リルマ編第三話:潰えぬ希望と明日への支え
リルマが枯渇という現象を迎えた次の日、彼女は帰らずに俺の部屋で朝を迎えた。一日中俺の胸に顔をひっつけて泣いており、泣き疲れたのかそのまま寝ていたのだ。その後はイザベルとリルマを同じ布団に突っ込み、白井は黒い騎士にやられたためか、そのまま寝ていたので放置。俺はどてらをかぶってこたつで寝ていた。
結局、祝勝会の雰囲気じゃなくなっちまってたな。
朝飯の準備をしていると、隣部屋の扉が開いて少女が出てきた。
「ママ、朝ご飯は?」
「……ベルちゃん、まずは顔を洗ってきなさい」
イザベルの奴、完全に寝ぼけてやがる。
「はぁい。今日のママの声、いつもより野太い」
「あらやだ、ママはいつも通りよ。そんな事より、早く顔を洗いに行ってきなさいな」
「ふぁーい」
白井はつい先ほど起きて、体調も戻ったとのこと。朝の散歩のついでに近くのコンビニへ牛乳を買いに行ってもらった。
「ただいま戻りました」
「お帰り」
器にシリアルを入れて牛乳を入れ、三人で食事をする。普段は一人で朝飯を適当に食っているので、誰かと一緒に飯を食うのは珍しい。
「たまにはこういうのもいいなぁ」
ぽつりとそんな言葉が口から出ていた。俺とリルマだけの二人なら彼女の隣にずっと座っていただろうが、他の連中がいる手前、それは出来ない。
「ですね」
「うん」
手軽で食べやすい。冷えるのでホットミルクにしたのが正解だったようだ。
「リルマさんはまだ寝ているんですね」
「ああ、昨日はずっと泣いてたから疲れてると思う」
あんな子供みたいなリルマ初めてだ。これまで追い詰められても泣いたことなんてなかった。それだけショックを受けたのだろう。
「無理やり啓輔さんが迫ったんじゃないんですか?」
「……おい、真面目な話だぞ」
「失礼しました。それで、私が寝ている間に何があったんですか」
肩をすくめて白井は俺を見る。
「枯渇って知っているか?」
そういうとああ、といって寝ているリルマの方を見た。
「影食いリルマさんは居なくなったんですね」
残念がる口調で白井は朝食を掬う。
「戻す方法ってないかな」
「枯渇は……難しいですね」
カゲノイながら、影食いの事に関してもそれなりに詳しい白井が眉根を寄せている。
「本来なら、そうならないように影食いは気を付けないといけないんですよ。全力以上を出し切らないようするのが当然ですから」
「戦っているときにやばい、これは想像以上の敵なり。限界超えなきゃ勝てないわってなったらどうするんだよ」
絶対あるだろ、そう言うときってさ。
「だから影食いが不意打ちや一撃で相手を倒すことにこだわるのに通じています。相手に反撃を許すことなく、初手で敵を倒すことの重要性ですね」
「なるほどね」
「ママ、ミルク足して」
「はいはい」
「んー、これ冷たぁい」
いまだ寝ぼけている低血圧のご要望にお応えしてから俺は内心ため息をついた。
その後、ようやく完全に目覚めたイザベルと白井は枯渇について対策がないか、それぞれ調べてくると言って部屋を出ていった。
部屋の中は俺と眠っているリルマだけが残された。響くのは時計の秒針が動く音だけ。ゆっくりと時間が過ぎていく。そのことがもどかしかった。
リルマにとっての影食いは、どれだけ心を占める割合が大きいのだろう。それを失った時のダメージはどれほどか。
影食いではない俺には想像することしかできない。俺には俺の、やるべきことをやるしかない。
「……今のうちに家事でもするかな」
リルマを起こさないよう、まるで忍者のように家事をやっておいた。どうせなら寝ている間に妖精さんがやってくれるといいんだけどな。
結局、リルマが目を覚ましたのは十一時ごろ。ちなみに学園の方は美紀が学園に連絡をしてくれたようだ。美紀の方はこれまで学園に何と言って休んでいたのだろう。
