リルマ編第四話:外れの話
頬を支えていた右ひじが離れたおかげで、俺は盛大に上半身をふらつかせて目が覚めた。
「んがっ」
俺は映画館で眠りこけていたらしい。かすかな頭痛を覚えて立ち上がる。すでに映画は終了していたようだ。いったい、いつから眠ってしまったのだろう。
上半身を軽く捻ったりして調子を整える。頭の中で、腸の調子を整えると言うフレーズが浮かび、その後に校長絶好調という言葉が似て非なるものとして立候補してきた。
その後、映画館の広い廊下へと出ると、誰も人がいなかった。
「よく寝てあったんで、起こさぬようにしやったよ」
受付のよぼよぼの爺さんはそういって笑った。どこの方言だろうか、そもそも、今のは確かに言葉に聞こえたが機械の動作音が聞こえた気がしたんだ。
「最終時間にやぁてきて、ねぃる大学生はよくいる。また来てぃくれや」
一瞬、世界にノイズが混じり、ぶれて受付の爺さんが女性に見えた気がした。
「どうかしぃあ?」
「あ、いえ……すみません。何でもないです」
「ぇいがはよかっちゃろ?」
いったい何の映画を見ていたのか思い出せなかったが、さっさと家に帰った方がよさそうだ。
今の季節は何だったかな。春だったか。いや、夏かも……ああ、そう、冬だ。
脳が認識すると急に寒くなってきた。昏く、赤い夜の空から微かに灰のような雪が舞い散り始める。
身体を温めるため、軽く走りながら家へと戻る途中、影を見つけた。
「えっと……」
誰かの名前を呼ぼうとして、一体なんだったのかを思い出せない。
立ち止まった俺に、影は気づいたのか、頭の部分をゆっくりとこちらへ向ける。次に、両手両足をこちらへと向けた。
気づかれたのだ。体に悪寒が走る。
逃げても無駄だ、多分、ここではずっと追いかけてくる。
じゃあ、どうすればいいのか。対処法を考えている間に、影は一歩、また一歩と近づいてきていた。
逃げられるわけじゃない、それなら、相手と戦うしかない。
まるで犬のような走り方で人型のそれは襲ってきた。虚無が覗く口を開き、俺へぶつかってくる。俺はそれから身を守るように目をつぶっていた。
中身の詰まった肉が壁にぶつかる嫌な音がした。いつまでたっても衝撃が襲ってこないので、目を開く。
「え」
影は壁にぶつかって地面に横たわっていた。いったい、何が起こったのだろうか。誰かが助けてくれたのか。いつものあいつが、俺の事を。
周囲には俺以外、誰もいない。
いつの間にか俺の右手には大きめの影の肉切り包丁が握られていた。これまで俺が見てきた武器とは違って影が滴っている。
色は黒一色で、まるで、何かの血のようだった。闇より黒い大地に吸われ、滴った影は消えて行く。どうして手に持っているのか不明だが、俺もこの危機を乗り越えるだけの可能性を手に入れた事になる。巨大な包丁を構えると、影は立ち上がる。そして、俺の方を見ることなく走って逃げ去ってしまった。
当面の危機が去ったことに気づいて、俺はほっとしてその場に座り込んでしまった。
「まったく、ただ図体ばかりがでかくなっただけじゃないか」
後ろから、とても懐かしい声が聞こえてきた。
もう二度と会えない相手だ。例え俺が死んでも、会う事は適わない。地獄があれば、あの人は地獄に落ちているだろうからな。
「相変わらず、失礼なことを考える小僧だよ。あれだけ影食いには近づくなと釘を刺していたのに、あいつにも頼んでお守りまで持たせていたのにねぇ」
「……ばあちゃん」
俺は立ち上がって後ろを振り返る。意地悪そうなばばあが立っていた。その姿を見て、俺は化け物でも見た気分だった。
「そう言うのなら、ばあちゃんがちゃんと説明してくれればいいのに。俺はばあちゃんが駄目だって言ってくれていたら調べたり近づいたりしなかったよ。今だって、知らずにのほほんと日々を過ごしてたかもね。でも、ばあちゃんがどうしてここにいるの?」
「今のお前は私がいる理由を忘れているだけだ。とても大切なものを見つけたんだろう?」
ばあちゃんにそう言われて俺は考える。確かに、何かを得たはずなのだが、答えは出てきそうにない。
「まぁ、お前もいろいろと私に言いたいことがあるだろうからねぇ。屋敷に来るといい。お茶ぐらいは出してやるよ」
