授業中、声聞いてるだけでも嫌で、それで、授業聞いてませんでした」
「うーん、勉強はできるみたいだけど、そういうとこはバカなんだね」
「うぅ……」
「高橋先生、そんなに嫌い?」
わたしも現在、化学は高橋先生の授業を受けている。彼はよく高圧的で上から目線な発言をする人で、確かに良い印象はない。彼を嫌う生徒が多いのは事実だ。
「あの人、下心なくボランティアをする人間なんていないって言ったんです。金銭以外の、何らかの見返りを求めているからだって」
「ほう」
「『僕はそんなボランティアをする人間が、見返りに何を欲しているのか想像するのが楽しみなんですよ』って」
「うわ……」
「それで最後にこう言ったんです。『この学校でもそういう活動があるらしいけど、彼らは何を求めているんだろうね』……こんなの、福祉委員への冒涜じゃないですか!」
憤りをみせる彼を横目に、やましい部分があるだけに否定できないなぁと思った。去年は、何も考えずに福祉委員に入った。今年は上田先輩を追いかけて入った。活動の一つである、任意参加の老人ホームボランティアに毎回参加していたのも、上田先輩がいたからだ。
「うーん、とりあえず、真田くんがそんな意識高い系の委員だったことに驚きだよ」
「えええ、ちょ、吉村さんだって先月のボランティア参加したじゃないですか」
「まぁ、わたしはばっちり見返り求めてるから」
「そ、そんなぁ……見損ないましたよ、吉村さんのバカ!」
「じゃあ、真田くんはなんでボランティア参加したのよ」
「そ、それは……俺なんかでも、役に立てたら嬉しいじゃないですか」
「ほら、嬉しいっていう見返り求めてる」
「あっ……」
「先生嫌うのはいいけどさ、化学に罪はないし、テスト前くらい勉強はしようよ」
「……はーい」
「聞き分けがいいね」
「まぁ追試でも、こうして吉村さんと図書館デートできたなら、結果オーライですよ」
「もう次は面倒見ないよ」
真田くんは「えー」と唇を尖らせ、ちらりとわたしの顔を見た。彼の視線には気づかない振りをしてコンビニの袋にゴミを詰める。真田くんのゴミも一緒に詰めてゴミ箱に捨てると、彼は「ありがとございます」と小さく礼を言った。
午後からは、要領を掴んだ真田くんはほぼ一人で問題集を解き始めた。時折わたしに解説を求めるが、大体のことは自分で理解できているらしい。暇になってしまったわたしは、図書館で適当に小説を借りて彼の隣で読んで時間を潰した。
途中トイレに立ったわたしは、喉の乾きを感じてロビーの自動販売機に寄った。小銭を投入し、レモンティーを買う。特別好きというわけでもないのに、いつもこれを買ってしまうのだ。
真田くんも勉強を頑張っているし、何か買ってやろう。そう思い、商品を見ながら彼は何が好きかなと想像する。そして、ある商品に目が止まった。わたしは滅多に飲まないアミノ酸飲料だ。
「ヒロキがね、これ好きでよく飲んでるんだよね」
恵美がそう言いながら買い、一口飲んで「いつものにしておけばよかった」と顔をしかめた情景を思い出す。
どうしてわたしは、真田くんがヒロキくんだと気づかなかったくらいなのに、そんな小さなことだけは覚えているのだろう。
正直、迷った。恵美の記憶がなければそのジュースは選択肢に入っていたかもわからない。なのにそれを選んでしまうのは、なんだか癪だった。
だけどお金を出して買うのだから、本人が好きなものを買うのが一番だろう。結局そう思い直して、アミノ酸飲料を買って彼のところに戻った。
「はい。吉村様の奢りだよ」
トンっと、真田くんの目の前にさっき買ったペットボトルを置く。顔を上げた彼は、パッと笑顔をみせた。
「えー、いいんですか? ありがとうございます。俺、これ好きなんですよ」
さっそくキャップを開けて一口飲んだ彼は、わたしのレモンティーをちらりと見やった。
「……吉村さん、レモンティー好きなんですか?」
