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影食いリルマ  作者: 雨月
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第一話:道の途中

 暦じゃ秋だろうに、今年は残暑が厳しい。去年もそうだった気がする。毎年、今年は残暑が厳しいとニュースが言い続けていた。

 日陰にいても、どこにいても、じわりと肌に汗をかいてしまう。時折肌を撫でる風も未だ熱を帯びている。それがどうしようもなく鬱陶しく、許されるのなら全裸になりたかった。

 世間的には平日の夕方。リーマンなんかが非常に遅めの昼飯を求めて歩き回る時間帯。大学生の俺はそういう人たちとは比べられないほど時間があり、しかも今は夏休み。暇な俺は駅前の広場で、一組の男女の前に情けなく突っ立っていた。

 傍から見たら友達同士で会話しているとでも見えるのだろうか。心の中まで読み取れる人間がいれば、俺が陰鬱としているのがよくわかるはずだ。

 何もかもを忘れて飛び降りたかった。このうだるような暑さからも解放されるのならなんだって良かった。

「そういうわけだから」

 整った顔立ちに、流行の髪形の青年が俺にそう言った。セリフは別に関係ない。だから、無言でも俺は察しただろう。親しげに隣の女の子の肩に手を回すその姿は絵になっていた。街中で出会えば思わず舌打ちをしたくなる構図。

「え……っと?」

 しかし、たったそれだけの言葉で納得できるわけでもない。シマウマとライオンの関係性、赤信号を無視して突っ込んだらどうなるか、そんなことは一発で理解できるが、実際は違う結末が待っているかもしれない。シマウマとライオンは親友かもしれないし、サイレン鳴らしながらゆっくり交差点に進入すれば事故を起こす確率は低い。

 そう易々と、わかりきった結果を認めたくない。

 現状、俺の彼女が、イケメンさんの隣に寄り添っている。なんという間違い探しだろうか。本来、俺が隣にいるべきポジションに、イケメンが立っている。

 この由々しき状態が正しいのならば、俺の彼女は、俺の彼女じゃないことになる。

 今の心境、バンジーでこれから行くぞと思ったら後ろから押された感じだ。もしくはふざけてこっくりさんをやっていたら九尾の狐が出てきた気分。

 何度も別の物にたとえようとするのは動揺している証だ。

「これはどういうことだよ、すみれ」

 当事者は俺とイケメンと、彼女のすみれ。いや、既に元彼女か。しかし、説明を求めるのならやはり彼女が適任だ。

「……ごめんね、けい君」

 その一言に絶句するしかなかった。

 なぜ謝るのか。俺に対して何か悪いことをしたと思っているのだろうか。それでいて、これはある結果における過程と言わんばかりの表情をしている。

 俺には彼女がいったい何を考えているのか、さっぱりわからなかった。

「あとさ」

 まだ謝る何かがあるのだろうか。俺は呆けたようにスローモーションとなったすみれの口の動きを網膜に焼き付ける。

「さよなら」

 秋は別れの季節らしい。いくら、夏の気候とはいえ、暦上は秋だ。

 イケメンと共に去って行く背中を眺めて、実感した。口の中が変に乾いている。また汗が顔を伝う。頬を撫でる風に対してもいらだちを感じている場合ではなかった。

 この駅前に呼び出されて十分と、いいや、五分と経っていない。その短さは時間の節約になるとどこかの教授が絶賛するだろうか。まるで敏腕司会が粛々と進める式の流れのように見えた。すべて予定調和と言わんばかりの別れだった。

 俺とすみれの別れは付き合う前から決まっていたといえる。

 別れとは、気づけば手遅れになっていることが多いみたいだ。大した理由づけもされず、さよならで彼女は居なくなった。理解は出来ても到底納得できるものでもない。

 俺は久しぶりに別れを知った。ハンマーで頭を殴られた気分だ。それと同時に、こんな場所で、しかも相手を見せてすみれが俺を捨てるなんて意外だった。

 目の前が霞む。たぶん、泣きそうになっているのかもしれない。ぼやけた視界を、右手で拭った。自分の右手が濡れている。それが汗なのか涙なのかはわからなかった。

 まさか、こんな風に別れが来るなんてな。

 どうでもいいことだが、水族館にいるシャチが意外と危険な動物だということもこの前初めて知った。



 この世の中は、意外なことが多いらしい。



 久しぶりに会おうという話で駅前に呼び出された。すみれにそう言われて軽く浮かれていた。暑いなと思いながらも、陽ざしから逃げずに待っていた。遊びに行く時間帯としては遅かったのは理解している。

