第七十一話:彼女が欲しいモノ
影というよりも、闇というにふさわしい場所だ。浮いているような、それでいて座っているようにも立っているようにも感じる。深く考えようとすると、自分がそれらの一部になってしまう予感がした。
誰もいない、それでいて、少しずれた場所に誰かがいるのがわかる。おそらく相手はすみだ。
「驚いた?」
「……異常現象はもう慣れたよ」
お互い立った状態で視線を交わす。しかし、すみれとして認識できるような相手はおらず、俺が見ている相手は影だ。
俺が影食いだったら足払いをかけているところだった。
「すみれがリルマ側の人間だったなんてな。その点だけは少し驚いた」
「ごめんね、黙ってて」
「構わないさ。俺とお前はもう関係ないから」
ちっとも悪いと思ってなさそうに言うのは変わらないんだな。話をうまく進めるためには自分の気持ちは抑えなければならない。
「性悪女」
「……は?」
「すまん、口が滑った。今のは魂の叫び、いいや、魂の下品な漏れだと思ってほしい。申し訳ない」
「相変わらず、おかしなところは変わってないんだね」
「直すつもりも、直せるとも俺は思ってないよ」
性格はすぐに直せるわけでもないさ。
「それより、もう関係はないけれど、手帳の事、知っているのならどういう事か説明してほしい。俺は全然知らないんだ。ありゃいったいなんだ。人が一人いなくなるほど重要な物なのか?」
俺の不躾な問いかけにも何を考えているのかわからない笑顔のままだった。
「長くなるよ?」
「それでもかまわない」
「じゃあ、私が知っていることを教えていい範囲で話してあげる」
事の発端はすみれの祖母、春子という人物だそうだ。
春子は影食いでありながら大した能力を持っておらず、影食いとしては生きていけなかったらしい。
身体も弱かったそうで、彼女はそれらを補うため、影食いとしての能力を上げようと研究をしていたそうだ。
「なんでも、ある影食いから手帳を渡されて、それが凄いものだと知ったんだって。それで、複製を作ろうとしたとかなんとか。影無しと同等、いいや、それ以上の力を出せるんだって」
影無しという言葉は初めて聞いたが、影食い関連の話だろう。今度、誰かに聞いておくとしよう。
「手帳に?」
「もともとその手帳自体が危ないものだって聞いてる。そっちのちゃんとした出所は知らないけどね。研究の過程で力を失くしたのか、失われたのかは知らないけど」
すみれの話は続く。
春子は研究の際、アドバイスをしてくれる人物を捜したそうだ。そして、外国からドミニク・ブラックを招いた。ドミニクは影を何かに定着させる研究をしていたそうで、彼自身が優れた影食いでもあったそうだ。彼もまた、由来不明の手帳を見て素晴らしいと手を叩いて喜んだ。
長らく研究は続けられ、二人だけで続けたそうだ。
「少しだけ年の差はあったけれど、いつしか二人は親密な仲になったんだって」
「ほぉ」
まぁ、よくある話、かね。
「ドミニクは国に帰ることになり、春子はそれを無理に止めなかった。二人の間には二冊の手帳が出来上がっており、一冊はドミニクが、もう一冊は春子が所有することになるの」
それには二人で過ごした思い出も詰まっているのだろう。二人で作り上げたのならある意味、子供のようなものだ。
春子はそれを影食いの組織に渡して量産するつもりだったらしい。しかし、提出の手前で、とある危険性が孕んでいることに気がついた。その頃にはすでに春子は持病が悪化し、ドミニクと連絡を取ることすらできなくなっていた。
「そして春子は親友であるカゲノイ、坂井志津子を頼った」
ここで俺の祖母の名前が出てくるとは思わなかった。
春子は言ったそうだ。お願いよ、しづちゃん。ドミニクさんから必ず手帳をもらってきて頂戴と。
志津子は少し年の離れた親友のいうことにうなずき、海を渡った。
ブラック邸に向かうとドミニクは死んだと言われる。志津子も手ぶらで帰るわけにはいかないのでこれの危険性を指摘する。しかし、ドミニクからはとても貴重なものであり、ほかの影食いやカゲノイには絶対に渡すなと言っていたらしい。話し合いだけでは解決できなかったそうだ。結局、ばあちゃんは手帳を力づくで手にしたらしい。
「力付くで?」
「時間がなかったの。祖母の春子は出立時にもう長くなかったらしいから」
余談だが、日本まで逃げ延びる際中に旦那、つまり俺のじいちゃんと出会ったそうな。
