第1話 真田くん
「二年一組、吉村捺です。去年も福祉委員でした。よろしくお願いします」
軽く頭を下げて席につくと、まばらな拍手が起こった。
去年の四月、クラスの役員決めの時、誰も立候補者のいなかった福祉委員に手を上げた。特にこれといった理由はなかった。誰もやらないならやってもいいかな、という程度だった。だけど一年間やってみて、さほど遣り甲斐も感じないこの委員会にまた立候補したのには小さな理由がある。
「二年生全員終わったな。じゃあ次、一年生お願い」
教卓の前に立って進行を務める委員長の上田先輩をちらりと仰ぎ見る。去年の最後の委員会の時に、彼が来年もまた福祉委員をやると言っていたのが理由であることは確かだ。
恋じゃない。ただの憧れ。去年の夏頃、長かった髪を肩まで短く切ったとき廊下ですれ違いざまに「似合うじゃん」と声をかけてくれた。それが嬉しかっただけだ。以来、髪は伸ばしていない。
一年生の自己紹介が進んでいく。今年は男子が多いな、なんて頬杖をつきながら考えていた。
「一年四組、真田弘樹です。よろしくお願いします」
聞き流していた一年生の自己紹介。ふと何か、引っ掛かるものがあった。
真田弘樹。聞いたことのある名前だった。
着席しかけている彼を見やる。黒縁の眼鏡に短髪、細身で身長も高い。顔立ちは全体的に整っているが、少しつぶれた鼻が愛嬌を醸し出していた。
顔を見ても、記憶と結び付くものはなかった。きっと、名前だけどこかで聞いたことがあったのだろう。
ふいに、席に着いた彼がこちらに視線を移した。目が合ってしまい、慌てて視線をそらす。
全員の自己紹介が済み、上田先輩が今年の活動計画の説明を始める。委員長の声を聞きながら真田弘樹について考えたが、結局何も思い出せなかった。
委員会が終わり、帰ろうと立ち上がったところで、上田先輩がこちらへ歩み寄ってきた。
「よう、吉村。おまえもまた福祉なんだな」
上田先輩から話しかけられたことが嬉しくて、自然と背筋が伸びる。正直な身体だ。
「べ、別に、先輩がいるから入ったわけじゃ、ないんですからねっ」
「真顔で言うな。演技下手くそかよ」
コツンと、握りこぶしで額を小突かれる。カアッと顔が熱くなるのを感じた。
「他の三年のやつら、みんな今年が初めてだからさ。吉村の方が要領わかってるだろうし、まあ、フォロー頼むわ」
「はい、任せてください」
今度は変な照れ隠しせずに、素直に笑って答えられた。
そこから数秒、不思議な沈黙が流れた。 先輩は何か言いたげだったが、どうして何も言わないのだろうと小首をかしげると、彼はゆっくり唇を持ち上げた。
「吉村、ちょっと相談したいことがあるんだ。メアド、交換しないか?」
そう言いながら制服のポケットから携帯電話を取り出した先輩を見て、心の中がざわつくのを感じた。さっきまでの、甘酸っぱさのあるざわめきではない。確かな嫌悪感があった。鞄をバッと胸元に引き寄せる。
「あ、えっと、すみません! 電車に遅れちゃうんで、帰らなきゃ。お疲れさまでした!」
「あ、おいっ」
呼び止めようとする先輩の声を無視して、小走りに教室から出る。そのまま階段を駆け降りて、昇降口でやっと息がつけた。
失礼な態度を取ってしまった。変に思われてしまわないだろうか。
連絡先を交換するくらい、どうってことないはずだった。だけど……。先輩に抱いてしまった嫌悪感が、まだ拭えない。憧れの先輩のはずなのに。彼は何も悪いことをしていないのに。
さっき、先輩から、好意を向けられていると感じた。自意識過剰かもしれない。先輩は相談したいことがあると言っていた。本当に、仲の良い友人には話せない悩みでもあったのかもしれない。それか、委員会のことか。けれど、どうしようもなく、嫌だったのだ。
中学時代、一度だけ同じクラスの男子と付き合ったことがある。向こうから告白されて付き合い、二か月で振られた。たった二か月だが、傷つくには十分すぎる仕打ちを受けた。
恋に臆病になっている、なんて言ったら、ヒロイン気取りと思われるだろうか。
