光編第三話:昔の話
これから裕二が話すであろう事が気になっていて寒さどころではなかった。
「五歳の頃だ。俺はバスに乗った。初めての一人旅だったよ。まぁ、山を越えるだけだったけどな」
何かを思い出すように裕二は首をひねらせた。
視界の端に、朝日が浮かぶ。まるで今日が世界の終りのような、そんな出鱈目な気がしていた。
「峠までに乗っていた人数は何人だっただろうな。運転手を含めて、七人か。俺ら世代の子供も何人かいて、男の子が一人、女の子が一人、そして俺だな。人数を覚えていたのはバスの中で数字のお勉強をしてたってのもある。ウサギは一羽、人間は一人って具合にな。一人、二人、三人ってテンポよく刻んでたよ。今じゃ単なる作業だがな、そう言ったちょっとしたことでも楽しかったよ」
「五歳か。まぁ、そんな時期なのかな」
「ああ、見るものすべてが面白かったよ。今も楽しいが、昔に比べるとやはり違うな。知らないってことは、日々が異世界の冒険なんだろう」
子供のころは確かに、毎日が楽しかったと思う。わがままなばあさんと遊んだり、追いかけられたりもしたが悪くない日々だった。もう二度と、戻ってくることのない輝かしくて危なっかしい毎日。
今はどうだろうか。あのころに比べて楽しいという感情は鈍くなってしまったのは間違いないな。
「話が逸れたな。見通しの悪いカーブでのことだ。前からバイクが突っ込んできたらしい。バスはよけきれず、二十メートルがけ下に落ちた。あの時、忘れることのない絶叫が聞こえただろ? そして、すぐに信じられない衝撃が俺たちを襲った」
そこで一度話を区切り、俺を見た。
ぴんと来ない。いや、話の内容としては言いたいことは何となくわかるんだけどな。見たことが無いからか、実感がわかないんだ。
「バイクに乗っていたのは光の兄貴だろ」
「ああ」
「そのバスには裕二が乗っていた」
「そうだ」
「もう一つ。まるで俺がそのバスに乗っていたみたいな口ぶりだったぞ」
「……おれはそうだと思う」
不思議な話だが、俺にはそんな記憶がない。ある一定の期間より前の記憶がないのならまだわかるんだが、その部分だけが無いっていうのはおかしいんじゃないのか。
「俺はその事故の記憶がない」
「事故当時の記憶だけ、ないんじゃないのか。俺は事故直後の時にお前が怪我しているのを知っているんだ。左手を怪我していた」
じっと俺の左手へと視線を向ける。
「怪我っていうのもおかしな話か。左手、なかったんだよ。肘から下がさ」
「……俺の左手はちゃんとあるぞ」
縫合したわけでもなく、そんな傷が残っているわけもない。綺麗な左手をしている。
「そうだな。おれも名前だけ同じで、違うやつかもしれないと思う。でも、右記啓輔という名前は当時の新聞を探してみればちゃんと出てくる。もしかしたらその時に顔も見ているかもしれないがおれのほうも良く覚えちゃいない」
同姓同名ってこともあるんじゃないのか。右記はともかく、啓輔という名前なんてごろごろ転がっていそうだ。
「記憶にない以上、俺が気にする必要はなさそうだが?」
「お前さんがいいんなら、それでいいと思う」
不思議な話だが、俺はそれより気になることがある。
「どうして、裕二がここに花束を置くんだ?」
被害者である裕二が、事故の原因となった相手に花を持ってくるのはどういう事だろう。
「俺は幼少の頃の事件が気になって、単独で調べていたんだ」
「おいおい、探偵かよ。笑っちまうな」
つい、茶化してしまった。
何か思うところが無ければ、そんな昔の事件にいちいちこだわったりしないはずだ。
「すまん」
「何、いきなり謝ってんだよ」