「好きは好きだけど……癖なんだよね。あれば買っちゃうの」
「なにそれ。やっぱ吉村さん、おもしろいや」
真田くんは笑いながらキャップを閉め、再び机に向かった。
「うわぁ、迷うなぁ。吉村さんはどれにします?」
「んー。パフェもいいけど、今はケーキの気分かな~」
「ケーキもおいしそうですね……。でもパフェ食べたいな……よし、決めました!」
真田くんはメニューの苺系のパフェを指差した。この少年は随分可愛らしいものを選ぶ。
図書館からの帰り、 真田くんからファミレスに誘われた。勉強を教える代わりに何か奢れ、なんて言ったから、気を使われたのかもしれない。本気で後輩に奢らせるつもりなど、初めからなかったのに。
「じゃあわたしはベイクドチーズケーキ。あとアイスコーヒーも頼もうかな」
「決まりましたか? ボタン押しますね」
真田くんは呼び鈴を鳴らして店員を呼び、わたしの分まで注文してくれた。お店の空いている時間だったため、商品はすぐに運ばれてきた。
「おいしそう……こういうのテンションあがりますね! 吉村さん、一枚だけ写真撮っていいですか?」
「どうぞ」
食べる前に何枚も写真を撮るのは一緒にいてあまりいい気分はしないが、一、二枚くらいなら気にしない。それよりも、パフェ一つで喜んでいる真田くんがかわいくて和んでしまった。
彼のこういうところも、恵美に似ているかな。
ポケットから携帯電話を取り出した真田くんは、カシャッとシャッター音を鳴らした。
「ちょっと、真田くん」
「な、なんですか」
「今の写真見せてよ」
「いや、吉村さんが、撮っていいって言ったんじゃないですか」
「いいから」
半ば強引に、彼の手から携帯電話を奪い取る。画面には今撮った写真と「保存しますか?」という文字が出ていた。
その写真の真ん中に写っていたのは、わたしだった。下にパフェとケーキが見切れているけれど。さっき、レンズを向ける角度がおかしいと思ったのだ。
サッと、また奪い返される。
「危ない危ない。よし、保存、と」
そして彼はそのままポケットにしまいこんだ。
「わたしまで写さないでよ」
「あ、吉村さん今いい顔してますよ」
何がいい顔だ。睨んでいるというのに。
数秒睨み続けると、真田くんはしょんぼりしたように肩をすくめた。
「……吉村さん、今日あんまり笑わないから……。でもさっき、ケーキ運ばれてきて、自然に笑顔になって、なんだか嬉しくて思わず」
「……なにそれ」
冗談なのか、本気なのか。真田くんは、たまにこちらの調子を狂わすことを言う。だいたい、わたしはケーキを見て笑顔になったんじゃない。パフェで喜ぶ真田くんを見て……
あぁ、なんだか頬が熱い。
真田くんはわたしの顔をじっと見つめ、そしてニヤリと笑った。
「そういう照れてる顔も好きですよ」
「調子乗るな、バカ」
「えへへ、ごめんなさい」
バカと言われても彼は嬉しそうに笑い、「いただきます」と手を合わせてパフェを食べ始めた。君は、わたしにとってかわいい後輩であり続けてくれれば、それでいいんだ。
コーヒーにミルクだけ入れて軽くかき混ぜる。氷とグラスがぶつかり、カラカラと涼しげな音を鳴らした。
最近、コーヒーに砂糖を入れなくても飲めるようになった。ブラックはまだ苦手だけど。コーヒーの苦味を美味しいと思えるようになったのは、少しだけ大人になったと言ってもいいだろうか。
チーズケーキをフォークで切り分け、口に運ぶ。甘さと酸味、チーズの風味が口の中に広がる。おいしい。中学生のころ、恵美ともこのファミレスでお茶をしたことがあった。その時も同じチーズケーキを頼んだ。当時の味は、もう覚えていない。
真田くんは、目を輝かせながらパフェを食べている。表情を見るだけで、そのパフェが美味しいことがわかってしまう。自分の作った物をこんな顔で食べてもらえたら、きっととても嬉しいだろうな。