下駄箱から靴を取り出していると、パタパタパタ、と廊下を走る足音が近づいてくる。
「あ、いたいた。えっと、吉村さん、ですよね」
足音の正体は、一年生の真田弘樹だった。
「これ、吉村さんのじゃないですか?」
彼の手に乗っていたのは、クマのマスコットのキーホルダーだった。中学生の時、親友とお揃いで買った物だ。……今はもう、親友と呼んでいいのかわからないが。可愛くて気に入っており、使わないのも勿体ないからずっと鞄に付けていた。
あわてて鞄を確認すると、いつもつけているところから消えていた。
「ホントだ、落としてたみたい。ありがとね」
真田くんの手からキーホルダーを受けとる。彼は、「よかった」と人懐っこい笑みを浮かべた。背はわたしより高いが、子犬みたいだな、と思った。
「それ、さっきの教室に落ちてて。委員長が吉村さんのだって言うから、追いかけてきたんです」
「そうだったんだ。本当に、ありがとう」
上田先輩。わたしのキーホルダーまで知っていてくれたのは、ただの偶然だろうか。
またなくさない内にと、キーホルダーを鞄に付ける。しかし、付けたそばから外れてしまった。
「あれ、どうして……」
「チェーンの留め具、緩んでるんですよ。ちょっと貸してください」
真田くんはチェーンを通すと、留め具部分を指先でいじり始めた。細くて長い、綺麗な指だった。
「はい、これでしばらくは大丈夫ですよ」
キーホルダーを鞄に付けてくれた彼は、またさっきの子犬のような笑みを見せた。
「ありがとう、真田くん」
礼を言うと、彼は少し驚いたようにわたしを見た。
「え、なんで、名前……」
「さっき自己紹介したじゃない」
「そう、ですけど……。学年も違うのに、よく覚えててくれたなって」
照れたように頬を掻く彼を見ていると、からかってやりたい気分になった。
「一年四組、真田弘樹。……でしょ? 覚えてるよ。だって、一目見たときから気になってたもん」
「え、それって……」
「嘘だけどね」
「……あああもう!」
両手で顔を覆って叫んだ真田くんの耳は、真っ赤に染まっていた。
とても、かわいい。
「やめてくださいよー! 俺、すっごい純情なんですからね!」
我慢できず、声を上げて笑ってしまう。こういう男の子、今まで出会ったことなかったな、と思う。単純に、後輩だからかわいいだけかもしれないが。
真田くんは、赤い顔のままわたしを睨み付けた。全く怖くない。
「うー、吉村さん! 電車乗り遅れても知りませんからね!」
まるで捨て台詞のように言った真田くんの言葉に、ギクッとする。彼は、さっきの上田先輩とのやりとりを見ていたのだろうか。不自然に先輩の前から走り去ったわたしを、見られたのだろうか。
「……吉村さん?」
動揺が表に現れていたようだ。真田くんは不思議そうにわたしの顔を覗きこんだ。
「え、ああ、電車。全然余裕だよ。四十分の電車だから」
「上りですか?」
「そう」
「俺も同じ電車ですよ。じゃあ、一緒に帰りませんか?」
もう少し彼と話したいなと思っていたわたしは、素直に頷いた。上田先輩とのやりとりを見ていたかはわからないが、何も言われなくて助かった。
「へー、吉村さんも高山中出身だったんですか。部活は何やってたんですか?」
帰り道の電車での会話の中で、真田くんと同じ中学出身だったことが判明した。名前に聞き覚えがあったのも、そのためだろう。決して、大きな学校ではなかったから。
「吹奏楽。パーカスやってたよ」
「パーカスって、打楽器でしたっけ。大太鼓とか?」
「そうそう。あと、木琴とかシンバルとか、他にもいろいろやってた」
「そうなんですか。ああいうのって、担当の楽器は一つに決まってるんだと思ってました」
「出番少ない楽器多いから、パーカスは一人がいくつか担当したりもするんだよ。わたしたち、人数も足りてなかったしね」
「へー、そうだったんですね。……ところで、大太鼓とかシンバルって、曲すごい盛り上げるじゃないですか。すごいかっこいいのに、ステージではいつも端っこなの、なんかもやもやしてたんですよね」