 あいつと一緒に男がいたのを見て、悪い予感がしたのを覚えている。まだあれから十分も経っていない。

 俺に待っていたのは単なる別れだ。情けなく泣くことも、弁明することも何もかも出来ない内に終わった。

 すみれとは、羽津学園に通っていた頃からの付き合いだった。同じ大学を受けて、共に合格した仲だ。

 大学に入った後、俺は友達とバカをやり、彼女は夏休み前にサークルに入ったのを聞いていた。

 どんな聞いたら秘密って言われて少し経ち、それから急にやり取りが減った。俺もその時はちょっとした用事で連絡が取れなくなっていた。

 それから、連絡を取ろうとしても忙しいとか、時間がないとか、そういう返事が多くなった。たまにあちらから誘いがあっても、こっちの都合がつかないことも多かった。まるで俺が忙しい時を狙ったかのように声をかけてきたのだ。

 頭の中が目まぐるしく動き回り、活性化していた。

 俺のことをなんだか探るような目つきだったから浮気を疑われていたのかもって思った時期もある。ここはちょっと距離を取ってお互いを見つめなおした方がいいかもしれない、

 俺らにもそんな時期がやってきたのだと考えた。もちろん、このままだとまずいと思っていたさ。だけどまぁ、付き合い自体は長かったから何とかなるかもしれないと思った。

 思っていただけで、行動には移さなかった。必要ないと感じていたからだ。誰にだって、まだ大丈夫っていう気持ちは持つだろう。俺もそうだ。

 それがまずかった。結局、すれ違いによるところが大きいのだろう。友達が友達ではなくなっていたり、信頼関係にほころびが生じたのかもしれない。

 いつまでも未練たらしく終わってしまった事を悩んでいても、意味はない。

「すぅぅぅぅぅ……」

 理由や過程がどうであれ、結果は必ず訪れるもんだ。終わり方は意外だと思ったが、おおむね、このままだと破局が来るとわかっていた。やばいと思って動けない人間は、それ相応の結末を用意される。その典型的な例を、改めて思い知らされた。ただ流されるだけの人生を送ってきた俺からすれば、当然の結果と言える。

 彼女から告白されて始まった関係性は、彼女から終わりを告げて来ただけだ。男が一人女にフラれた。たったそれだけ。

「はぁああああああ……」

 駅前の空気はまずい。ここは尚更だ。

 涙は一筋だけで止まった。意外と意地っ張りな自分にどんな評価をすればいいのだろう。

 フラれてしまった以上、気持ちを切り替えよう。いつまでも惨めったらしく相手との思い出にしがみ付くのは情けない。すみれはもう、俺の彼女じゃないんだ。

 赤の他人だ、ただのモブだ……は、さすがに言いすぎかな。

「……あー、さらに涙が出そうだわー」

 あれ、なんだか最近態度冷たくないとか、化粧の感じが変わったとか、俺と話していると話題を早々に切り上げようとするし、別の友達から電話があった、等々。

 だからこそ、久しぶりの事に心躍ったのだ。離れた距離を、一気にまた縮めようって思っていた。

 まだ、一緒にいられるって、関係修復できるってさ。

 なんだかんだでついすみれの事が頭に出てくる。考えないようにしないとな。終わった事だよ。こうやって引きずるのは女々しすぎる。

「何あれ、あんなところでフラれるなんて恥ずかしい人だね」

「やばいよねぇ、こんなところでふられてるよ。おっもしろ」

 まずかったのは駅前で振られたことか。俺とイケメンと元彼女だけの空間じゃない。市の共有スペース、待ち合わせ場所でよく選ばれる場所だ。当然、行き交う人が多い。まさしく、公開処刑されたと言っていい。俺、断、罪っ。

 四人に一人ぐらいどうして俺はフラれたんだと肩を押さえて意見を聞いても良さそうだ。もっとも、それを実行できるのは狂人と魔がさした人間だけ。受けた人間はたまったもんじゃない。

 対面の道路で羽津学園の女子生徒たちが笑っている。軽めの茶髪の隣に、金髪の少女、そしてその隣は黒髪の少女だ。今は平日の夕方のくせに、学園がまだあっているだろう時間になんでこいつらがいるんだろうと思った。思うだけで、どうでもよかった。