いつだったか、祖母が外出した時について歩いたことがあった。その時は俺を置いていくスピードで歩いていた(走っていないのに見失ったのが気味悪かったな)が、今では見失う事はない。
その背中はあまりに小さく、そして儚げに見えた。一歩歩くことに存在が揺らいでいる。
「とか、余裕ぶって考えながら歩いていたらさっそく見失ってしまったっ!」
立ち止まって頭を抱えるとばあさんの声が聞こえてきた。
「バカだねぇ、最初からお前の後ろにいたんだよ」
いつの間にか俺はばあちゃんを追い抜いていたらしい。これも、成長した証だろうか。
「ちゃんとついてくるんだよ。ここにはお前が化け物としているからね」
よくわからないことを言うのが俺のばあちゃんだ。どうせ、答えを求めてもいつかのようにはぐらかされて終わりだろう。
「わかった、ついていくよ」
俺はばあちゃんの後ろ姿を再度追いかけ始める。
歩いていると、両脇に違和感を覚えた。左右を見ると、ばあちゃんが二人に分かれていた。
「え」
前を歩いているばあちゃんは一人だ。そして、俺の左右には一人ずついる。
ふと、後ろを振り返った。数えるのを放棄したくなるほどのばあちゃんが歩いてきていた。
いじわるなばばあは一人で充分だ。
「こら」
「あいたっ」
後ろを振り返る。
屋敷の庭に立っていた。俺は歩いていなかった。大きな包丁を手に持って、祖母の屋敷にいたのだ。
「人の話を聞いているときに後ろを振り返るなんてどういうしつけを受けてきたんだい?」
俺の前にはばあちゃんともう一人、若い女性が立っていた。どこか病弱そうな印象を与える相手だった。
「あ、はるさん」
そう、この人はばあちゃんの親友だ。俺と婆ちゃんが屋敷で話しているときによく傍らに立っていた。幼少の頃の俺はそれに気づいていたはずなのに、ずっと見えないと思い込んでいた。
「こんにちは。啓輔君」
「こんにちは」
素直に挨拶すると笑っていた。婆ちゃんよりも年上なのに俺より少し年上にしか見えない。
「相変わらず啓輔君はいい子よねぇ。それに比べてすみれったら、あの子はよそ様に迷惑までかけて。しかも、謝りたくないって出てこないのよ」
「お前の孫にふさわしいじゃないか」
ばあちゃんがぞんざいな口調でそんなことを言う。
「あらそう? しづちゃん程じゃいけど」
「そうやってすっとぼけるところも似てそうだよ」
やれやれとばあちゃんは首を振っていた。普段、一人でいる印象が強いだけに、仲良くしている所を見ると嬉しかった。
「啓輔君はね、今自分がどんな状態になっているかわかってる?」
「え? お二人と話していたんでしょう?」
今日、俺は久しぶりにこの屋敷に帰ってきてばあちゃん達と話をしている所だった。
「違う」
ばあちゃんは首を振った。
「私とこいつをみて、何とも思わないのか」
「えっと……」
俺は二人を見比べて、答えを出せなかった。
「さぁ?」
いったい何が違うと言うのか。いつもの二人だ。この前だって二人は友人らしく黒の手帳の本来の使い方を俺の父さんと話していた。あの手帳は本来、力と制御が揃ってこそ意味がある。春さんが新しく作り上げた際に手違いで力と制御が分けられてしまったんだ。
「啓輔、今のお前は狂っているんだ」
「は? 俺は、正常だよ」
「そうだね、お前は正常だ。だがそれは、異常な事だ。狂っているという事なんだよ」
相変わらずこのばあちゃんはわけのわからないことを言う。俺が中学生になった時も、学園に入った時も、大学に入った時もおめでとうの一つもなかったしな。
「啓輔君、ここの居心地はどう?」
「いいですよ。好きな場所ですから」
幼少の頃より過ごしてきた屋敷だ。悪いわけがない。ばあちゃんはくそばばぁだが、俺はそんな婆ちゃんっ子だ。カゲノイとしての力はトップクラスだし、部下を率いて問題解決に向かう姿は風格すら漂わせている。
「それより戻らないといけないのを忘れているだろう?」
「どこに? ここ以外に、俺が戻る場所なんてあるの?」
よく考えてみれば、俺の婆ちゃんは既に故人だ。
幼少の頃に巻き込まれたバスの事故で俺の両親と共に亡くなっている。いや、待て、そうだったか?