「けーすけ」
「なんだ」
よろけた足取りで両手を突き出してくる。そのまま近づいてやるとまた、俺の胸に顔をうずめて肩を震わせ始めた。
もう涙は出ないようだが、ずっと肩を震わせている。
状況を打開する何かが思いつけない、見つからない以上、俺はリルマを励ましてやれない。
「……よしよし」
リルマの頭を軽くなで、好きなようにさせておいた。撥ねつけられるかもと思ったが、力なくそれを受け入れている。寝起きの金髪だが、髪質は悪くないところを見るときちんとケアをしているらしい。つい、場違いな事を考えてしまうのは俺がリルマの問題に上手く入っていけていないからだろうな。
相棒とか友人とかそう言った理由じゃなくて、リルマの事を見ていられなくなった。
これまで真面目にやってきたのに、枯渇という現象が影食いとしての終わりだと思いたくない。
リルマは枯渇の事を知らなかったようだが、あの試験は仕組まれていた気がする。もとから全力以上を強要されていたのかもしれない。
一時間ほどリルマの好きなようにさせていると、誰かのお腹が鳴いた。
この部屋には俺とリルマしかいない。俺じゃないなら、リルマだ。
「お腹、空いているだろ? 何か食べるか?」
「……食べる」
別にリルマは病気ではない。ちょっと疲れているだけだろう。しかし、なぜかおかゆを作ってしまった。
「熱いから気をつけろよ」
「うん……あつぅっ」
それ以上何か言うこともなく、リルマはおかゆを平らげてまた布団のある和室へと向かった。リビングとは引き戸で仕切られている為、様子を見ることはすぐにできる。
「寝るのか?」
「うん、駄目、かな? なんだか頭がぼーっとしちゃって。身体が重くてね」
掛布団から顔を半分だけ出して聞いてくる。可愛いじゃないか。
「別に、いいぞ。疲れているときはしっかり休んだ方がいい」
精神的に追い詰められているときでも、睡眠と食事は絶対に取っておいた方がいい。実際に体験してみると、そのありがたみがわかると思う。
たとえ眠れなくても、身体を休めることは大切だ。
「うん、ありがとう……けーすけの布団、いい匂いがする」
そういってすぐさま寝息を立て始める。
そうだな、その通りだと思うよ。お前が今寝ている布団は白井が寝ていたんだ。
「白井って、いい匂いがするのか」
それは新たな発見だった。今度嗅いでみようかな。
多少、悩んだ末にテーブルの上に書置きを残し、俺は晩飯の買い出しに出かけた。もしかしたら白井とイザベル、美紀も来るかもしれないから人数分の食事が作れるよう準備だけはしておくとしよう。
近くのスーパーへやってくると謎の美女Hと出くわした。
「あ」
「よぉ、謎の美女H」
「くはぁっ、なんであたしはあんなことを……」
青木、人は後悔を経て大人になるんだよ。
食材を買って帰ろうとすると美女Hがついてきた。
「ねぇ、遊びに行っていい?」
「今日はちょっとダメだな」
「ちょ、ちょっとだけ。ほんのちょっとでいいから」
「まぁ、いいけどさ」
影食いの事とかは話さないようにしよう。説明するのは面倒だし、元気のないリルマをあまり他人に見せたくはない。
「……やっぱり部屋の中は駄目だ。一度荷物を置いてくる。どこかに行こうぜ」
「わかった」
適当なところで切り上げて家に帰ろう。あまり遅くなると残していく方としては心配だ。はなっから断ると美女Hは面倒な奴に変身するからなぁ。
「ちょっと待っていてくれよ」
荷物を中へと運ぶ時、リルマが上半身を起こしていた。
「起きたのか」
「うん、ごめん。いろいろと心配かけちゃって……ずっとここに居ちゃ邪魔だよね?」
顔を半分だけ布団にうずめてこっちを上目づかいに見てくる。なんだかその仕草が可愛すぎて死にたくなった。
「ばぁか、気にし過ぎだ」
「そう?」
「おう。リルマが好きなだけここにいていいぞ」
