第2話 前進
恵美と初めて会話をしたのは、中学一年の四月、入学式の数日後だった。掃除でゴミ捨てに行く途中、掃除場は違ったが同じくゴミ捨てをしていた恵美とたまたま会ったのだ。彼女はわたしと目が合った瞬間、ぱっと笑顔になって駆け寄ってきた。
「同じクラスだよね。わたし、花野恵美。あなたは、捺ちゃんだよね?」
入学して数日、クラスでも目立たないわたしの名前を覚えていてくれたことに驚いた。でもわたしも恵美の存在を知っていた。だって、彼女はクラスで一番かわいかったから。名前の響きの通り、華のある笑みを咲かせる子だった。
「うん、吉村捺だよ。よろしくね、恵美ちゃん」
「よろしく! 捺ちゃんって言いにくいから、なっちゃんでいい?」
恵美は、最初から他人との間に壁を作らない子だった。初対面にしては距離が近いなと感じたが、嫌な気はしなかった。
それから、毎日挨拶をする仲になり、移動教室で一緒に行動し、休日も遊ぶようになった。いつからか、「恵美ちゃん」から「恵美」に呼び方が変わっていた。
恵美は誰に対しても分け隔てなく笑顔で接し、男子からも女子からも人気者だった。そんな彼女が、なぜわたしと特別親しくしてくれたのか、今となってもわからない。ただ、わたしが恵美に惹かれていたことは確かだ。ほんわかした雰囲気もありながら、陸上部の活動は本気で取り組んでいた。勉強も、得意とは言えなかったが真面目で手を抜かなかった。自分の意思をしっかり持ち、回りの意見も聞き入れ、間違っていると思うことには反論できる子だった。他人の陰口は決して言わず、二人きりの時には多少の愚痴をこぼすことはあっても、いつも明るい話をしていた。そして、そんな恵美と一緒にいると、心がとても安らいだ。
恵美のことが好きだった。大好きだった。
中三の体育祭の後、わたしは同じクラスの池田くんから告白された。彼は、わたしの密かな片想いの相手でもあった。夢かと疑うくらい嬉しくて、その場で頷き「わたしも好きだよ」と伝えた。彼の言葉を、疑おうとも思わなかった。
当時恵美は既に後輩の男子と付き合っていたし、年頃の女の子として人並みに恋愛への興味もあった。
池田くんからは、付き合っていることはみんなには秘密にしようと言われ、恵美にも、時が来たら話そうと思いつつ黙っていた。本当は、恵美と恋愛の話も沢山したかったけれど。少しの不満はあったが、好きな男の子と両思いで付き合っているという事実にわたしは浮かれていた。
学校では挨拶くらいしかしない代わりに、夜はメールや電話をして、休日は少し遠くまで出掛けてデートをした。キスもそれ以上のことも、彼に求められるがままにわたしの初めてを明け渡した。彼と付き合って、世界が輝いているように感じた。幸せだった。楽しかったんだ、わたしは。
それなのに、たったの二か月後、彼から別れを告げられた。放課後、屋上へ続く階段の踊り場で、冷たい声で彼は言った。おまえといてもつまらない、と。
「吉村って、俺の顔色ばっか見て行動してるじゃん。俺の言うことには全部賛成で、自分から何したいとか全然言わねぇし。俺に気を使ってばかりで、こっちが疲れるんだよ。身体だって、ちょっと迫ればすぐヤらしてくれるしさ。吉村は、そんなんで本当にいいわけ」
違う、と反論したくても、言葉が出てこなかった。違う、違うのだ。わたしはただ、あなたが好きなだけなのだ。あなたの求めることが、わたしの幸せだったのだ。
「なんていうかさぁ、吉村って、『自分』がないの?」
彼のその言葉にハッとした。彼の言う、つまらないの意味がようやくわかった。わたしは自分の意見をしっかり伝えられたことが、何度あっただろう。我慢していたつもりはない。だけど、常に受け身で、彼にわたしという人間を知ってもらおうとしてこなかった。
彼の別れたい理由がそれだけだったなら、もしかしたらもう一度やり直せていたかもしれない。彼に対して今まで言えなかったことや本音を全てぶちまけて、対等な関係を築けたかもしれない。
だけど、彼は更に続けた。
