第4話 親友
体育祭当日は、雲一つない快晴だった。応援席では、常に誰かが日焼け止めを塗っている。朝から何度も、アナウンスで熱中症に気を付けるよう呼び掛けられていた。
恵美は、もう来ているだろうか。観客席の方を見渡してみる。応援席からは距離があり、判別するのは難しかった。日陰に入れていれば良いのだが。
『選択種目、綱引きに出場する生徒は、待機場所に集合してください』
「よっし、行くよ、早苗!」
「おっしゃー!」
由美と早苗が意気込んで立ち上がる。
「頑張って」
二人にハイタッチをして送り出す。他にも綱引きに出場する人たちが、ぞろぞろと席を立っていった。
人の減った応援席で、わたしはさゆりの隣に移動した。選択種目は様々あって、由美と早苗は綱引きだ。さゆりは玉入れで、わたしは借り物競争に出場する。
「由美と早苗、ゴリラみたいだったね」
「わたしも思った」
「これは、綱引きは青連の勝ちだね」
「ゴリラが二頭もいたんじゃね」
さゆりと顔を見合わせて笑う。
さゆりとの関係を親友と呼んでいいだろうか。ふと、考える。中学時代は、恵美を親友だと思っていた。ただの友達と親友の境目ってなんだろう。
「あ、あの赤連の人、捺の先輩だよね。上田さんだっけ」
さゆりがグラウンドの中央を指差す。そこでは綱引きの準備が行われていた。赤い連合Tシャツの袖を肩まで捲り上げた上田先輩に、自然と目がいってしまう。
「うん、上田先輩。あそこにいるのみんな、福祉の三年生だよ」
「へー、捺は玉入れの手伝いなんだっけ」
「うん」
「……ねえ、捺ってさ、好きな人とかいないの?」
さゆりが声をひそめてわたしに聞いた。急に転換された話題についていけず、「え?」と聞き返してしまう。
「捺、そういう話全然しないじゃん」
「それは……。わたしだって、さゆりの話あんまり聞いたことないし」
「ハヤトと付き合ってること、言った」
「まぁそうだけど……」
もう一度、グラウンドに目を向ける。さゆりは、わたしが上田先輩のことを好きだと思っているんじゃなかろうか。
「上田先輩は、憧れって感じかな。かっこいいし、人望あるし、少しでも近づけたら嬉しいな、って」
「それが、好きってことなんじゃないの?」
「……そうかなぁ」
好きという気持ちは、あったかもしれない。でも、本当に淡い気持ちだ。話しかけられると嬉しい。関心を持たれないと寂しい。わたしはただ、彼の意識の中にいるときだけ、承認欲求が満たされていたのだ。
「あと、ハヤトが、この前捺が男と二人で帰るとこ見たって……。ハヤトは、知らない人だったって言ってたけど……その人は、誰なの?」
あぁ、さゆりがこんな話をしてきた本当の理由は、これを聞きたかったからか、と気づいた。笑ってしまいそうになる。
「それは、真田くんかな」
「……誰?」
「福祉の一年生。同じ中学出身なんだ」
「……付き合ってるとかじゃ、」
「ないない。犬みたいな子でね、なんか懐かれちゃったの」
さゆりは、プッと噴き出した。
「懐かれたって」
「ホントだよ。あ、わたし、玉入れの手伝いで真田くんとペアなんだ」
「じゃあ、どんな子か注目して見てみるね」
さゆりはどこか、すっきりした表情をしていた。
「ハヤトがさぁ、あれは付き合ってる、なんて言うから気になっちゃって」
さゆりの口からこんなにハヤトくんの名前が出てくるのは珍しい。それより、そんなにわたしのことを気にしてくれていたのかと思うと、ニヤニヤしてしまう。
「好きな人できたら、一番にさゆりに相談するよ」
そう言うと、さゆりもまたニヤつきを抑えきれない表情で頷いた。
「ふふふふふ」
額を小突き合わせて不気味に笑う。
さゆりが好きだ、と思った。胸の内側からじんわりと温まっていく感覚に、目を閉じ身を委ねた。
午前の部が終わり、さゆりたちと校舎に戻る途中、観客席の中に恵美の横顔を見つけた。
「恵美!」
名前を呼ぶと、恵美はハッとしたように辺りをキョロキョロ見渡した。もう一度呼びかけ、手を振る。すると今度はわたしに気づいたようで、笑顔で駆け寄ってきた。