「……ありがと」
「く」
「く?」
変な声が聞こえたのでそちらを見ると青木が入ってきていた。寝ているリルマを見ている。
「くけーっ」
「あ、おい、青木」
出て行ったっきり青木は戻ってこなかった。
「なんなんだあいつ」
「さぁ……?」
謎の美女の次は謎の怪鳥か。忙しい奴だ。
まぁ、本当に用事があるのなら落ち着いたら戻ってくるだろ。
「あの、けーすけ」
「腹が減ったのか?」
「ううん、えっと、シャワー借りていいかな? 汗臭くて」
「シャワーと言わず、風呂を使っていいぞ。ちょっと待ってろ、準備してくる。リルマは横になってるといい」
「うん」
風呂の準備を終えるとリルマはそのまま風呂へと向かう。水の音が聞こえてきたところで気づいた。
「あ、替えの下着がないな」
白井に連絡して下着を買ってきてもらう手筈を整える。
あいつは、なんだかんだで頼れるお姉さんだ。
「ま、朝飯食う時よりは落ち着いてきたか」
思った以上にリルマは心が強いんだな。俺だったら、どうなったんだろう。案外、しょげてそのまま一週間は飯も口にしなかったかもしれないな。
これまでできていたことが急にできなくなるって、それほどショックが大きい事だろうから。
「ただいま帰りました」
「おかえり、買ってきてくれたか」
「ええ、ばっちりです」
よかった、ふざけていないらしい。
「特別にえっちぃのを買ってきました」
「……今日の白井は普通だと信じていたのに」
誰だよ、頼れるお姉さんだと幻想を抱いたのは。
俺の顔が変わったことに気づいたらしい。詐欺師みたいな笑みを浮かべていた。
「嘘ですって、安心してください。昨日、あんな一撃もらったのでこんなことを言うんです。体調がすぐれないんですよ」
絶好調だと思ったが、これでも不調だったのか。
「悪いな、無理を言って」
「気にしないでください。ほら、上はフリーサイズのスポーツブラに下はクマさんプリントです」
あの年齢でクマさんはどうなの。あと、上もリルマのサイズだと入らないんじゃないのか。
「一言、どうぞ」
「コメントに非常に困る。ボケなのか真面目にチョイスされたのかわからない」
「じゃあ、私はちょっとお休みします」
そういってさっきまでリルマが寝ていた布団へと入り込む。
「よく考えてみれば、啓輔さんの布団なんですよね。ちょっと汗のにおいがしますけれど、結構いい匂いがしますね。それになんだか、温かい。恥ずかしいですけど、啓輔さんに包まれているみたいです」
白井、その匂いはリルマな。
それと、さっきまでそこで寝てたからまだぬくもりが残っていると思うぞ。
リルマに包まれると温かいのか。
「ん、なんだかこのやり取り前にもやらなかったか」
晩飯の準備をしているとリルマが風呂から上がってきたらしい。カーテン越しに近づいて声をかける。
「リルマ、白井に下着を買ってきてもらったから手を出してくれ。渡すから」
「う、うん」
手渡すと音がしてきてリルマは黙り込んだ。
「どうかしたか」
「ぶ、ブラが、ううん、上が小さい」
やっぱり、そうだよなぁ。それなりにあれも結構大きかった気がするんだが、リルマサイズはその上をいったのか。
絶好調の白井なら間違えるなんてないだろうから、やっぱり調子が悪いんだろうな。
「えっと、パーカーみたいなもの持ってない?」
「あるぞ」
「それ、借りていい?」
「待ってろ。すぐに持ってくるよ」
タンスからパーカーを取ってきて中へと渡すとすぐにカーテンが開いた。
「お、お待たせ」
カーテンから出てきたリルマはぶかぶかのパーカーから白く伸びた足を惜しげもなく見せてくれていた。いい具合にお尻まで隠してくれていた。
見えそうで見えない、うん、この引き込まれる魔性の何か。いいもんだな。
「まだ寝るか?」
「ううん、大丈夫。頭がすっきりしたから」