半分程食べた真田くんは、スプーンから手を離して水を飲んだ。
「吉村さん」
「……何?」
「さっきも言いましたけど、なんか、今日、元気なくないですか? 何かありました?」
顔を上げて真田くんを見ると、彼は首を軽く傾げた。
「今日……ていうか、昨日の放課後から気になってたんですけど」
昨日の放課後の片付けでは、真田くんとは言葉を交わしていない。作業を、学年別に分担したからだ。片付けが終わった後も、クラスの打ち上げに参加するため、直接家には帰らず学校に近い早苗の家に寄った。だから、昨日は真田くんとは一緒に帰らなかった。今日図書館で会う約束は、その後メールで済ませた。
「あ、わかった! 委員長に彼女がいたことがショックだったんだ!」
「違うよ」
「えー、じゃあ、なんだろうなぁ」
真田くんはスプーンをくわえて首をひねった。
彼に言われて、今日初めて上田先輩の彼女の事を思い出した。恋だという自覚はあまりなかったが、先輩はわたしにとって少しだけ特別な人だった。そんな人に恋人ができたと言うのに、ショックはなかった。昨日の幸せそうな彼の顔を見て、わたしまで喜ぶことができた。
先輩の存在が、わたしの中で小さくなっている。新しくできたそのスペースに入り込んだのは、誰?
「本当に、なんでもないから。体育祭でちょっと疲れただけだよ」
「そうですか……。んー、じゃあ、俺のこと避けてません?」
「……そう思う?」
逆に聞き返せば、彼は押し黙った。そして、「避けてないなら、別にいいんですけど」と言ってまたパフェを食べ始めた。
「あ、俺、割と粘着質なんで、理由もわからず避けられたらしつこく付きまとっちゃいますよ」
「君は、わたしの別れた彼氏か」
「あはは、ホントだ」
「真田くんって、付き合ったら重たいタイプ?」
「えー、どうかなぁ」
真田くんはスプーンをペン回しの要領で綺麗にくるりと回した。そしてニヤリと笑い、低めの声で、
「試しに付き合ってみます?」
と言った。年上をからかおうなんて、生意気になったものだ。初めて会ったときは、ちょっとからかえばすぐ赤くなっていたのに。君の自称純情はどこへいった。
「重たい男はお断りです」
「じゃあ俺、軽い男になろうっと」
「……軽いは違うんじゃない?」
「もう、重いのと軽いの、どっちがいいんですか!」
「うーん、標準が一番かな」
「BMIは?」
「二十二……て、それは体重だから!」
「あ、俺二十なんで許容範囲ですね。ちなみに、吉村さんのBMIは?」
「女性に体重を聞かない」
「体重は聞いてません」
「体重よりタチ悪いよ」
「ちぇー。……そういえば吉村さん、付き合ってる人とかいないんですか?」
「……え」
ふざけた会話から、急に真顔で尋ねられ、すぐに返答ができなかった。真田くんは軽く首を傾げた。
「今さらですけど、彼氏いるのに二人きりって、まずいかな……とか思って」
「誰とも、付き合ってないよ」
「そうですか、よかった。あ、俺も彼女いないんで安心してくださいね」
「うん、聞いてないし心配もしてなかった」
「それはさすがに傷つきます」
真田くんは胸に手を当てると、傷ついたポーズをした。彼に現在恋人がいないとわかってホッとしたことは、絶対に教えてあげない。
ケーキの最後の一切れを口に放り込んだわたしは、その一口を味わうべく舌に神経を集中させる。真田くんは「無視ですか……」とさらに俯いていた。
「あー、チーズケーキおいしかった」
「……吉村さんの中では、俺よりチーズケーキが上なんですね」
「チーズケーキより真田くんの方が楽しいよ」
「うーん、楽しいならいいかな」
「……ていうか、なにケーキと争ってるのよ」
「俺は吉村さんの一番になりたいんです」
真田くんは視線を逸らし、少し唇を尖らせて言った。本当に拗ねているようだった。
「真田くん、さっきから何なのよ、本気なのか冗談なのかわかんないことばっか言って」
