第三十五話:恐怖の灰色熊
約束の時間の数分前にリルマが姿を現した。何事も五分前行動を心がけるようにって学園にいたころは言われてたっけ。今でも言われているんだろうか。
「……最近ここを良く利用している気がする」
「そうね」
リルマはなにやら難しい顔をして、考え込んでいるようだ。
さっきのウェイトレスさんは俺がリルマと会っているところを見ると興味が湧いたらしい。視線でさっきの女性は誰なのか、一体どういう関係なのかと訴えかけてきた。
もちろん、知らん顔で貫き通した。俺が一人で来店したときは話しかけられるかもしれない。
既に青木からもたらされた情報はリルマに伝えてある。美空美紀の事については悩んだ末に今は伏せておいた。関係しているのではないかという気持ちと、余計な情報を与えて混乱するといけないからだ。
それに、宗也の知り合いなら問題なさそうだ。裕二の失踪に関わっていたのなら事前に俺に伝えてくれていたはずだし、妙な画像を送りつけるぐらいなら何か向こうからアクションを起こしていたかもしれないし。
もちろん、白い女のことを調べていく途中で美空美紀がちょっとでも登場すればリルマに言うつもりだ。その時は宗也に話を聞く必要が出てくる。もっとも、宗也が騙されているのなら期待できないけどさ。
美空美紀の事についてはこちらで調べてみるとしよう。どうせなら、宗也経由で直接会いに行ってもいい。
「リルマはどう思う?」
「どう思うも何も、青木先輩を信じるのなら啓輔の隣にあいつ、いたんでしょうね。気づけなかったの?」
リルマの指摘ももっともだが、白い女の衣服なんて一瞬たりとも見てない。見たらリルマに助けを求めていた事だろう。
「ああ、青木にそう言われて驚いたよ。俺の隣にいたのなら、いつでも襲えたのに謎だ」
相手の隙をついて完璧に襲ってくるつもりか。しかし、裕二を助けて満足していたあのときこそが絶好のチャンスだったはずだ。白い女が裕二をさらった目的が俺を襲う事の過程なら納得のいく話。
「余裕ぶってるのかしら」
そういってリルマはアップルティーに口をつける。俺も釣られてコーヒーを口にした。深いコクを楽しむ余裕も無く、そのまま胃の中へと流れていく。
「何が狙いなのかさっぱりわからない。得体がしれない奴だ」
一度目から既に俺を捕らえようとしていたのだ。二度目にいたっては完全に捕まってしまった。改造秒読みに入っていただろう。
それ以降は白い女の存在が消えたかのように何事もなくなった。やはり、裕二をさらったのであれば計画を立てていたことになるが、それでもあそこまでやられて何もないと言うのも気味が悪い。
何らかの事情があって俺を襲えなかったと言うのはどうだろう。別の影食いと戦っていたとか、リルマに勝てないと思ったのかもな。
「そうね。何か考えがあってのことなんだろうけど……啓輔」
「何だ?」
じっと俺の瞳を見て、リルマは眉をひそめた。
「あんた、影を補充した?」
「は? 影を補充?」
ハイオク満タン的な感じを想像した。ハイオクなんて俺が入れられるわけも無い。当然、バイクに入れるのはレギュラーだ。入れても大差ないんだろうか。
「……満たされてる。おかしいな。吸ったらそうそう増えたりしないのに」
「よくわかんねぇけど、あれじゃね。リルマの相棒だからじゃね」
影のことにはいまだに詳しくない。相棒気取っているが、俺の出来ることは特にない。強いて言うのなら、そうだな、奢ってあげることだ。つまり、リルマの財布と呼ばれてもおかしくはない。
「……違うと思うけど。ま、それもいいわ。あんたはちょっと変わっているから。またあふれ出すようなことがあったら呼んで」
あふれ出したらまた目の前が真っ暗になるのか。
「また影食いするのか」
どうしても嫌な顔というのは隠しきれないのだろう。俺の表情を読み取ったリルマは喉を鳴らして笑っている。
「大丈夫だって」
「すげぇいてぇぞ、あれ」
「今度は優しく、影響無く、してあげるからさ」
ソーサーの淵を指でなぞり、リルマはいつもより優しさを増して笑っている。
嘘だ。あれは痛みを伴うものだろうに。俺、裕二共に叫んでいる。なんと表現すればいいのかわからない辛さだ。自分の存在が粒子に分解されて消えて行くような感覚が一番近いかもしれない。
「ところで不思議なことがあるんだが?」
「何?」
「裕二のときは記憶がなかったみたいだな。俺の時はしっかりあったのに」
「記憶があるほうが珍しいの。啓輔から影が溢れた時も意識があったし、そこら辺から普通とは違うと言うか。影食いの方も大抵はその痛みに気絶するんだけどね。あんたは痛覚が鈍いんでしょ」