「うわっ、めっちゃ可愛い子だ」
「捺の友達?」
ほぼ一年ぶりに会う恵美は、以前よりさらに可愛くなったように見えた。陸上部で健康的に日焼けした肌に、ぱっちりした大きな目。小振りな鼻に形の良い唇。パーマを当てていない天然のウェーブの髪には、自然な艶がある。花柄のワンピースに長袖のカーディガンを羽織り、ツバの広い白い帽子を被った彼女は、まるで人形のようだった。
「なっちゃん! 久し振り!」
わたしの手を取り何度か揺さぶったところで、恵美は初めてさゆりたちの存在に気づいたらしい。気まずげに手を離す。しかし、人見知りはしないタイプの恵美だ。
「なっちゃんのお友達? 初めまして、花野恵美です」
中学の友達、とわたしが付け足すと、由美があぁと頷いた。
「今日捺が一緒にご飯食べるって言ってた子ね。わたし由美。よろしくね」
「早苗だよ。近くで見るとホント可愛いね。……捺、別に恵美ちゃんと二人じゃなくたって、みんなで一緒に食べればいいじゃん」
早苗の提案に、確かに、と思う。おしゃべりな由美と早苗がいれば、そんなに恵美と話さなくても済むだろう。恵美もみんなも、楽しく食事を終えられるはずだ。
しかし、その「逃げ道」を塞いだのはさゆりだった。
「久し振りに会ったんだから、二人で話したいこととかいっぱいあるでしょ。捺、行っておいでよ」
「……うん」
何もわたしの事情を知らないはずのさゆりから、背中を押されたような気がした。
「恵美、体育館、場所わかる?」
「うん、さっき案内板があった」
「じゃあ、お弁当取ってくるから、先に中で待ってて」
「うん。じゃあみんな、午後も頑張ってね。青連応援してるね」
恵美はわたしたちに手を振ると、体育館の方へ歩いていった。
「後ろ姿も可愛いなぁ」
「しかも、いい子そう」
恵美のことを褒められるたび、気分が落ち込む。やはり、彼女から離れて良かった。どうせわたしは綺麗に咲く花の隣の雑草、いや、醜い羽虫だ。
体育祭中、体育館は観戦に来た保護者の休憩所として解放されている。小学生くらいの子供を連れた親子や、他校のグループ、わずかだが、この学校の生徒も混じっていた。みなレジャーシートを広げて、お弁当を囲んでいる。
恵美は体育館の隅で立っていた。
「恵美、お待たせ。あっちの空いてる方で食べよっか」
広めのスペースを見つけ、腰を下ろす。恵美は、コンビニのビニール袋から飲み物と菓子パンを取り出した。
「今日、一人で来たの?」
「ううん、友達と。他の子は、あそこのファミレスでご飯食べてる」
「そっか。今日暑いでしょ、日陰入れてた?」
「うん、木の下で見てたよ。なっちゃんこそ、ずっと日向いたでしょ。具合悪くなったりしなかった?」
「わたしは大丈夫」
「そう。でも気を付けてね。午後からまた気温上がるらしいよ」
以外と普通に恵美と話せてるな、と思った。そのことにホッとする。
「赤の応援、面白かったなぁ。あの、不思議なダンスのやつ」
「あはは、あれは笑えたよね。午後の応援合戦で、完全版が見れるよ、きっと」
「ホント? 楽しみ。なっちゃんは、午後何出るの?」
「えっと、まず応援合戦があって、それから二年生の学年種目と、借り物競争。あと、手伝いで玉入れのカウントやるから、そこが見所ね」
冗談めかして言うと、恵美は「ホント? 玉入れ絶対見るね」と目を輝かせた。
「なっちゃん、最近どう? 吹奏楽は続けてるの?」
「うん、やってるよ。来月コンクールあるんだ」
「そうなんだぁ。頑張ってね」
「ありがとう。恵美は? 陸上?」
「うん。でも、なかなか結果出せなくて」
恵美は髪を耳にかけながら、弱々しく笑った。あまり、恵美らしくない表情だ。
「そっか。……でもわたし、恵美が走ってるとこ、好きだよ。すごく、かっこいいと思ってた」
中学時代、恵美に伝えそびれていたことだ。トラックを駆ける彼女の真剣な横顔を、今でも思い出せる。
「なっちゃん、ありがとう。なっちゃんに言ってもらえると、すごく嬉しい」