「俺、他に好きなやつ、いるんだよね」
わたしの未練を拒絶するかのように、わたしの目なんか見ず、彼はそう言った。
「本当は、吉村と付き合う前から、そいつのことが好きだった。でも叶うはずないってわかってたから、ちょっといいなって思ってた吉村と付き合ってみたんだ。……でも、思ってたのと違った」
「……恵美?」
ほぼ無意識に、口から彼女の名前がこぼれていた。池田くんは、ちらっとわたしを見て、また視線を逸らした。
「あぁ。やっぱ、わかるか」
彼はよく、わたしに恵美のことを聞いてきた。いつもどんな会話をしているのかとか、付き合っている彼氏はどんな人なんだとか。共通の話題があまりないから、わたしの親友の話で会話を繋げようとしているだけだと思っていた。彼が恵美を好きだなんて、たった今まで、考えもしなかった。
「……吉村、ごめんな」
池田くんは、そこで初めて申し訳なさそうな顔をした。
「でも、全部がつまらなかったわけじゃないよ。楽しいことも、もちろんあった。今まで、ありがとうな」
最後に少しだけ笑って、彼は一人で階段を降りていった。わたしは動けず、その場にしゃがみこんだ。涙は出てこなかった。
さんざん人の心をズタズタに傷つけておいて、最後だけいいことを言ってきれいに終わらせようとした彼が、憎いと思った。そしてその憎しみの矛先は、徐々に恵美へ向かっていった。
恵美が憎くなった。嫉妬だということは、当時から自覚していた。池田くんへの未練はとっくに失せてしまったというのに、恵美への嫉妬だけが残った。
女子も男子もみんな、恵美が好きなのだ。恵美の傍にいる限り、誰もわたしを見てはくれないのだ。恵美と釣り合わないわたしは、彼女の引き立て役にしかならないのだ。
それから先、恵美といると息苦しくて、上手く笑えなくなっていった。でも卒業まで半年だというのに、今さら新しい友達を作る気力はなく、かといって一人になるのも怖くて、恵美と表面上の関係を続けた。そして、恵美と違う高校を受験して、彼女の元から逃げた。
わたしにないものを全て持っている恵美が、憎かった。以前なら、憧れなんてきれいな表現をしていたかもしれない。でも、わたしの感情はただの妬みだ。嫉みだ。恵美のようになれるよう努力するわけでもなく、わたしの隣で輝いている彼女にただただ嫉妬していた。
委員会のあった翌日、五時間目の授業は体育で、昼休み、わたしは友人たちと体育館へ向かって歩いていた。すると廊下の反対側から上田先輩が歩いてくるのが見えた。顔がこわばるのが、自分でもわかった。
先輩もわたしに気づいたようで、気まずげに視線を逸らした。そのことにショックを受ける。なんであんな態度を取ってしまったんだろうと、後悔する。
しかし彼はすれ違いざま、わたしにニッと笑って片手を上げた。
「よう、吉村」
「あ、こ、こんにちは」
少々吃りながら挨拶をかえす。彼はそのまま行ってしまった。
「今の人だれ?」
「かっこよくない?」
一緒にいた友達が、先輩のことを聞いてくる。でも、わたしの耳に彼女たちの声は入ってこなかった。
今の彼の笑顔が、無理して作ったものだというのは気のせいではないだろう。このままで、わたしはいいのだろうか。
「ごめん、先行ってて」
友達にそう告げ、わたしは来た道を引き返した。まだ、廊下には先輩の背中があった。
「上田先輩!」
振り向いた先輩は、駆け寄ってくるわたしを見て少し驚いたような顔をした。
「先輩、あの、昨日はすみませんでした!」
「え、ちょ、吉村、何を謝ってるんだよ」
いきなり頭を下げたわたしに、先輩がおろおろしている気配が伝わってきた。
「すみません、話の途中だったのに、急に帰っちゃって」
すうっと、先輩が息を吸った音が聞こえる。ぽんと、肩に手を置かれる。
「そんなの、気にしてないから、全然謝るようなことじゃねえって」
見上げると、彼は優しく笑っていた。それがからかうような笑みに変わる。
「それより、ちゃんと電車は乗れたのか?」
「……はい」