リルマの言う通り、昨日の疲れはなさそうだ。それに、悲壮感は少しだけ鳴りをひそめていた。
「そうか、それはよかった」
和室の方からで向かい合って座る。こたつのなかで互いの足がぶつかった。
なんだか気恥ずかしかった。そう感じるのは俺だけか。
「あ、ごめん」
「こっちも、ごめん」
お茶をリルマの前に置いて、俺は紙とペンを取り出す。
「まず、整理しよう」
「整理?」
「おう、状況の整理だ」
そう言うと嫌そうな顔をされた。嫌な事に目を向けることを人間は嫌がる。俺も嫌だ。ただ、目をそらすことが癖になると、自分の根っこからもいずれ目をそらすんじゃないかと俺は思う。
もちろん、こんなこっ恥ずかしいことはリルマに言えない。何それと鼻で笑われそうだからな。
「リルマ、あまりに早すぎると思うが事実は早めに受け入れよう。どんなに辛いことがあったとしても、お前には俺がいる」
「……わかった」
「今、リルマは枯渇という現象にあってショックを受けている。そうだよな?」
「う、うん。あの、けーすけ」
「どうした」
「そっちに行ってもいい?」
「いいよ」
リルマは俺の隣に座る。そのまま背中に手をまわし、顔をうずめてきた。
妙な沈黙が訪れる。
「ダメ、かな? た、頼りたいって言うか、今だけでいいから縋りたい」
「大丈夫。このままでいい」
「そっか……」
今は好きなようにさせることにした。リルマは俺にすがりたいだけだ。俺が変な事を考えなければいい。
妹だと思えばいいじゃないか。
「じゃ、じゃあ、続けるぞ。今のリルマに影食いとしての能力はない、もしくは非常に低い状態だ」
かすかに影が集まっているところを完全になくなったわけではないらしい。ただ、影食いとしてやっていくのは無理だろうというのが美紀の意見だった。
「影食いと言っても名乗れるほど能力がない奴もいるから」
それこそピンきりなのだろう。
「そこで一つ、質問だ」
「うん」
「リルマはどうして影食いの能力が必要なんだ?」
目的と手段。根っこと枝葉。これを再認識する必要がある。
「それは……影から人を守るためだったり、ほかの影食いから、けーすけを守るために必要だもの」
顔をうずめたまま答えて、リルマはその後、静かになった。
「つまり、影食いは目的じゃなくて手段だよな?」
すみれと同じで、目的を見失えば何かしらをこじらせる。
だったら別に影食いの能力にこだわる必要はない。代価になるものがあればそれでいい。
もっとも、そんな能力がほかにあれば、だが。
「何かそうなる方法があればいいんだけどな。それを少し探ってみよう。はーちゃんに会えるのなら一度相談もできるし」
「……お姉ちゃんは」
俺の胸に顔を強く引っ付ける。声が震えていた。
「どうした?」
「お姉ちゃんは、あたしに影食いを続けて欲しくないみたい」
「どうしてそう思うんだ」
「今回の黒い鎧との戦いのとき、全力でぶつかるように仕向けてたもん」
そうかもしれない。
はーちゃんは真っ向からぶつかっていって切り結んだリルマに対し、駄目ねと言ったのだ。それに、合格しても影食いとしての力を失ってしまえば今後はやっていけなくなる。イザベルもそんなことを言っていたし、事前に強くはーちゃんに確認すべきだったか。
「リルマ」
「何?」
「それは本人に聞いてみないとわからない。答えを勝手に出しちゃ駄目だ」
「……うん、わかった」
あの人は私の事をこう思っているんじゃないか。案外、誰もが考えていながらきちんと確認を取ったりはしない。これが悪い方向へと向かっていくと関係がこじれる原因になる。
下手に関係が悪化して姉妹対決になったら大変だ。もっとも、はーちゃんは歯牙にもかけないだろうが。
それから俺たちは時間が許すほど二人で話した。主にこれまで二人でやってきたことだ。何をやって結果どうなったのか。その結果を見る分では俺は、リルマがちゃんとやれてきたことに誇りを持っていいと思えた。たとえ能力がこれから先、無くなったとしても美紀や他の影食いの役には立つかもしれない。