恵美はパンを膝の上に下ろして、真っ直ぐわたしを見て言った。そう、その笑顔だ。それが一番、恵美らしい。
心の中に抱えていたわだかまりが、溶けていくようだった。時間が解決するって、こういうことなのか。
恵美の手が伸び、わたしのショートボブを撫でる。
「なっちゃん、その髪型、似合ってるね」
「うん、自分でもお気に入り。でも最初切るとき、結構勇気いったんだよ」
小学生の頃からずっと伸ばしていたから、ショートの自分がイメージできなかった。お母さんに相談してみると、「いいんじゃない? とりあえず切ってみたら。似合わなければまた伸ばせばいいじゃない」と言われ、お小遣いをもらって美容室に行ったのだ。結果、家族からも友達からも、上田先輩からも似合うと言われた。お世辞も混じっているだろう。だけど髪型を変えただけで、少しだけ気分が、目線が、上を向いた。
「気づかなかったなぁ、なっちゃんはショートの方が似合ってたのかぁ」
「ふふ、ありがと」
「ねえねえ、なっちゃん彼氏できた?」
「全然。できないよ」
「えー、なっちゃんかわいいのにな。じゃあ好きな人いる?」
チクリと、針が一本刺さる。自分よりかわいい子に、かわいいと言われてもなぁ。でも恵美に悪気はないのだろう。こういうところは鈍感なのだ、彼女は。
「どうかなぁ。そういう恵美はどうなの? あの後輩の男の子は?」
「あ、ヒロキ? ヒロキとはね、別れたんだ。もうすぐ、一年経つかなぁ。それからは、誰とも付き合ってないよ」
恵美は表情を変えず、あっけらかんと答えた。
「そうだったんだ。仲いいなって思てたんだけど」
恵美が彼氏と別れていたという事実に驚きながらも、彼はそんな名前だったかなと考えた。ヒロキくん。言われてみれば、たまに「ヒロキがね、」と話していたような気もしてきた。
「うん。……わたしが悪いんだけどね、なんか、ヒロキのこと本当に好きなのか、わからなくなっちゃったんだよね」
「……なにか、あったの?」
恵美とヒロキくんは、付き合い始めてから本当に順調に歩んでいるように見えた。彼とは数回くらいしか会ったことがないが、恵美と波長が似た男の子だった。
「えっとね、ちょっときっかけがあって、ヒロキに対する気持ち、良く考えたことがあったんだ。そしたら、わかんなくなっちゃったの。ヒロキのことは大好きだったし、今でも好きなくらいなんだけど、それが恋愛感情とは違うような気がしてきちゃって」
伏し目がちに話す恵美の言葉を聞きながら、悩んだんだろうなと思いを馳せる。別れたのがほぼ一年前ということは、わたしが恵美への連絡を断ったあたりか。誰かに相談していただろうか。一人で抱え込んだり、していなかっただろうか。
「あ、そういえば、ヒロキも北高なんだよ」
「へぇ、そうなんだ。あの子すごい小さかったけど、背伸びたの?」
「うん、もうなっちゃんより高いよ。顔つきも結構変わったし」
「じゃあ、わたしが見てもわからないだろうな」
「そうかもねぇ。あ、この前たまたま会ったんだけど、眼鏡も掛けててね、最初誰だかわからなかったんだ」
「それじゃあもう、わたしじゃ絶対わかんないよ」
あはは、と笑いながら食べ終わったお弁当を片付ける。恵美も食べ終わったようで、ゴミをまとめていた。
ふと、また伏し目がちになった恵美が「ねぇ、」と切り出す。
「……なっちゃん、高校、楽しい?」
「……」
「なんだか、表情が明るいっていうか、前より生き生きしてるっていうか……。だから、てっきり彼氏でもできたのかな、なんて思ったんだけど……」
「……楽しいよ。彼氏はいないけどね。友達、できたし」
友達という言葉に、恵美は少しだけ寂しげな表情をした。そんな顔、しないでほしい。恵美だって、高校で友達が増えたはずだ。今日だって、一緒に来た友達がいるのだから。
「そっか。楽しんでるなら、良かった。連絡全然来ないから、心配だったの」
作り笑いと分かる笑みを浮かべた彼女は、ためらいがちに唇を動かした。
「なっちゃん……どうして、メール、返してくれなかったの?」