「……真田くん、本当、おもしろいね」
あの子と同じことを言うなぁと思い、クスッと笑ってしまう。あの子……中学時代の親友、恵美も同じことを言っていた。あれは、中学二年の文化祭だったか。吹奏楽部の演奏が終った後、上気した顔で、なっちゃんが一番かっこよかったよと言ってくれた。本当にかっこよかった、なのになんで一番端なの、よく見えないじゃない、と唇を尖らせて。楽器の並びには意味があるんだよ、と説明してやったのも覚えている。
「真田くんは? 部活、何やってたの?」
「俺、陸部です。長距離やってました」
「長距離……」
恵美も、陸上部で長距離だった。吹奏楽部として陸上大会の応援に行った時の、汗だくになりながらトラックを走っていた彼女の姿を今でも鮮明に思い出せる。いつものほんわかした彼女のイメージと違い、わたしの目にはとても凛々しく映っていた。
同じ長距離ブロックということは、真田くんも恵美のことを知っているはずだ。狭い世界だなぁ、とため息をつきそうになる。
「そういえば去年、市の駅伝大会で男子優勝してたよね」
母校の活躍を思い出すと、彼は誇らしげに胸を張った。
「はい、俺も走りましたよ。四区で、三人抜いたんです」
彼の自慢には、不思議と嫌みを感じない。まるで、ご褒美を待つ犬みたいだ。思わず、頭を撫でてやりたくなってしまう。
「へぇ、真田くんすごいんだね。細いのに体力あるんだ」
「それ、よく言われます。でも足とか、ちゃんと筋肉ついてるんですよ」
隣に座っている真田くんは、ほら、と自分の太ももと手のひらで叩いてみせた。躊躇いつつも、わたしもそこに触れてみる。指先に少し力を入れれば、すぐに硬い質感が伝わってきた。
「本当だ。硬い」
ね? と嬉しそうな顔。ちょっとからかっただけで真っ赤になっていたくせに、女子に太ももを触られても平気なのか。
天然というか、なんというか。本当に、恵美を彷彿とさせる子だ。
恵美のことを思いだし、心の中にどろどろしたものが流れ込んでくる。あぁ、嫌だ。高校に入学して一年が経ったというのに、わたしはまだ恵美にとらわれている。忘れろ。忘れろ。もう、恵美と会うこともないのだから。
「吉村さん、着きましたよ」
真田くんに肩を叩かれ、我にかえる。いつのまにか、地元の駅に到着していた。「ボーッとしてましたね」と笑われ、彼の後に続いて電車を降りる。
すると、待合室の方から女の子たちの笑い声が響いてきた。特に気にすることもなく普通に通り抜けようとする。しかし一人の女子高生が目に留まり、わたしは慌てて待合室から死角となる柱の影に隠れた。
恵美?
彼女たちは恵美が通う高山高校の制服を着て、そのうちの一人が恵美に似ていた。
心臓がバクバクと鼓動を打つ。嫌な汗が噴き出してくるようだった。
「吉村さん? どうしました?」
真田くんは不思議そうに首を傾げ、しかし待合室に目をやって「会いたくない人でも、いましたか?」と静かに尋ねた。
そっと柱から顔を出し、もう一度さっきの女子高生を見やる。彼女が顔をこちら側に向ける。体格や髪型は恵美に似ているが、顔は確かに別人だった。詰めていた息を吐き出す。
「ごめん、なんでもない」
真田くんはニコッと笑んで「そうですか。じゃあ、帰りましょう」とわたしの背中に触れた。触られても、嫌な感じはしなかった。むしろ、彼の笑顔に救われる。
「吉村さんはどっち方面なんですか?」
「えっと、東の方」
「俺は西なんで、反対方向ですね。中学のこととか、お話しできて楽しかったです。じゃあ、また学校で」
「あ、待って」
背を向けた真田くんに、わたしは反射的に声をかけていた。真田くんが振り返る。
「なんですか?」
「……いや、なんでもない。ごめんね、バイバイ」
彼は、「はい」と、ニコッと笑んだ。
薄暗くなってきた街の中、去っていく彼に、一瞬だけ恵美の背中が重なって見えた。
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