日が落ちるのは早い。二人で話している内に気づけば外はもう暗くなっていた。
「ねぇ、けーすけ」
「なんだ」
「ちょっとだけ、その、抱きしめてほしい」
今もそれなりの大勢なんだが、いいのだろうか。
「あ、甘えてるって自分でも思っているけど、俺がいるって言ってくれたからそれを確かめたい」
抱き着かれている状態だから彼女の望みをかなえるのは簡単な事だった。
ただ、そうしてしまえば俺はよりリルマを意識するしかなくなるだろう。もちろん、躊躇う必要もない。
「こうか?」
「もうちょっとぎゅっ、としてほしい」
「このぐらいか」
「……うん。こうしてもらうとなんだか落ち着く」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
リルマと俺の間に静かな時間が流れていく。
しかし、そんな幸せな時間も数秒程度だった。
「ただいま」
「うわっ」
「電気もつけずに何してるの?」
そういってイザベルは電気をつけた。さっき驚いた拍子にリルマは部屋の隅っこへ移動し、直立不動の体勢だった。
「えっと、啓輔に恨みのある女が、幽霊になって監視しているってシチュエーション」
「あ、ホラーシチュエーションだったんだ」
イザベルは納得した後、俺へと視線を向けた。つい、びくついてしまう。悪い事をしていたわけじゃないのに。
「啓輔、晩御飯は今日も食べていいの?」
「へ? あ、ああ。ちょっと待ってろ。準備するから」
「へぇ、何作るの?」
「鍋だ」
「そっか、寒いし最適ねぇ。日本は鍋がうまいって聞いていたけど、鍋って固いけどどうやって食べるんだろう」
「いや、鍋は食わねぇよ。鍋の中にある具材な」
ま、確かにおかしな話だ。今日は鍋よといったら子供たちはわーいになるが、今日は皿よと言っても伝わらない。子供たちは困惑してしまう。
「知ってる」
そういってイザベルはゲームをひっぱり出すとさっさと始めてしまう。
「今日こそあのレタスを巣から引きずり落としてやるっ」
すぐさま重火器の音がとどろき始めた。逃げ惑う一般人を躊躇なく発砲している悪い奴だ。
「ふわぁ、良く寝ました」
ゲームの音がうるさかったためか、白井が隣の部屋から起きてきた。
そういえば、いたんだったな。存在を忘れてしまっていた。二人きりだと思っていたが、それこそが間違いだったか。
もしかして、さっきのあれを目撃されているじゃないよな。
「あれ、リルマさんそんなところで何してるんですか」
直立不動のリルマに気づいた白井は不思議そうだった。
「え、えっと、地縛霊ごっこ」
いまだに硬直しているリルマの代わりに答えておいた。
「ふぅん? よくわからないですけど、ふざけていられるのなら枯渇の事を乗り越えられたんですね。よかったです」
「は、はは、本当、そうね。えっと、白井、お風呂湧いてるから入ってきたらどうかな?」
白井はその言葉にこっくりとうなずいてこっちを見てきた。俺は何となく、目をそらす。目を見られると、当てられそうだから逸らしたが、これはこれで怪しいな。
「じゃあ、啓輔さん、お風呂お借りしますね」
「お、おう。ついでにイザベルも入ってきたらどうだ」
「二人でって狭くない?」
狭い風呂は嫌だアピールをそれとなくされた気がする。
「ここ、意外と広かったよ」
リルマがようやく硬直から解放されたようでそう答えていた。
「ふぅん」
先ほどから難関エリアを攻略していたイザベルは手を止めてお風呂へと向かう。いつから準備していたのか、下着などのおふろセットを小脇に抱えて行ってしまった。
「けーすけ、何か手伝おうか?」
「鍋だから特にないな。テレビでも見ていてくれ」