大抵の影食い、カゲノイを返り討ちにし、日本まで逃げ延びてきた志津子は春子の墓石にドミニクの手帳、経緯とこれまでの行動、心情を書いた日記を置いたそうだ。
「……間に合わなかったのか」
「うん、志津子さんが戻ってくる二か月前に亡くなったんだって」
しかし、どのような危険性があったのか、話は終わっていない気がする。ばあちゃんや親戚のおじいさんが言っていた敵に回したというのはこのことだろう。友達のために、親友のためにそのほかを犠牲にしても間に合わなかった。もっとも、回収すればよいと春子さんが思っているのであればそれはそれでいいんだろうが、ばあちゃんは回収してきてくれしか言われていないのだろう。
「俺の婆ちゃんが言っていたが、影食いに襲われるってそういうことかな」
「どうだろうね。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。現に、この羽津市は影食いの五家の一つ、雨宮家が多いから。結構、カゲノイに厳しい家なんだよね」
「五家?」
聞いたことのある言葉だ。
「今は関係ないから話さないね」
余計な事を聞いてもこっちが理解できないかもしれないな。しかし、多いと言う割には思ったより影食いに会っていない気もする。
「春子ばあさんが持っていた片割れの手帳はどうなったんだ」
それだと、何か問題があるってことなんだよな。
「志津子さんに渡したんだって。これがあったおかげで大抵の影食いを返り討ちにしたとかなんとか。日本に戻ってからも春子の遺言で死ぬまで持っていてほしいと」
黒の手帳の凄さは追っ手となったブラック家によく伝わったことだろう。ジョナサンが恨む気持ちもわかる気がする。ばあちゃんが手帳を奪いに来たのは、力を得るためだと勘違いしていたのかも。それなら燃やせと言うのも納得できる。
やり方は間違えていただろうが、ジョナサンは危険なものだと認識していたんだな。協力を願い出てくれていれば何も問題なく話が進んでいたはずなのに。
「ここまで来たらわかるよね」
「わからねぇな」
俺が聞いたのは変えられない昔話。後悔するような出来事は生きていれば必ずあるが、それは見えているはずなのに、人間は気づけない。
「すみれ、お前何が言いたい?」
「私が啓君に近づいていた理由、それは手帳を回収すること」
それは、どういうことだろう。
たぶん、俺と付き合っていたこと自体が嘘だったということになる。思ったよりもショックは受けなかった。ただ、俺の脳裏に駅前での別れの瞬間を思い出す。
いつだって、すみれと別れた事を思い出すとリルマがついてくる。今はそれ以外も、頭に浮かんでくる。まったく、一体何が原因なんだか。
「でもさぁ、付き合って気づいたけれど啓君は手帳を使った様子もなかったし、そもそもカゲノイや影食いについての知識もないようだった」
影食いという言葉を出すだけ出して、ばあちゃんは俺の質問には一切答えなかった。それにも意味があるのだろうか。
俺の事を守るためだったのか、それとも別の何かの為だったのか、ばあちゃんが何を考えていたのかは結局わからずじまいだ。
せめて、婆ちゃんと話が出来ればな。絶対に適わぬことだが。
「啓くんは知らないだろうけどさ、午後九時を過ぎて外を出歩かないようにあの人の作った影がこれまでずっと守っていたんだよ」
「は?」
これまで俺の身に起っていた危険は、ばあちゃんが原因だったのか。あの婆ちゃんが、俺を守ってくれている。面白い話だよ。
「でも、あれは俺を襲っていた気が……」
「間接的に危険だと刷り込ませていたんだよ。死なない程度の危険を与えてね。知識を与えていない以上、何が危ないのかもわからない。だったら、徹底的に近づけさせないようにしたんだろうね」
ちょっと意地悪なところがあの人らしい。そういわれてしまうと納得しそうな自分が嫌だ。
「じゃあ、どうして影食いに気をつけろだなんて言葉を俺に……」
「さぁね。私の憶測だから聞かれても全部は答えられないよ」
ばあちゃんはそこまでして俺を遠ざけたかったのだろうか。
ちゃんと説明してさえいれば、俺は絶対に近づいていなかった。ばあちゃんが駄目だと言うのなら、素直に従っていたさ。
「志津子さん、私を警戒していたんだろうね」
「すみれを?」