 今は考える余裕がなく、心に巨大な穴があいている。ぽっかりとした、何かが入り込んでしまいそうな穴だ。

 彼女にフラれ、周りに笑われた俺には、ため息しか出てこない。すみれを恨む気持ちも湧いてこなかった。

 その心の穴は虚無へと繋がっているのだろう。

「笑うのやめたほうがいいよ。失礼だって。普段は一緒になって止めてくれるのに今日はどうしたの?」

「……だってさぁ、あたしもいろいろとあったし。別に大丈夫。聞こえないってば」

「聞こえてるって」

 黒髪の少女だけはすまなさそうに俺のほうを一瞥すると、友達二人に注意してくれた。

 その少女に心の中で感謝の念を送る。念力なんて使えないが、相手にきちんと言葉にしないと意味がない。

 あまりに笑われるので、いい加減見世物じゃねぇぞと二人を睨もうとした時、片割れの金髪と眼があった。染めた髪の毛ではない、おそらく地毛だ。緑色の目をしている所を見ると留学生かもしれない。

「っつ」

 頭の中でガラス玉が砕けるような音がした。目を合わせて数秒で俺の体が硬直してしまう。

「……え?」

 相手も嘲笑を辞めて、俺を見続ける。

 誰にだって目が合うなんてよくある。俺にだってたまにあることだ。ふとしたときに眼があって。相手の心を垣間見てしまったようないつも覚える罪悪感や気まずさではない。俺が相手に感じたものは、明確な恐怖だった。

 頭から一気に血の気が引いて、たたらを踏んだ。数分、立ち止まってその女の子の緑色の目に見入った。

「ひぅっ」

 肺が空気を欲しがり、慌てて息を吸う。おかしなことだ、呼吸の仕方を忘れるなんて。情けのない言葉が漏れたことに恥ずかしいとも、何とも思えなかった。

 混乱する頭の中には依然として、恐怖が蠢いた。このままあれを見続けていると脳みそが壊れそうだ。ぐちゃぐちゃになって粒子になり、虚無の穴へと引き込まれてしまう。わけのわからない負の感情が俺の中で暴れだし、逃げ場を求めている。

 急に心が寒くなり、震えた。あれだけ扱った風も、太陽の光も何もかもがその凍える何かに勝てないのだ。

 今さらになって、その場から逃げればいいことに気づく。見続けていてもメリットのないそれから眼を逸らし、回れ右をする。

 逃げよう、ここにいては駄目だ。

 ただ生き続けるための一歩を踏み出した瞬間、誰かに腕を掴まれた。

「あ」

 まるで相手も俺の腕を掴んだのは想定外といった感じの声をあげる。

 腕をつかまれたと理解した時、不快感が襲ってきた。まるで世界が静止したようだった。指先から皮膚の間を這いまわる蟲のような感覚も付属品のようにして脳へと迫ってくる。

 誰かに触られるのがこんなに苦痛になるとは思いもしなかった。視覚で覚えた恐怖なんて目じゃない。心の底から縮み上がり、徐々に外側から心が朽ちていくような代物。

 皮膚の下を何か得体のしれないものが這いまわる感覚は、誰にも伝えることは出来そうになかった。直に心臓をまさぐられたほうがまだましなんじゃないのかと錯覚する気持ち悪さだ。素足でミミズを踏みつぶしたそれでもいいさ。

 触れてはいけないものが、俺に触れたのだ。日常では滅多に知りえない、このまま死んでしまうんじゃないか、いいや、死んだほうがましだと言うあり得ることのない恐怖。

 頭が真っ白になり、体中に震えが走った。基本的な人間が備えている、恐怖という防衛機構は何かに急かされるよう、警鐘を鳴らし続けている。

 あやうく、叫び声をあげてしまいそうになっている。頭の中で風船のようなものが膨らむ。それが割れてしまうとどうなってしまうのか。気が触れそうになるのは生まれて初めてだ。

 子どもが夜中に眼を覚まし、暗闇に自分の妄想を見る。俺にも経験があった。それと違うのは確かな恐怖がにやつきながら精神に立ち入ってこようとしたのだ。姿かたちはわからない、そのくせはっきりとその存在を感じる事の出来る恐怖だ。

 いったい、誰が俺の腕をつかんでいるのか。情けないことに泣きそうで、怖くて確認ができない。出るときにトイレを済ましていなければどうなっていたかは明白だ。

 確認せずとも手を掴んでいるのは金髪のあいつだと決まっている。その顔に誰かの面影を見た気がしたが、それはおそらく気のせいだ。彼女と俺は初対面、多少、頭の中が混乱している。