「似合わないとか思っちまったが、自分がまきこまれた事件だもんな。そりゃ気になって探偵みたいに調査してみるよな」
「そうだな。実際に調べてくれているのは探偵なんだ。俺は依頼をしただけ」
「え」
「じいちゃんが探偵なんだよ。夢川探偵事務所の夢川冬治っていうんだけどさ」
何となく聞いたことはあるかもしれない。
聞いたとしてもそれは、裕二との会話の中でだろうが。おそらく、興信所や調査会社と言った体で話を聞いたのだろう。探偵なんてフレーズを聞いて男が喜ばないわけがない。
「……聞いてもいいのか」
「何を?」
「今、どんな状況になっているのか」
気になることだ。
「知りたいなら、教える。ま、なんというか……結構危険な話なのかもしれない」
「どういうことだ」
単なる自己の話なのに、おかしなことを言う。
「詳しい話は別の場所で、二人きりの時にしたいんだ。誰に聞かれているかわからないからな」
裕二が俺とこうして墓地で出会わなければ、こいつからこの話を聞くことはなかったのかもな。開けた墓地に居るのは俺たち以外、かなり遠くに黒い服を着ている老婆ぐらいしかいなかった。
「そんなにやばい話なのかよ」
俺に近づいてきて、小声で言った。
「じいちゃん、妙な事に気づいたっておれに連絡寄越して行方不明になった」
「は? それ、本気で洒落にならないだろ」
事故からすでに何年経過していると言うのか。それでもなお、調べようとすると邪魔が入るとは妙な事だ。
「場所を変えようぜ」
いったい、バスの事故に何が絡んでいるのか。
俺らは近くのファミレスへと向かった。二十四時間営業中は伊達じゃないようで、既に朝食を食べに来ているお客もいる。
二人で中に入り、席に着く。いまどき珍しく、ウェイトレスがお冷を持ってきたが三人分だった。
「俺ら、二人っすよ」
「あ、そうなんですね。すみません。先ほど、お連れの方がいたような気がしましたので」
メニュー表を開く裕二とは対照的に、俺はコーヒーにしていた。
「食うもの、頼まないのか?」
「ああ、気分が悪い。光が彼女になってよ、徹夜で俺に落ち物ゲームを求めたんだよ」
「ふーん……光? 徹夜? 何、いつの間にか付き合ってたのか」
きょとんとしていた。
「ああ。色々とあってな。昨日からだよ」
「そっか、そっか。順調に行ったようでよかったよ」
他人の事なのに心底嬉しそうにうなずいている。
「光の奴、お前さんに好きだって伝えられなくてやきもきしてたんだよ。ほら、すみれちゃんもいただろ? それに、最近はリルマちゃんも一緒に居たし」
「そうだな。でも、それがどうかしたのか?」
別に俺がリルマと一緒に居ても何の問題もないと思うんだが。
「ん、だって放っておくとリルマちゃんと付き合いそうだったし」
「はは、ないない。あいつは口うるさい妹みたいなやつだから」
「クリスマスの時なんかはあいつ、風邪ひいただろ? ボーリングが終わったら想いを伝えるはずだったんだ」
へぇ、それは知らなかった。
「光の事、大切にしてやってくれよ」
「……そのことなんだがな、綺麗にまとまっているってわけじゃないんだよ」
俺が断ろうとしたところを無理やり取り付けられた。のらりくらりとしていた俺の性格が悪いんだろうが、はっきりと断れず相手の要望を飲む形になったのだ。
「どういうことだ?」
疑問を感じている裕二に俺の心境を伝える。
俺の話を聞き終えた後、眉を八の字にして上を向いた。
「それは……どうしたことかな」
俺が逆の立場だったらどうだろうな。普通に、嫌だ。相手にそこまでする価値があるとは思えないんだよ。
「ようは俺の気持ちの問題だからな。いつか光に嫌な思いをさせるかもしれない」
「何言ってんだ。あいつにそう言わせている時点で、充分嫌な思いさせて、傷ついてるだろ」