「うん、欠陥品だけど優れた能力を持つ黒い手帳の一冊は手に入れていたから。力を手に入れるためもう一冊がどうしてもほしかった。あと、経緯を記した志津子さんの日記も盗んでるし。それにさ、志津子さんがいたこの土地の場所をイザベル、ジョナサン・ブラックに流したのも私。志津子さんが没してからだけどね。もちろん、あの二人が手帳を手に入れていたらかすめ取るつもりだったよ」
「まじか? 危険だぞ」
つい、元彼女を心配してしまったのはなぜなのだろう。しかも、その元彼女は俺ではなく黒の手帳欲しさで俺と付き合っていたのだ。そうなると彼女ですらない。
彼女は一体、俺にとってのなんだったんだろう。
「言ってなかったね。ウィルだかなんだか知らないけれど、裕二君が犬になっていた時、影食いの美紀が狙撃したでしょ? 退場が早すぎると面倒だから、防いだの私なんだよ」
それが本当なら相当の実力者といったところか。
「しかしねぇ、すみれよ。過去の事をひっぱり出してきて私がやりましたは通じないだろ」
論より証拠の世の中だ。
適当にでっち上げているのかもしれない。あの事を知っているのは俺と偽リルマの美紀とジョナサン、イザベル、あとは本物のリルマだ。
「それだけじゃないから」
「まだあるのか」
「裕二君が廃病院で影に襲われたのも私がやったの」
「え?」
「驚いたよ、まさか影食いの女の子と出会っているなんてさ。そして、あの子が解決するとはね」
「いや、だから証拠を……」
「信じるか信じないかは啓君次第です」
舐めた真似をしてくれる。軽くいらっとしたが、相手のペースに乗るのは危険だ。こいつのやり口だったから。
「わかった、仮にすみれがやったとしよう」
「うん」
これがすみれじゃなければ俺は相手をぶん殴っていた。
「裕二の場合、メリットは何だ? 目的もわからない」
裕二に影を宿らせたとしても、意味なんてなさそうだ。事実、彼の行方不明というだけで話は終わっている。
「裕二君がいなくなったら啓君は絶対に探すよね」
「ああ」
たとえ、影食いの知り合いが出来なくても一人で探していただろう。もっとも、見つけることは出来なかったかもしれないし、その場合は美紀がうまくやってくれそうだが。
「もし、手帳を実は取り込んでいて力を開放し、影食い的なものになっていたら十分に対抗できる。でも、さっきも言った通り実際はそうならなかった」
あの時、裕二を助けたのは俺ではない、リルマだ。
「本当、驚いたよ。影食いの知り合いができたなんてね」
「……そうだな。知り合ったのは偶然だがな。もしさ、俺がただの一般人で、リルマとも出会っていなかった状態で裕二を助けに行っていたらどうしてた?」
あの裕二に襲われるのは間違いないだろう。想像したくないが、大けがを負っていたはずだ。まぁ、その時も美紀が助けてくれたかもしれないな。
「そんなの簡単。私が影食いして終わりだよ。他に、関係のない影食いが助けに行っていたとしても私が手を下してたね」
「お前が?」
「うん」
そういったとき、玄関の扉があった方から音がした。
「あー、こほん、けーすけ。 悪いんだけどさ、やっぱり、一緒に来てくれないかな。どうも来てくれないと落ち着かなくって」
すみれは唇をゆがめた。どこかぽわんとした表情を多く見ていただけにこんな笑い方もできるのかと感心した。
「今日はこの説明だけだからね。手帳、ここではないどこかに保管しているんでしょ?」
射抜くような視線。付き合っていると思い込んでいた時は見たこともない新たな一面だ。一歩、俺のほうへと近づいて見せたが、右手がぶれたように見えた。
「くっ……時間切れかな。渡してくれないと力づくで奪うから。じゃあね」
渡したいんだけどさ、手帳は消えてしまったんだよ。
俺がつぶやくよりも先に、すみれは姿を消してしまった。それと同時に部屋の影も消え去った。
不思議空間から戻ってきた俺は軽く放心してしまった。
「ちょっと、けーすけ。聞いてる?」
「……聞いてるよ。今そっちにいくから」
まさかすみれが裏で糸を引いていたなんて言われても今一つ実感がわかないな。俺の知っている……いいや、俺はすみれのことなんて何一つ知らなかったんだ。
誰かの何かのふざけた冗談だと信じたかったが、自ら話してきて、力を見せられた以上、そうもいかない。俺一人で解決するには難しく、またリルマたちの力を借りる必要がありそうだ。
妙な脱力感に襲われながら、俺は立ち上がった。