「うん」
テレビに背を向けるような形で俺は包丁を手に取る。
葉物野菜を切り分けていると、ふと、なにやらいい匂いがした。食い物とは違うが、何かふんわりとした甘い良い匂いだ。
「けーすけ」
そういって背中からリルマに抱きしめられる。胸が俺を一瞬押して、背中で押しつぶされているのがわかった。
やはり、ブラをつけていないらしい。
「……どうした?」
「慰めてくれてさ、ありがとう」
「元気が出たならよかったよ。今、俺包丁を持っているから危ないぞ。離れたほうがいい」
多少、どきどきしている。ここで、身を任せてしまったら手元が狂って血鍋になってしまうかもしれない。
いや、待ちたまえよ、理性の俺。もうこんなことされているのなら包丁なんて放り出してリルマと1UPしてしまえば良かろうに。
待て待て、これは誰かの仕掛けた罠かもしれぬ。そもそも、友達がお風呂に入っている状況で一体何をするつもりなんだ。そもそも1UPってあんだよ。あにするっていうんだよ。
こんな感じで俺の脳内はいたって冷静に事を見守ることにした。
「あ、あんたってさ、ずるいよね」
上ずった声をだし、リルマは続ける。
「ずるいって、何が?」
「あたしはこんなにドキドキしてるのに、いつだって飄々としてる」
「……そうか?」
「そうだよ。ちょっと、冷たいって思う。もし、このまま影食いとしての関係がなくなったらあたしたちってどうなるの? 離れなきゃいけないの? あたしは、一緒に居たいのに……けーすけは思ってくれないの?」
影食いとしての相棒なら離散も十分あり得るだろう。
俺は包丁を一旦おいて、腰から前に回されていた腕をほどく。
真正面からリルマを見据える。照れはしたものの、俺から目をそらすことはなかった。
「お互いに隣にいたいと思うのなら、その関係はきちんと続く。言ったろ、俺はお前と一緒に居るって。なんなら、もう一回宣言してやる。一緒にいてやる……そうだな、言い方がちょっと悪いな……なんと言ったらうまく伝わるかな」
「変に、誤魔化さないでよ? 今、あんたに傷つけられたら……壊れる自信がある」
いったい何が壊れてしまうのか。少し気になったが、俺はそれを知る機会が無いとわかっている。
「誤魔化さないさ。俺の彼女になって欲しい。これからもずっと一緒に居てくれると嬉しいが、どうだろ……」
「うんっ」
食い気味で来られた。
「あ、ああ、ありがとな」
俺はリルマを抱きしめた。
しかしそれも数秒程度。俺の胸に手を当てて、少しだけ顔を離すと上を向いて目を閉じた。軽く唇を突き出して俺を待っている。
俺も一瞬だけ態勢を整えようとして、動きを止めた。
あまりに長い沈黙にリルマは耐えられなかったようで心配そうに眼を見開いた。
「……けーすけ?」
「かわいい顔をして待ってくれているけれど、のぞきがいるぞ。見られたまましていいのか?」
俺の言葉に目を瞬かせ、次にゴキブリでも見つけた顔になった。
「え、覗きって?」
目を開けてまずベランダの方を見るリルマ。そこに何かが張り付いているわけでもない。そっちではない。一体、何者が窓に張り付いて俺らの事を見ていると言うのか。
すでに敵は、この住居にいると言うのに。
「これから、むーどある雰囲気のなか、お互いに目を閉じてひとつになりますよ」
「それすごい。熱烈なんだね。これも幽霊のシチュエーション練習かな」
「えぇ、そうです。そして夜は金縛りで動けなくなった啓輔さんにまたがって……」
「え、十八歳以上禁止の?」
「はいー、今夜はきっと啓輔さんが刃物によって分裂しますよ」
「それ、やらしい」
やらしくねぇよ。どういう展開だよ。それで頬を染めるのは上級者過ぎる。
「啓輔さん、似たようなシチュエーションがどこかで発生した時、私は必ずいるので安心してくださいね」
まったく、白井はともかくとしてイザベルもいたとは。白井、こっちを見て親指を立てんな。