真田くんは困ったように視線をテーブルの上にさまよわせた。そして、握りこぶしを作ってわたしを見据えた。決心を、固めたように。
甘い期待……いや、嫌な予感がした。
彼はゆっくり口を開いた。
「……冗談では、ないんです。すみません。怖くて、勇気なくて、ふざけた言い方ばかりしてしまいましたけど、全部、本当に思ってることです」
「あ、うん、わかった、なんか文句言ってごめんね」
「吉村さん! 聞いてください。……俺、吉村さんが、好きです」
吉村さんが、好きです。
なっちゃんが好きだよ。大好きだよ。
真田くんの言葉に、恵美の声が重なる。二人とも、本気でそう思い、言ってくれているのだろう。 表情と口調で、それはわかる。わかってしまうから、つらい。二人とも、わたしには重すぎる。
「やだ、真田くん、それ告白? こんなとこで、照れるじゃん」
ケタケタと笑い声を上げたところで、真田くんが俯いて唇を噛んでいることに気づいた。彼が冗談で返してくれればいいと思う。誤魔化さないで、と、昨日恵美に言われた言葉が聞こえた気がした。
「ごめん。ふざけた」
彼の本気の言葉をわたしは笑ったのだ。それは、恥ずべきことである。
「……いや、俺だって、ずっとふざけてたわけですから」
「でも、さっきは、ふざけてなかった」
「……」
「えっと、ごめん、こういうとき、どうしたらいいかわからなくて……」
池田くんの時は、わたしも彼のことが好きだったから。だから、迷うことは何もなかった。
でも、今回は違う。真田くんのことが好きなのかどうか、自分でもはっきりとわからない。でも仮に好きだとしても、彼とはつき合うつもりはない。真田くんとだけは、つき合えない。
だけど、気まずくなるのは避けたい。これからも今まで通りの関係でいたい。自分に懐いてくれたこのかわいらしい後輩を、失いたくない。
随分自分勝手で、都合のいいことばかりわたしは考えている。反吐が出そうだ。
「吉村さん、場所、変えませんか。外の空気、吸いたくなっちゃった」
「……うん」
真田くんの言葉に頷き、伝票を持って立ち上がる。
「俺、払います」
わたしの持つ伝票に、真田くんが手を伸ばす。それをかわして、伝票の挟まったプレートで彼の頭を軽く叩く。
「後輩は黙って奢られてればいいの」
「でも、勉強教えてもらったし、そういう約束だったじゃないですか」
「あんなの冗談だよ」
「じゃあせめて、自分の分だけ」
「いいから」
「でもそれじゃあ……」
なかなか引かない真田くんに、だんだん苛立ってくる。
「彼女に奢ったこともないような男に、奢られたくないの!」
真田くんは、ハッとしたように動きを止めた。
恵美と真田くんがいつも割り勘していたことは、恵美から聞いて知っている。真田くんが年下だからとかは関係なく、それが恵美なりの対等な付き合いだったのだと思う。
「俺だって、彼女に奢ってもらったことは一度もないんで」
ムッとしたような顔つきで、真田くんは財布から出した五百円玉をわたしに押し付けた。そして、二人同時に吹き出した。
「俺ら、会計にムキになりすぎ」
「ホントだよ、もう」
店員や他のお客のいる中でこれ以上争うのはさすがにみっともない。そう判断し、彼から渡された五百円は素直に受けとることにした。
ファミレスを出て、しばらく道を歩く。あのお店新しくなったんだね、とか、この家の花壇綺麗だね、なんて話しながら。やがて、道沿いに小さな公園が見えてきた。
「ちょっと、座りません?」
公園内のベンチを指差した真田くんに、わたしは黙って頷いた。
「吉村さん、やっぱり、『なっちゃん』だったんですね」
公園では、小さな子供たちが遊具で遊んでいた。走り回る女の子が私たちの目の前で転び、何事もなかったように立ち上がりまた走って行く。
「やっぱり、って、気づいてたんだ?」