「なんじゃそりゃ」
どこか馬鹿にした口調で言われて俺は変な顔になった。敏感な俺が鈍いわけ無いだろ。
「やられっぱなしも悔しいから、テストだ」
「テスト?」
「そうだ。ある少年が遅刻、遅刻ぅと言いながら学園への道を走っていた」
「うん」
「そして、曲がり角に差し掛かった時、女の子とぶつかりました。さて、これは一体何のテストでしょうか」
リルマは困惑していた。
「え? 話の流れ的に男の子と女の子が出会うっていうテスト?」
それは一体何のテストだ。曲がり角を曲がって女にぶつかった奴は物語の主人公になれるとでもいうのか。
「ぶっぶー、答えは危機予測のテストです。人間は急いでいるときに注意力が散漫になって見落とすことが良くあります。かもしれないという心掛けをして気をつけましょうねってテストだ……ひがっ」
鼻をつままれた。
「意味わからない事言わないで、真面目にしてよ」
「ふぁい……こほん、それで、白い女の事なんだけど、どうするつもりだ?」
「テストはしないの?」
「真面目にしろって言ったじゃないか」
「真面目なテストをするかと思ったの!」
真面目ねぇ。国語算数理化社会辺りの問題でも出せばよかったのか。懐かしいなぁ、水兵リーベさんは今頃元気にしているだろうか。
「テストは置いといて、さっきも言ったけど白い女に関してこれからどうする?」
掴みどころのない相手がこんなにも早く現れるとは思わなかった。これが王道なら近所の村を荒らしまくっているゴブリン辺りを倒してきてくれで済むはずなのに敵国の宮廷魔術師的な何かが序盤で出てきた感じだよ。
「どうするもなにも、特にすることはないわね。啓輔の周りに現れたってことはまた何かあるんだろうけど。これまで通り、気を付けるしかないかなぁ」
白い女の目的ってなんだろう。それさえわかれば先手を打てるのだが。
「この先、白い女を捕まえたら一度本家に行かないといけないけどさ」
「本家?」
「そう。白い女はおそらくカゲノイ。もし、カゲノイを捕まえたら本家から一人前って認められるのよ。おじいちゃんが言ってたわ」
そのおじいちゃん、信用していいおじいちゃんだろうか。孫に対してカゲノイの特徴を適当に言ってるし、鵜呑みにするのは危ないと思うけど。
ちょっと、いや、かなり不安なんだよな。実際に捕まえて連れて行ってもあぁ、あの話を鵜呑みにしたんだって言われそう。
けど、ここは信じておかないと他に頼るものがないしなぁ。
「……つまり、リルマは一人前じゃないと?」
言った後にプライドを刺激しちまったかもしれないと思った。まぁ、後の祭りである。
「正直に言うと、難しい立ち位置。それが今の私」
怒るかもしれないと思った俺の予想は外れ、少し眉をひそめた。
「見習いはまぁ、その、一応。一応ね、卒業しているんだけどさ」
すごく不安な言い方をしたな、今。お前のバックボーンがどれもこれも不安に思えて仕方がないよ、俺は。
「知識的に見習いに毛が生えた程度だから……見習い以上、一人前より下ってところかな」
つまり、半人前ぐらいか。表現的に以上だと見習いでもオーケーになっちゃうけど気づいてるか。
「自分的には頑張っているつもりなんだけど……」
肩を落とし始めたリルマを見て俺は持ち上げつつ、話を逸らすことにした。なかなかに難しいミッションだが、出来なくはない。
頑張っていると言っても評価が見えない以上、つもりとなるのもしょうがないか。
「で、でも、リルマだって凄かったろ? あれで一人前じゃないなら上はどれだけ凄いんだ」
コンクリを素手で壊したりするのだ。軽く人の常識を超えてしまっている。
「私の知っている影食いなら、巨大な岩の直撃には耐えると思うわよ」
事も無げに言った。
「は?」
「言葉で伝えるのは難しいんだけどね。無効化するって言ったほうがいいのかな……影食いって言われているけれどなにぶん、昔のことだから。当時の闇と同義で使っていたみたいなのよねぇ」
言われているってあいまい過ぎるだろ。そして相変わらず意味不明の説明で俺の頭の中は宇宙になりつつある。
「更にわからなくなった」
「え? 嘘。伝わらなかった?」
「ああ」
説明下手は相変わらず。今の説明で伝わった人は想像力が高くて羨ましい。
「端的にいうと、飛んできた物体を影にするのよ。ほら、影食いは影を食うでしょ? だから、変更されぶつかってくる影はそのまま取り込まれて終わり」
「……簡単に言うと、ありとあらゆるものを影にして消せると?」
物理法則捻じ曲げすぎじゃねぇかな。襲ってきた人間も影にして取り込んでしまいそうだ。