「そんなのを全く感じさせないほど明るかった」
「馬鹿野郎、きっと笑顔の裏じゃ、馬鹿な振りしてきっと泣いている……わけないな」
青木だからなぁと裕二はため息をついた。
「……ま、それでも傷つけてもいいと思うぞ」
「はぁ?」
真意を測りかね、俺は裕二を見る。
「お前さんが光の事を心配しているってことは、二人にとってマイナスじゃないだろ。啓輔に必要なのは、もっと光を知ることだよ。興味をちゃんと持てば、態度も変わる」
「知ったような口をききやがって」
俺が言える資格を持ち合わせちゃいないんだがね。
「そうだな。おれも光の事はよく知らない」
「なんだそりゃ。手のひら返しが早いぞ」
「別に、知りたいってわけでもないからな。ただ、啓輔はどうだ? あいつの態度や接し方に距離感がつかめていない。立ち位置さえつかめれば困惑することも少なくなると思う。適度な距離感が必要なんだよ。ほら、あれ。有名な奴だよ。なんだったかな、槍衾のジレンマ」
これほど伝わってこないジレンマは初めてだ。それは何かの陣形の一つじゃないのか。
「……とりあえず、そのアドバイスに従ってあいつに興味をもってみる」
そうか、それはよかったと裕二は肩をすくめて見せた。確かに、言われてみれば俺に必要なのは適切な距離感なのかもしれない。扱い兼ねる相手だと言う認識が強い。
「それで、裕二がしたかった話は?」
「あ、忘れるところだった」
裕二はポケットから手帳を取り出した。よく使い古された、紫色の手帳だ。
「今日はちょうどあの事件が起こった日なんだよ」
なるほど、という事はやはり命日か。
「ま、おさらいだ。十四年前の今日、羽津山の山道でバスが崖下二十メートル下に落ちた。原因は、対向車線を走っていたバイクがはみ出てきたため、バスの運転手がハンドル操作を誤ったこと」
「うん」
「バイクの運転手は死亡。名前は青木亮介。当時十七歳だな」
「光と年齢が離れているな」
「青木家は五人兄妹。長男が青木亮介。その末っ子が青木光だ」
光が俺らと同じ年代なら五歳か。まぁ、五人兄妹ならそんなものかもしれない。
五歳以上年齢が離れていると、何を話していいかわからないって友達が言っていた。年齢の差が広がれば広がるほど、コミュニケーションを取りづらいんだと。
光が長男を敬っているのは短い間に良くしてもらったのだろう。これまで、歳が近いと思ってきたが、結構離れているんだな。
「話を進めるぜ?」
「ああ」
「バス側に死者は出なかった。言い方は悪いが、運転手ですら大けがをしたが死ななかった。俺は二十メートルの落下がどれほどの威力を持っているのかを調べていないが、それについて車体状況から見ても奇跡的だと思ってもいいと言われた。さすがに、けが人は出たりしたけどな」
「裕二はどんなけがをしたんだ?」
「右腕の骨折だ」
「ふぅん?」
二十メートルから落下で骨折だけ。具体的に言うとビル何階分の高さだろうか。
「次に、どうしてこの事件に違和感を持ったかだ」
手帳のあるページを開いて、俺に見せる。
そこに描かれているものはおそらく山道だ。U字を少しだけ伸ばした急なカーブっぽい。
バス、進行方向の矢印にバイクと、バイク側の矢印、ある丸い点が付けられていた。
丸い点以降、バイクの矢印は右側、つまりバスの斜線へとはみ出ている。
それだけではない。バスは本来なら右側に避けるだろうに、右への矢印後すぐに左へ向かっている。
「この丸、動物か何かか? そいつのせいで、青木の兄貴は反対車線へ行ったってのか」
動物が飛び出てきて、スピードを出していたバイクは反対車線へ。そして事故ったようだ。