「初めて会ったときから、もしかして、とは思ってました。あのクマのキーホルダー、恵美さんとおそろいですよね」
「……うん」
「恵美さん、なっちゃんとおそろいで買ったんだって、嬉しそうに話してたんです。……それと、吉村さん同じ中学だし、顔も似てるような気がするし、名前もナツだからなっちゃんになるし、吹部だし、打楽器やってるし、理数系得意だし、運動音痴だし、レモンティー好きだし、」
「え、ちょっと、なにそれ」
「あ、でも、アイスコーヒーにガムシロップ入れませんでしたね。そこは、予想外でした」
真田くんは小さく笑い、「恵美さん、なっちゃんのこと大好きだから、いろいろ話聞いてたんですよ」と言った。
「でもなっちゃんの本名は知らなかったし、顔もはっきり覚えてないし、それに吉村さん、髪短くして昔と雰囲気変わりましたよね。だから、確信持てなかったんです」
「……それを言うなら、真田くんこそ変わったじゃない」
「俺チビでしたもんね。中二の秋ぐらいから、急成長したんですよ。おかげで制服買い直したんです」
「そうだったの。……全然、ヒロキくんだって、気づかなかったよ」
「じゃあ、いつ俺が恵美さんの元カレだって気づいたんですか?」
「……借り物競争」
「あぁ、そっか……」
それから数秒間、真田くんは黙り込んだ。
「って、まぁ、こんな話、今は関係ないか。……さっきの話の続き、してもいいですか?」
真田くんは、わたしの顔を覗き込んでそう尋ねた。彼と目を合わせることができず、わたしは目線を膝の上に落とした。真田くんの左手だけが視界の端に入る。さっきから何度か、拳を握り直していた。
「吉村さん、好きです」
「……」
彼に、何と答えたらいいのかわからない。つき合うつもりがないのなら、さっさとごめんと言ってしまえばいい。でも、怖かった。真田くんとの間に溝ができてしまうことを、わたしは怖れていた。
「真田くんは、わたしとつき合いたいの?」
「はい」
「でも、わたしは、恵美の……」
「親友?」
わたしは、はっと息を飲んだ。それは、真田くんらしくない、冷ややかな声色だった。一筋の汗が、首筋を伝った。
カラスが鳴き、遊んでいた子供達は一人、また一人と帰っていった。
「あれ、吉村さん、恵美さんのこと友達だと思ってたんですか? 俺、てっきり恵美さんが嫌いなんだと思ってましたよ」
抑揚のない真田くんの声が、怖かった。
心臓がドクドクと早鐘を打つ。真田くんの顔が、見られない。冷たくなった指先を、わたしはぎゅっと握り込んだ。
「志望校、恵美さんに黙って北高にしたんですよね。高校入ったら、恵美さんのメール無視ってましたよね。意識的に恵美さんを避けてたんじゃないんですか? 恵美さんのこと、嫌いだったんじゃないんですか?」
やめて。もう、やめて。
畳み掛けるような真田くんの言葉に、耳を塞ぎたくなる。
「それなのに、恵美さんのいないところで、今さら親友だとか言っちゃうつもりですか?」
彼の言葉から、怒りを感じた。それは、恵美を傷つけたわたしへの怒りなのか。
けれど同時に、沸々とわたしの心にも怒りが沸いてきた。真田くんの言うことは全て図星だ。でも、それを第三者の彼に言われる筋合いはない。
「なに、よ。たかが恵美の元カレの分際で、何でも把握してるつもりにならないでよ!」
突然声を荒げたわたしに、真田くんがたじろぐ気配が伝わった。
「嫌いだったよ! 大嫌いだったよ!!」
公園内には、もうわたしたちしかいなかった。
「みんな、恵美しか見ないじゃない! 池田くんだって、恵美が好きだった。わたしに、恵美に釣り合うことなんて一つもなかったの。恵美の隣にいても、惨めになるだけだったんだよ!」
恵美と二人で話しながら歩いていても、恵美だけがクラスメートから呼び止められる。わたしは、彼女らの会話が終わるのをただ待っていることしかできなかった。
