第七話:進むべき道が違うなら
実家は楽だ。この一言に限る。
まぁ、ゆっくり出来るわけではないが、家事なんてしなくていい。なんていう大学生はママンに頼りすぎである。是非、俺もそういったご家庭に生まれたかった。
「啓輔ぇ、つまみ」
「はいよ」
俺は母ちゃんからこき使われている。家に帰ったら洗濯物を入れ、夕飯の準備をして、つまみの準備をした。ちなみに父は年に一度か二度しか帰ってこない。
それでも、一人暮らしより楽なのは間違いない。
「けど、いきなり帰ってくるってどうしたの」
「いや、ちょっとね。たまには母ちゃんの顔を拝もうかと」
「また何か欲しくなったからお願いしに来たのかと思った」
「ないってば。そういう時はちゃんとメールで連絡をして、電話もして、ご機嫌伺いにくるから」
僕の母は、手が早いです。バイクが欲しいと抜かした僕に、鉄拳をくれました。まず働けと言われ、バイト先を紹介してもらった。それなりにバイトしてためた金でも足りず、ママンにも少し出してもらった。
「で、彼女とは仲良くやってる?」
「いいや。フラれた」
そろそろ聞かれて答えるのも疲れてきた。どこかで関係者に僕たち別れましたというメールを一斉送信してもいいかもしれない。
「は、何それ。お母さん初耳なんだけど」
呆れた表情の母親に俺は首をすくめて見せる。誰かと付き合った、フラれたなんて両親へ報告する必要もない。
「この前別れたから。今はイケメンと仲良くやってるんじゃないの」
俺の言葉をどうとったのか、母上様は首を傾げている。
「子どもにしては結構長い間付き合ったでしょ? お隣だったし、幼馴染だし」
今じゃあっちのご両親は海外にいるらしい。日本に残っているのはすみれだけだ。
「実際に付き合っていた期間は短いよ。付き合い自体は長かったけどね」
子どもにしてはというところが若干気になるが、その通りだ。
「既に終わった青春だったと?」
「まぁ、母ちゃんのいう通り、確かに青春だった……かなぁ」
付き合いたては初々しかったものだ。今ではすっかり気持ちも冷めた。
すみれに対して流した涙は一筋だけだった。それが多いのか、少ないのかは恋愛経験の少ない俺では判断しようがない。
「それで未練のない顔をしているのは強がり?」
未練のない、などといった言葉は他の人からもよく聞いた。俺が一番疑問に思っていいんだけれど、そうなるとあのリルマという存在に脳みそが行きつく。
「いや、マジで未練無し」
その言葉に母ちゃんはため息をついた。
「淡白ねぇ。最近の子って皆こんな感じなのかしら」
「どういう意味さ」
「てっきり、いや、そんなことはない。僕は完璧だった。これは二人の愛の試練なんだ……とかなんとか言って、ストーカーにでもなるのかとね」
いや、ならないから。
これが冗談で言ってくれているのならまだわかるけれど、俺の母ちゃんは真面目に言っている。
「母ちゃん、息子にストーカーになってほしいわけ?」
「あんたじゃ無理よ。淡白すぎる」
長年、この人の息子をやっているがたまに、何を考えているのかわからなくなる。
逆に俺がストーカー(たぶん違うが)に居場所を突き止められるんじゃないかと思って実家に逃げ帰ったわけだ。
「いい? 啓輔。この世界は悪い事をするのも頭がよくないと駄目なのよ。群れるのが嫌いだからと言って普通の社会に背いて生きても、裏社会では更にルールが厳しくなるものなの」
「なぜ、そんな暗黒面を息子に話すのか」
「自分にルールを課すことの出来ない人間は自堕落でダメになるの。けどね、そう言った人間が社会には必要なの、食い物として」
「……うわぁ」
適当に母ちゃんの相手をして自分の部屋に戻ると、いつのまにか物置になっていた。布団なんて雑な感じに敷いてあり、その上を防虫剤が蹂躙している。
やっつけすぎやしませんかねぇ。ちょっと眠れそうにもないんですけど。
「あのさ、母ちゃん」
「ん、何」
ほろよい気分の母ちゃんは俺がいない方に視線を向けている。いったいそこに、誰がいるのだ。
「何で俺の部屋が物置に?」
「一人暮らししてるじゃん」
部屋、いらないでしょ。その一言で実家はもはや安息の地ではないことを知った。
「まぁ、そうだけどさ。今は夏休み中じゃんよ」
「世間的には秋だけど?」
いつまで夏休み気分なのと言われた。