ついにこの話題がきたか。楽しい話だけして終わらせられれば良かったのに。そしたら、空白の一年をなかったことにできたかもしれないのに。
いや、恵美は、わたしが今後もまた連絡を断つつもりでいることを予測しているのだろう。
「高校で、新しい友達ができたから? だからもう、わたしに連絡くれなかったの?」
「……」
「違う、よね。本当は、中学から、わたしのこと避けてたよね」
「恵美、」
「こんなふうに笑ってお話したりして、でも、本当はわたしのこと嫌いだった? 心の中では、面倒くさいって思ってた?」
「……恵美、重たい彼女みたいだよ」
「誤魔化さないで!!」
人の減ってきた体育館に、恵美の声が響き渡る。周囲の視線が集まるのを感じた。恵美も気づいたのか、恥ずかしげに下を向いた。
「わたし、なっちゃんが好きだよ。大好きだよ」
こんなふうに、冗談も一切混じらず本気で好きだと言われたのは、初めてではないだろうか。
「高校離れて会えなくなったって、他に友達できたって、なっちゃんが好きなのは変わらなかったよ」
声が水っぽくなったと思ったら、恵美の両目から涙がこぼれた。
「今日だって、なっちゃんに会えて嬉しかった。たくさん話せて、楽しかった。……なっちゃんは、違うの? お願い、はっきり言ってよ……」
涙で頬を濡らす彼女を、わたしは黙って見ていることしかできなかった。泣いていてもかわいいな、なんて思いながら。朝露に濡れた彼女は、触れれば花びらを落としてしまいそうな、儚げな可憐さを纏っていた。
「ねぇ、なっちゃん……」
恵美、重たいよ。昔の恵美なら、そんなこと絶対言わなかった。わたしが恵美を拒絶していたこと、中学の時から気づいてたんでしょ。恵美が気づいてたこと、わたしもわかってたよ。でも、何も言わなかったじゃない。気づいても、気づかない振りをずっとしていたよね。
本音を言えば、あの頃、ちょっとだけ寂しかったんだよ。さらに本音を言えば、今、ちょっとだけ嬉しいんだ。
すっと息を吸い込む。これから、わたしは恵美を傷つけることを言うだろう。でもきっと、何を言ったって、黙って立ち去ったって、嘘で誤魔化したって、傷つけることに変わりはないんだ。
「わたしも、恵美が好きだったよ」
恵美が顔を上げる。その目を見据え、わたしは続けた。
「でも、友達になんてならなければ良かったと思ってた」
恵美は、表情を変えない。目もそらさない。
「恵美の隣に、いたくなかった。ずっと、もう離れたいって思ってた。恵美と一緒にいるの、つらかったんだよ」
人を傷つける刃を持った言葉が、口から溢れてくる。でも、きっとわたしは後悔しないだろう。
「北高受験したのも、上を目指したとかじゃなくて、ただ恵美と同じ高校に行きたくなかっただけ。入学して、恵美のいない生活が始まって、すごい解放された気がした。毎日、本当に楽しかった。……だから、もう今さら、恵美と連絡を取る意味なんて、ないでしょ」
恵美はもう、泣いていなかった。感情の読めない表情で、わたしを見ていた。
「じゃあ……、なんで、今日、会ってくれたの?」
「……なんでだろうね。わかんないや」
外でマイクのテストが始まった。もう、午後の部が始まってしまう。
「わたし、行かなきゃ。……恵美、友達と合流する前に顔洗いなね」
お弁当を持って立ち上がる。教室に戻っている時間はない。このままグラウンドに行くしかない。
「なっちゃん」
まだ床に座ったままの恵美に呼びとめられる。
「何?」
「……午後も、頑張ってね。応援、してるから。最後まで、観ていくから。……あと、今日は、会ってくれて、ありがとう」
恵美は下を向いたまま、言葉を途切れさせながらそう言った。
「……恵美も、来てくれてありがとう」
やっと、恵美は顔を上げてくれた。まだ涙の乾かない彼女に笑いかける。
「じゃあ、先に行くね。……バイバイ」
バイバイ。もう、次会うことはあるだろうか。
グラウンドに出ると、応援席には連合ごとにほとんどの生徒が集まっていた。そこに向かって、わたしは無心で駆け出した。