クラスメートが恵美を遊びに誘えば、恵美は決まって「なっちゃんも誘っていい?」と言った。彼女らはわたしを拒否はしなかったものの、興味なさげに頷いた。その目は、「お前は誘ってないんだ。空気読めよ」と言っているようだった。今となっては、ただの被害妄想だと思える。結局、わたしは何かと理由をつけてそういった誘いを断っていた。
恵美の傍にいると、どんどん自分に自信を失っていった。逃げ出したくなるほど、惨めだったのだ。
だけど、本当に嫌いなのは恵美ではなく、そんな時にクラスの輪に入っていけない自分だということは、とっくにわかっていた。恵美の隣にいるから地味なんじゃなくて、もともと地味なだけなのに。事実をそのまま認められなくて、それを恵美のせいにしている自分もまた、大嫌いなんだ。
「あ……、俺、吉村さんがそんなふうに思ってたこと、何も知らなくて……」
真田くんの声は、どこか苦しそうだった。
「あの、池田……って?」
真田くんが首を傾げる。そういえば勢いにまかせて、余計なことまで口走ったような気がする。
「……中学の時、つき合ってた人」
「え……、それは、知らなかったです」
「恵美にも話してなかったから。……話さなくてよかったって、本当に思うけど」
「……どうして、ですか?」
わたしの口元は、無意識の内に笑っていた。楽しい感情からの笑いではない。笑わなければ、泣いてしまいそうだったのだ。
「彼ね、恵美が好きだったんだよ。向こうから告白してきたくせに、本当は、わたしのことは妥協してつき合ってるだけだったの」
「……何ですか、それ」
真田くんは絶句していた。きっと真田くんと恵美は、お互いを愛し合っていたカップルだっただろう。池田くんのような人のことは理解できないのかもしれない。わたしだって、あんな人、理解できないけれど。
「恵美が、憎かったよ。……嫉妬だなんて、わかってたけど、でも、どうしようもなく憎かったんだよ」
「……吉村さん」
「恵美さえいなければって、何度も思ってた。せめて、友達じゃなければって。もういい加減、恵美と離れたかったの」
「吉村さん。……もう、いいです」
膝の上で握った拳に、真田くんの左手が重なった。一度緩くわたしの手を包み込むように握ると、彼はまた手を離した。真田くんは身体をわたしの方へ向け、「すみません」と頭を下げた。
「すみません。吉村さんのことを責めるつもりは、なかったんです。でも、恵美さんの存在を理由に断られるのは、どうしても納得できなくて、腹が立って。それで、酷いこと言っちゃいました。なんだか、気持ちに余裕がなくて……本当に、ごめんなさい」
「……ドン引き、したでしょ」
ガバリと真田くんが勢い良く頭を上げる。そして、首を強く左右に振った。
「いいよ、正直に言って。わたしだって、自分のこと最低だと思うもん」
「引いたりなんて、しません。ただ、なんて言ったらいいのか……」
真田くんは俯き、目を閉じて首をふるふると振った。
心に余裕がないのは、わたしも同じだ。冷静に話し合うことも、今は難しいと感じる。
「ごめん、今日は、もう帰っていいかな」
わたしの言葉に、真田くんも無言で頷いた。
「吉村さん、明日も空いてますか? 化学、まだみてもらいたいです」
「……うん、いいよ」
「ありがとうございます。じゃあ、図書館に同じ時間で」
「うん。……真田くんも、帰る?」
「俺は、もう少し、ここにいます。ちょっと、一人で考えたくて」
「そっか。じゃあ、また明日」
「はい。今日は、ありがとうございました」
ベンチから立ち上がり、歩き出す。公園を出たところで後ろを振り向きたくなったが、振り向かずとも彼が俯いて座っている様が容易に想像できた。
わたしは真田くんには目を向けず、薄暗くなった家路を進む。道沿いの田んぼでは、蛙が鳴いていた。鳴き声に、さらに鳴き声が重なる。その鳴き声は、サイレンのように頭の中に鳴り響いていた。