「そうかそうか。おまえ歩くの遅いから、間に合わないんじゃないかって心配してたんだよ」
「そんな遅くないですよ!」
「あははっ。じゃあな。これから体育? がんばれよ、運動音痴」
先輩は笑顔のまま、ひらりと手を振って歩きだした。電車の時間が余裕だったことは、気づいていたのかもしれない。
随分、あっけなく謝罪は終わってしまったな。でも、ちゃんと謝ることができてよかった。先輩に対してだけでなく、自分のためにも。
一度深呼吸してから、体育館へ向かう。廊下を曲がると、先に行ったはずの友人三人がそこにいた。
「……何してるの、あんたたち」
「こっちのセリフよ、捺! 誰よ、今の人!」
由美がわたしの胸ぐらを掴んで詰め寄る。なかなかに迫力ある演技だ。
「酷いわ! あたしのことは遊びだったのね!」
早苗は両手で顔を覆い、泣き真似を始めた。
「そんなことないよ。早苗も好きだよ」
「『も』ってなによ、『も』って! この、浮気者!」
「……早くしないと遅れるよ」
「はーい」
さゆりの冷静な呼び掛けに、みんな応じる。前列にわたしとさゆり、後列に由美と早苗が並んで歩き始める。
彼女たちは、高校に入ってから仲良くなった友人だ。中学ではクラスの女子に「なっちゃん」という呼び名が浸透していたが、今は「捺」と呼び捨てで呼ばれている。
「で、本当にさっきの人誰なの? 吹部の先輩とか?」
さゆりがわたしの顔を覗きこみながら尋ねる。
「福祉の委員長だよ」
「そうなんだ。でもさっき、謝ってなかった?」
盗み見していた罪悪感からか、さゆりは少し申し訳なさげな表情で尋ねた。いや、わたしを心配している表情かもしれない。
「んー、まぁ、昨日ちょっとね。大したことじゃないんだ」
「そっか、うん、ならいいんだけど」
さゆりは微笑んでそう言った。やはり、彼女はわたしを心配してくれていたようだ。なんとなく、嬉しい。
「でもかっこいい人だったよねー。捺の彼氏かと思っちゃった」
「最後なんて、超イケメンスマイルだったじゃーん。まあ、彼氏だったら許さないけどね」
後ろで二人が何やら盛り上がっている。
「さゆり! 捺! 今度みんなで恋バナ大会するよ!」
「はいはい、ご自由に」
「二人も話すんだからね!」
ムキになる由美と冷たくあしらうさゆりを横目に、恋バナかぁと考える。懐かしい響きだ。中学時代、「恋バナ」という言葉がクラスで流行っていた。仲の良い友達同士で行われる、秘密の共有だ。わたしはそんな会話はほとんど経験がなく、恵美の話を聞いたことしかない。でも恵美は自分からは積極的に話そうとしなかったし、わたしもあまり話を振らなかった。
そういえば、恵美はあの頃の後輩の彼と、まだ付き合っているのだろうか。顔も名前も忘れてしまったが、背の低い、まだまだ子供っぽい顔つきの男の子だった。
「さゆりは彼氏いるもんねー。近況報告詳しくお願いしますよ」
「捺はさっきの先輩が怪しいなー」
楽しげな由美と早苗の声を聞きながら、恋愛の話も楽しいかもしれない、と思う。彼女たちとより仲を深められそうだし、それに、みんなの恋愛の話を聞いたらわたしも恋に前向きになれるかも、なんて密かに期待していた。
ただ、好きな人がいないわたしには話せることがない。池田くんの話なんてとてもできない。彼女らが興味を持った上田先輩のことでも話してみようか。きっと、それがいい。
それから、と考えを巡らせていると、ふと真田くんの顔が思い浮かんだ。昨日一緒に帰って、話していると楽しいし居心地が良いと感じた。しかしそれをうまく伝えるのは難しい。やはり、話すなら上田先輩だなと思い直す。……勝手に優劣をつけて、失礼なことだ。
まあ、何より、彼女たちが恋愛トークにわたしを入れてくれたのが実は結構嬉しい。変わりたいんだ。中学の頃のような、いつも誰かの陰にいる地味なわたしのままではいたくないんだ。
この高校で、少しずつ変われそうな気がしていた。
主要男キャラ全員の名前に「田」がつくのは、後になって気づきました。名前しか登場しないモブ男子も「田」だったので、もう病気だと思います。