「俺の寝るところは」
「おばあちゃんの部屋でいいんじゃないの。それが嫌なら外で寝れば」
相変わらず、適当である。
「しょうがないか。んで、布団は?」
「客間の押入れから取ってくれば」
やれやれ、仕方ないなと風呂に入った後、俺は布団を探してみた。なければ防虫剤の香りに包まれて寝なくてはならない。それは嫌だ。
一度、知らない内に枕の下に防虫剤を設置して寝ていたことがあった。気づかず三日ほど寝て頭がものすごく痒くなったことがあったなぁ。
「……よし、あった」
小さくガッツポーズをしながら布団を押入れから引っ張り出す。すると、何かが床に転がった。
「あん?」
どうやら、黒い色の手帳らしい。ちょうどスマホと同じサイズだ。
反射的に拾って焦燥感が襲ってくる。
「……なんだ、これ」
ついでに妙な緊張感が襲ってきた。この感覚は説明するのが難しかった。
限定五十個のあんドーナッツお一人様三つまでの行列で自分にぎりぎりまわってくるかなという感じだ。いや、これじゃ全然伝えることが出来そうにない。あんドーナッツなんて和みの極みじゃないか。目ん玉に五寸釘が刺さりそうな感じか。うん、これも微妙だな。
例えはいいとして、その手帳は光を吸収し続ける黒い色の手帳だ。すでにこの時点で妙な代物だったりする。
ページの間から闇が漏れるような、そんな幻覚が見えている。
一度、手帳を置いて布団を部屋に置いた。変な緊張も手帳を置いたことによっていくらか平静にもどりつつある。
「はぁ、ばかばかしい。手帳一つでメンタルがたがたにされるなんて……」
完全に落ち着いてから、意を決して再度手帳を拾った。こんなに緊張したのは小学六年生で女湯に入ったとき以来かもしれないな。ぎりぎりアウトな気がしてならない。
目を閉じて、深呼吸をする。呼吸が落ち着いてきて目を開ける。
落ち着いてくると興味が湧いてきた。いったい、手帳の中身には何が書かれているのだろう。
「え?」
手帳は確かにあったのに、俺が掴んだ瞬間に消えた。元からそんなもの無かったといわんばかりに、煙のように消えてしまった。
いつだったか渡されたのに手のひらを開いたら何もなかったあの親戚のおじいさんとのやり取りをまた思い出した。
「……まさか、我が家でホラーに出会うとは」
親戚の二歳ぐらいの男の子がこの家に来た時、知らないじいじが二階に居て廊下の突き当たりで消えたと証言していた(実話である)。俺には見えなかったが、その子どもは手を振っていたので見えない誰かが居たようだ。
それを見た母ちゃんはペットボトルに水をつめて敷地の四隅においていた。何か対策方法が間違えている気がしないでもない。あと、それって本当は意味がないんじゃなかったっけ?
「ま、いいか。絶対、あの手帳を開けていたら物音がして、確認したらお化けのパターン。もしくは驚かせやがってからの不可避イベントだな」
先にお風呂に入っておいてよかった。シャンプーしていたら誰かの手に当たったとか、お風呂に入ろうとしたら中から透けた女が出てきたとかあったかもしれない。透けた服の女は好きだが、透けた女はちょっと嫌だ。
自分で考えて、少し寒気がした。
べ、別に怖がりってわけじゃないぞ。何かの拍子にびっくりして、転倒、お風呂場で頭を打つ可能性がなかったから良かったと思っただけだ。
「……今日は早く寝るか」
たまにはぐっすり寝てみたい。十時に寝ると、七時に起きても休日並に寝られるんだ。
「遅くまで起きているとお肌にストレスだわ」
ふざけて恐怖を紛らわせるのは常套手段。怖い話に自分で、だから俺は全裸で寝ることにしたと一文書き加えるだけで悲劇を回避できそうだ。
目をつぶるといつもの闇が俺を迎えに来た。もう一度、目を開く。やはり暗い。人は、暗闇にどんな恐怖を描くのだろうか。
俺はそれ以上余計なことを考えずばあちゃんの部屋でさっさと目を瞑った。何度か深呼吸をしていくうちに意識が薄れていく。
その日の夢は最悪だった。
宗也が俺の嫁さんになっている悪夢。これほど酷い夢を見せるなんて管理センターがあったら文句の一ついってやらねば気がすまない。
あと、もう一つ気になる夢を見た。二本立てとはなかなかおつな事をしてくれる。その夢は、なんだか心の中から暗闇があふれるような感覚を覚えている。