完全に固まったリルマを放置し、テーブルの上にガスコンロをセット。鍋も置いて出汁で満たす。
「もう風呂はいいのか」
「ええ、気配を察知したので」
「ドライヤー借りる」
鍋を囲んで飯を食い始めると、美紀が入ってきた。
「啓輔、お邪魔するわ。あー、この部屋あったかい」
冬の夜は冷えるからな。いつだったか、リルマに上着を貸していたけどあれはもう帰って来そうにないな。まぁ、いいか。これからあいつの部屋に行く機会があるかもしれないし、その時に回収でもすりゃいいさ。
「いらっしゃい」
美紀は固まっているリルマを一瞥すると眉をひそめた。
「何、まだリルマはショック受けたままなの? 気持ちはわかるけれど、しっかりしなさいよ」
「これは別のショックを受けたんだよ」
イザベルはそういって席に着く。
「ふぅん?」
固まるリルマの背に回り、パーカーの下から手を突っ込んだ。そのせいでパーカーが引き上げられて太もも、くまさんプリントのパンツどころかおへそレベルまで急上昇。俺の座っている所からは下乳が見えそうだった。
「うりゃ、あー温かい」
「ひゃああっ、冷たいっ」
「って、あんたブラしてないの?」
なるほど、鷲掴みしたのか。手に収まりきらないのは間違いないな。うらやましいことだ。
いつの間にか美紀がフレンドリーになって、俺は嬉しかったりする。
「あ、美紀さん駄目ですよ。ここには啓輔さんがいるんですからパーカーあげちゃったらパンツが見えちゃいます。というか、既に見えてますよっ」
「え、リルマってくまさんパンツ穿いてるの? 正直それはださいでしょ……あんた、何歳よ」
イザベルはパンツに酷評し、リルマは美紀の手を払って睨んでいた。
「何、けーすけのまえで恥さらしにしてるのっ。酷いよっ」
「その、悪かったわ」
美紀が素直に謝るのも珍しい。こうやって誰かとのコミュニケーションができるなんてな。
「って、啓輔さん動じてないですね」
「まぁ、な。俺は腹が減っているから」
嘘です。心の中では荒波にもまれて転覆しかけの船の中状態です。
「色気より食い気と見せかけて動揺しているんですね」
「わかっているのなら突かないように。ほら、リルマも座れ。美紀も手洗いうがいして席につけよ」
俺、リルマ、白井、美紀、イザベルか。うるさいな、この人数だと。
それから肉の争奪戦、苦手な野菜の押し付け合いを経て鍋を片付けた。
「さて、本題に入るからね。各自、ふざけないように」
「はーい」
白井が力強く頷いたがうさん臭そうに見られていた。
「待て、美紀」
「何よ?」
「お前肉を俺から取りすぎ」
「弱きものの肉は強きものに食われる運命にあるの」
美紀は何度も俺から肉を奪った。絶対に許さない。
「枯渇に関してだけれど、それから復活したと言う前例は聞いたことがない。調べてみたけど、なかった」
「うっ、やっぱりないんだ」
リルマは眉をひそめて肩を落としている。
「だから、あの黒い手帳を使うわ」
「え」
「まったく影食い能力がない奴には使用できないとは思うけどね。かすかに使えるのなら何とかなるでしょ」
「なるほど」
すっかり手帳の存在を忘れていた。
「手帳は啓輔の中にある。すみれに影食いをして取り出せたから、啓輔に影食いすれば手帳も手に入るはず。やってみなさい」
「やってみなさいって言われても。あたしは影の力は出せないし」
そんなリルマの右手を美紀は握る。
「駄目なお前に私が力を貸してあげる」
「美紀……」
少し感激したのか、リルマは涙ぐんでいる。
「か、勘違いしてもらっちゃ困るけど、一度は私を倒したからね。まだリベンジをしていないからよ?」
「私もお貸ししますよ」
白井もリルマの右手を握った。
「白井……」
「さっき邪魔をしちゃいましたからね」
「私もいいよ。手伝う」