元から俺に祖母なんて存在はいなかったんじゃないのか。そもそも、俺は右記啓輔という人間だっただろうか。この世界に時折入るノイズのような存在。もしくは、誰かが書いた落書きの一つかもしれない。
「しっかりおしっ」
「っ」
婆ちゃんの一喝で俺はこれまで自分が壊れかけているのを実感した。
「ほら、迎えが来た。あれが今のお前の忘れちゃいけない日常だよ」
振り返るとそこには影がいた。
両手を広げ、徐々にこちらへと歩み寄ってくる。それを見ていると、頭が割れるように痛くなるのだ。右手で頭を支えようとしたとき、肉切り包丁が握られていることを思い出した。
相変わらずそれは、影が滴っている。
「もちろん、それを拒むこともできる。道はもう変わらないし、誰も咎める事はないし、この世界が気に入ったのなら好きなだけいるといい」
「えっと……」
悩んだ。
悩むべきことではない。
俺は、鋭利な肉切り包丁を捨て、影を受け入れることにした。そんな俺の姿を見て、珍しく婆ちゃんが笑っていた。
婆ちゃんの事だ、例え俺が影を殺したとしても、笑っているんだろうな。
「いいかい、啓輔。お前はこれからも痛みを受けて逃げ出したくなることがあるんだろう。その時は、またここに逃げてくるといい。お前の中にいる私は、ほんの少しだけ、優しいままでいてやるから」
本当だろうか。それは嘘だと思うんだ。
「迎えに来たわよ、けーすけ」
俺が次に目を開くと、俺の腕の中にはリルマがいた。
「そっか、こんなところまで迎えに来てくれたんだな」
こんな世界に居ても、リルマは来てくれるんだ。
「うん、けどさ、けーすけに大事な事を言わないといけないの」
「なんだ? 好きだってか?」
抱きしめあって愛をささやくなんてロマンチックじゃないか。婆ちゃんに見られながらというのがちょっとあれだが。
「それはまぁ、好きなんだけどさ」
歯切れの悪いリルマを見るのもなんだか久しぶりな気がするよ。最近は美紀や白井が解説してくれるようになったからな。
「で、言わないといけない事ってなんだよ」
「戻る方法がわからないの」
甘い雰囲気は崩れ去ったのは確かだ。
「……なるほど、そいつは大変だ」
ふと、頭にミイラ取りがミイラになると言う言葉が浮かぶ。
「相変わらず冷静な反応ね。もしかして、帰る方法がわかるとか?」
「いいや。まったくわからん」
これが王道なら、この世界で目覚めた場所が実は異世界をつなげる入り口だったとなる。もしくは、この世界を牛耳る悪の魔王みたいなやつを倒す、だ。
「帰る方法? 簡単さ。私を倒せばいい」
声のした方へと視線を向ける。そこには細い線の影がいた。なるほど、魔王だ。この影がいったい誰なのか、俺は思い出せそうでいて、もう思い出すことが出来なくなった。
「そうなの? それじゃあ、倒してやるわ」
「もっとも、そう簡単にやられはしないけどねぇ」
ひひひひ、まるで魔女みたいに笑う影は悪者のようだった。
リルマが右手をふるう。しかし、影の太刀は姿を出さない。
「って、そうだった。まだ出せなかったんだ」
素手で挑むには影は強すぎる相手だ。生半可な力では、あの影を倒すことは出来ないだろう。
「……リルマ、これを使えよ」
「え?」
俺はいつの間にか右手に握っていた影の滴る肉切り包丁を差し出した。
「それさ、邪悪な何かを感じるんだけど」
不安そうな顔で見つめてくるリルマに首を振る。
「気のせいだ。そう見えるだけ。それにさ、力にいいも悪いもないさ。誰が使うかによって決まる。それに、これは必要なことだよ。リルマは一度、体験しているんじゃないのか?」
「……そうかも。その時は拒絶したかな」
すみれに対して影食いをしたとき、リルマは同じような世界を見ていたはずだ。
「じゃあ、今度はもらうね」
「ああ」
俺から肉切り包丁を受け取ると、包丁の姿が変わる。
見慣れた黒い刀がリルマの右手に現れ、影食いリルマは目の前の影を切り裂いた。いつものような断末魔は聞こえず、うっすらと影は姿を消していく。
「これでよかったんだよな」
その瞬間に言いようのない喪失感に襲われながらも、元の世界に戻るために正しいことだと根拠はないがそう思えた。
「あ、これ帰れそうじゃない?」
リルマの声で、俺たち二人の身体から光の粒子が出始めていることに気づいた。
「そうだな」
「これで終わりじゃないもんね。まだ、お姉ちゃんの次のテストに合格しなきゃ」
「そうだった。ここはまだ道の途中だった」
それが終わったら一度、ばあちゃんの墓参りをしよう。
俺は目を閉じて、もう二度と自分がこの世界にやって来られないことにほんの少しだけ寂しさを感じるのだった。