「警察側の見解もそうだった。いきなり現れた動物に、バイクがよけようとして対向車線へ。それが理由で、事故が起きたと」
裕二は、丸い箇所を指でたたくと言った。
「しかしな、俺は見たんだよ」
「見たって、何を?」
「……丸の場所にいたのは少女だった。バスの運転手も、相手が動物なら躊躇わずに右側へと向かったかもしれない。しかし、人間ならどうだろうな。結局、迷った挙句に落ちたのはバスとバイクだ。バスの運転手も最初は少女だと言っていたが、すぐに動物だったと言ったそうだ」
それが事実なら、おかしいことになる。
いったい何があったのか。
「もう一つある。俺も見たって言ったが、その少女はバスの中にもいた」
「は?」
「俺と同じ子供は、男の一人と女の子一人。かすかに見えた少女はそのバスの中にいた女の子に似ていたんだよ」
「よく覚えてるな」
「可愛かったからな。窓の外を見たとき、双子かと思ったよ」
女好きの裕二は子供の頃からそうだったらしい。これほど信用できる情報もなかった。
「だが、俺の記憶が事故のショックで混乱している可能性もある。バスの中にいた少女が、窓の外にいたという錯覚だな」
写真を一枚、テーブルに置くと滑らせるようにこちらへ押してくる。
「事故を起こしたバイクと同型のものだ」
「ふむ」
「お前さん、バイク乗っているから詳しいんじゃないかと思ってな」
「そこまで詳しいってわけじゃないが……このタイプはオフロードだな」
「バイクはそこまでスピードを出していたわけじゃないそうだ」
「ふむ……」
峠を攻めていたわけじゃなくて、山に入って道なき道を走っていたのだろう。ただ、普通はそう言う危ない場所を通るのならペアを組みそうなものだ。
「ま、おかしいって言っていたのは青木亮介の友達もそうだったが、こっちからは得られる情報がなかったよ。何せ、バイクに乗っていた事自体は親しい友人しか知らなかったようだしな。答え自体わかっていないし、今はじいちゃんも連絡が取れない状態。真相がわかったらまた話すよ」
そう言って裕二は立ち上がる。俺も立ち上がることにした。
珍しく奴が俺に奢ってくれて、店の前で別れる。
「じゃあな」
「おう」
その後ろ姿がなんだかとても薄く見えた。歩くたびに、霞んで見えた。
このまま消えちまうんじゃないかと思って、たまらず裕二の名前を呼ぶ。
「裕二っ!」
俺の大声は通りを歩いている人たちにも聞こえ、当たり前な事が、きちんと裕二の耳にも届いたらしい。少し驚いた表情で俺を見ていた。
「大声出してどうした?」
しかし、声をかけたところで何か話すこともない。
「……なんでもない。がんばれよ」
「ああ、ありがとよ」
首をすくめて笑ったが、途中で真顔になった。
「そういえば俺もお前に聞きたいことがあるんだが……いいや、また今度にしよう」
右手を軽くあげて、裕二は去っていった。
別れて俺は自分のアパートへと戻り、そのまま寝ることにした。疲れていたからか、特に何も考えることなく眠りの世界へと引きずられていった。
どれほど眠っていただろうか、スマホが振動する音がして目が覚めた。スマホに出る前に時刻を確認する。
午後四時過ぎ。結構寝てしまったようだ。
「もしもし?」
「啓輔? 私だけど」
「光か」
「うん、あのね、これからデートしないかなって」
眠っていなかったら、俺はこの提案を却下していただろう。
裕二と会っていなくても、断っていたかもしれない。今の関係はどこかいびつなんじゃないかと俺は考えている。
この俺の考えが変わらない限り、どこかでずれが生じ、破滅的な終わりを迎えそうだ。
「……いいぞ」
俺は裕二が言っていたジレンマの話を思い出しながら、外出の準備を始めるのだった。