「そうねぇ。さすがに物体を影にしちゃうレベルの影食いは全国で二人か三人ぐらいでしょ。凄いと言われている人は見たことあるけれど、実際にやったところは見たことないから私も半信半疑」
同じ影食いから見ても凄いのか。
「すげぇなぁ。戦国時代にいたら天下取ってたんじゃね。もうちょっと影食いに光が当たってもいい気がするけど」
たとえば、リルマがそれを出来るのなら何人かかってきても影にされて、食われて終わり。一騎当千とはこのことで、実に恐ろしい話である。
「光は影にとっても必要だけれど、表舞台には出たがらないものよ」
「目立たない方が好きってわけか」
「好きっていうより、影食いは相手が同じ影食いの場合不意打ちが基本だから」
「へぇ?」
「相手に影食いですってばれたら同レベルだと何されるか分からないからね」
「だから影食い同士でもあまり情報交換が行われないって聞いてる。自分の事をさらす必要が出てくるからね。相手から能力を奪っているのも事実だし……興味がなかったって聞いたことがあるわ。興味がないものにわざわざ時間と能力をかけて取り組む人は少ないでしょ?」
言われてみればそうかもしれない。自分の力を誇示したいからと言って、人間がありんこを潰したとしよう。そして、周りの人たちにどうだ、凄いだろうとひけらかしたところでその人が望んだものは手に入るのだろうか。
「それ、誰から聞いたんだ」
「おじいちゃん」
途端に怪しい話になった。
「影食いって大変なんだな」
「まぁ、私欲……主に自分の身体能力向上のために影を食う人たちも影食いには多いから。ナルシスト気質っていうのかな、自分が満足ならそれでいい、みたいな?」
リルマのおじいちゃんの話はなかなか信用できないが、世の統治が影食い主導でないところを見ると信じていいかな。
「それで、影食いの力を使って何かしようって人はいないのか?」
何も表立って影食いの力を使う必要はないのだろう。あれだけの身体能力だ。何かしらの大会に出れば確実に優勝すると思う。
もっとも、影食いから見ればそれは小学生の大会に乱入したプロ選手みたいなもの。何の自慢にもなりそうにない。
「そうねぇ。私のおじさんは会社の健康診断で若い女の子にまだまだ元気なんだぞってアピールしたいために影食いしているからね」
なんだそりゃ。女の子にきゃーきゃー言われたいだけかよ、羨ましい。
「……もっと、大きな野望を持つ人はいないのか?」
「いるわよ」
「お、やっぱりいるのか」
実は国家転覆を狙っていますとか、物事の根底を覆すつもりですとかさ。
「鹿とか猪とか撃つための銃って資格が必要でしょ?」
まぁ、確か銃猟免許が二種類ぐらいあった気がする。しかし何故、そんな話に飛ぶのだろう。理解できない。
「……免許をとるのが面倒だからそのまま野を蹴って、素手でハントするのか?」
冗談のつもりでそういうと、影食いのリルマさんは頷いた。
「うん。私の知り合いにも熊の肉が食べたいからって言って影食いしまくった人は居たわね。時期尚早だったのか、外国の大きな熊と戦って大怪我したって聞いた」
「……え、素手で?」
「うん、素手で。影の武器とか使わずに」
馬鹿じゃないか。熊って、超危険じゃん。
「が、外国の熊ってどこら辺の? パンダか?」
パンダなら愛くるしいから勝てそうではある(実際は凶暴だと思うが)。でも、パンダの肉っておいしくなさそうだよ。それに、ハント禁止だろ、あれ。パンダはともかく、クマの手は一応、珍味であるんだっけ。
でも、パンダに負けたって言ったら他の影食いに馬鹿にされそうだな。じゃあ、マレーグマだったかな。たまに、現地の一般人が普通に撃退するって話を何かで見た気もする。そんなやつに影食いが負けるとは思えない。
「何だっけ、灰色熊って奴だったと思う」
「……そうか」
灰色熊って……それはなんともグリズリー。
「あれは一種の病気ね。獣の肉が好きらしいから……食べたことの無い肉は人間ぐらいだって冗談で言ってたわよ」
願わくばその人が今も普通であることを祈る。獣は一度人の肉を覚えると繰り返すらしいからな。
人が獣の一種であることを忘れてはいけない。
「……また少し、影食いのことが分かった気がするよ」
知っていなくても別にいいような知識だったけどさ。
「ま、影食いも人それぞれだから今の話が何か役に立つとは思えないけどね」
そうかもしれない。
俺がもし、影食いだったらグリズリーと戦う前にはしっかりと武装しようと思う。正直、どれだけ武装しようと勝てる気がしないのは何故だろうか。