 頭の中の時計が壊れたようで、どれほどの時間が経ったのか全く判断がつかない。呼吸を整え、振り返る。

 思った通り、道路の向こう側に居たはずの金髪が去りゆく恋人を逃がさぬような顔で手を掴んでいたのだ。

「な、何だよっ」

 我ながら情けない震えた声が出た。突けば割れてしまうような弱弱しい声。路頭に迷った子供が苦し紛れに出す虚栄の声に似ているかもしれない。恐怖が俺の背中に乗っかって、いつ泣くのか、逃げるのかと嫌らしい顔で問いただしてくる。

 自分より年下の女の子に、ここまで恐怖を覚えるなんて思いもしなかった。

 しかし、この時点であれだけ俺を追い詰めた瞬間的な恐怖は一気に萎んでくれていた。俺が恐怖や不安を感じていたのはほんの数秒だったようだ。全身から汗が吹き出し、嫌な感情を洗い流してくれた気がした。

 平常心を取り戻す。それでも、何かあればまたおかしくなるのだろう。相手の身なりをほんの少しだけ確認する余裕が出てくる。

 整った顔立ちの少女は緑色の目をしていた。外国人だろうか、少しはねっけで長めの金髪だ。以前、出会ったことのある記憶の中の友達に外見は似ていた。

 ただ、それだけ。どこにでもいる、だとちょっと違うが、怯える要素の無い相手。それでも新たに湧き出る感情は全て恐怖につながるものばかり。

 どれだけ言い繕うと意味がない。俺は単純に怖いのだ、目の前の女の子が。

 少女は反射的に俺の手を握ったようで、自分でも何をしたのかわかっていないらしい。そもそも、一体いつ、一車線分の道路を渡ってきたんだ。

「え、あ、ごめん。なんでもない」

 耳鳴りを覚えながら、その言葉を聞き取る。目の前が徐々に真っ暗になりながらも俺は我慢をした。額には脂汗が滲んでいる。体が妙に冷えて、寒かった。

「じ、じゃあ、放せよ」

 情けない声は自分でもわかっていた。

 それでも、どんなに怖くても相手に言葉で伝えなければ俺は逃げる準備さえままならない。相手に腕を掴まれたまま走ってしまうとついてくるとしか思えなかった。

「あ、うん……ごめん」

 相手も特に用事があったわけではないのだろう。すぐに放してくれた。そして、面と向かって相手を馬鹿にする気も相手にはなさそうだ。バツが悪そうにしている。

 彼女から振られた喪失感なんて恐怖と焦りで塗り替えられた。

 今はもう、駅前で女にフラれたと言う事なんてどうでもよくなっていた。

 ここに居てはいけない。気づかれたら、食われるぞと何かが告げている。

 俺は小走りで逃げる途中、後ろを振り返った。

 金髪の少女は俺をただ黙ってこちらを見ていた。嘲笑していたくせに、今では無表情。何かを考え込んでいるようだった。俺を見る目が、興味以上のそれへと変化しつつある。その目がたまらなく怖かった。早く逃げないと、食われるんじゃないのかとさえ錯覚してしまう。

 べたついていた汗は気づけば冷や汗に代わっている。鳥肌のたった俺はその場から逃げだすしかなかった。

 俺は自分の住んでいるアパートへと全力で逃げ続けた。何度か車に撥ねられそうになったり、転んだ拍子になぜか前転してしまったりしたものの、無事に部屋の前までたどり着く。

 何度もドアノブに鍵を突き付け、失敗して落としながら玄関へと転がり込んだ。鍵がうまく回ってくれない間、落ち着きを見せていた恐怖が鎌首をもたげる。今にもあの少女が腕を掴んでくるかもという恐怖に陥っていり、何度も後ろを振り返った。

 そんなことがあるはずないのに、バカげた考えだった。

「はぁ、はぁ、はぁ……はぁ……ふぅ」

 家に入り込んだ時、俺に残った感情は生き残った安堵感だけだった。玄関で膝を抱えて震えていたが、数分後には、いつもと同じ俺の部屋は相応の落ち着きを与えてくれた。

 暑かったはずなんだが、今はそれを感じる余裕がない。

 あのうだるような暑さは消えてなくなった。それだけが不幸中の幸いだった。

 今日感じた恐怖は眠ることで消えてしまった。またおかしな話だったが、それでよかったんだと思うことにした。


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