イザベルもそっとリルマの手に自身の手を重ねた。
「みんな……」
「よかったな、リルマ」
「う、うん」
「じゃあリルマとイザベルはちょっとどいてて。トイレに行きたい奴は先に行っておくこと。私と海、啓輔でまずは部屋を片付けるから。
「先に行ってくる」
リルマがトイレに向かい、俺たちは片付けを始める。晩飯の片づけはたいしてない。鍋やら食器やらだ。俺が食器を洗うことにして他の人たちが片付けを始める。自然と役割分担が出来ていた。
食器を洗い始めてすぐに美紀が俺の隣にやってきた。
「啓輔」
「なんだ?」
「今回の痛みはこれまでのものと比べものにならない。あんた、結構耐性あったけれどたぶん、意識が飛ぶと思う」
「え、どうして断言できるんだ?」
「実はね……」
聞くところによるとすみれに接触したらしい。すみれは自身に手帳を使用し、のちに影食いされて手帳を取られたから体験者と言える。
黒の手帳を取り出されるとき、自分の根幹を壊されたような気がしたと彼女は言ったそうだ。意識がどこかへ飛んで、もう戻らなくてもいいと思ったそうで、実はそんな危険があったなんて考えていなかった。
「二冊だと倍になるんじゃないかって言ってたわ」
「掛け算かもしれない」
あるいは、二乗かもな。
「掛け算は蛍が得意だって兄貴が言ってた」
おそらくその掛け算は違うものだろうよ。
「ともかく、ちゃんと戻ってきなさいよ。リルマのためにね」
「わかってる」
「……けど、もし、意識も飛ばずに完全に耐えたらあんた、ただ者じゃないわね。常人とは思えない。人じゃない何かかもね」
美紀に変なプレッシャーをかけられ、片付けを再開する。
「啓輔さん」
「なんだ、白井」
「私との約束覚えてますか?」
「さぁね、何でもしてくれるなんて約束はもう忘れたよ」
俺の言葉に白井は笑った。
「ちゃんと覚えてくれているんですね。あれから何か欲しいものはできましたか?」
「……ないよ。それに、白井には何度か助けてもらってるし」
今さら彼女に求めることも出来るわけがない。
「そうですか。何か欲しくなったら声をかけてくださいね」
「おう」
最後にイザベルが寄ってきた。お腹がいっぱいになったのか、眠たそうに眼を擦らせている。
「ママ、明日の朝はベーコンエッグが食べたい」
「わかったわ。ベルちゃんのためにとっておきのベーコンエッグ作るわね」
「わーい」
打ち解けるとおかしなところがあるんだな、イザベルって。
リビングはテーブルも片づけられたがこの人数が扇状に広がると狭かった。
「啓輔、準備はいい?」
リルマは皆の力で一時的に右手を影状態にしていた。長い間一緒に居たわけではないけれど、協力し合うには十分の絆を持っている。
「いつでも来いよ」
「これが、愛し合う二人の初夜ってやつですかね」
「突っ込む方が違うでしょ」
「美紀、突っ込むところはそこじゃない」
「違うから、私が突っ込むわけじゃないから」
このままだと美紀は白井のいいおもちゃにされそうだ。
「じゃ、いくからね」
影食いリルマは手を伸ばし、俺の右目を影で触れる。
まるで槍で体を貫かれたような痛みが走り、俺は同時に体の中をまさぐられるような気がしてならなかった。
これまでリルマと出会い、影食いの事件に関連していた事柄が頭の中にフラッシュバックしていく。それ以前の、何か違う映像がちらつく。友達と遊んだ日々、ばあさんとの日々、他にはバスの事故や、俺が小学校の入学式でUFOを見た記憶もあった。
痛みはピークに達し、リルマのもう少しだからという声が聞こえてくる。
頭の中はすでに真っ白。体はどうなっているのだろうか。どうせ、痙攣しているのだろう。
痛みは確実に精神を傷つけていく。このままだと間違いなく、気が触れる。
「掴んだっ」
リルマのその声が聞こえてきたとき、世界が反転し、消えた。




