第十七話:精一杯にふいたなら
夕暮れ時、俺の影が闇に消えゆく時間帯。駅前を歩いていると、ちょっとした公園のような場所にリルマを見つけた。
「よぉ」
「あ、啓輔」
「こんなところでなにしてるんだ?」
夕焼け色のリルマは首をすくめていた。
「見てわからない?」
彼女はベンチに座り、手にパックのジュースを握っていた。実に悩ましい表情であるが、見てわかるレベルの問題じゃなさそうだ。もっとじっくり眺める必要がある。
「失礼」
そのままリルマの隣に座る。
「失礼って何が?」
「隣に座るよって意味だ」
「わかりづらい。隣に座るって言えばいいのに」
「隣に座ったよ」
もう一度リルマを見る。何を悩んでいるのかわからなかった。
こういう時は適当に言うに限る。
「今日の晩御飯、魚かぁ。家出しちゃおうかな?」
リルマの表情を読んでそう言ってみた。途端に妙な顔をされる。
「は? 啓輔ってそんなくだらない理由で家を出ようとするの?」
生意気そうな顔でそんなことを言う。協力者に対して失礼な小娘め、鼻でもつまんでやろうか。
「ねぇよ。今は一人暮らしだ」
魚は大好きってわけじゃないんだが、焼き魚は作るのが楽なんだよなぁ。グリルにいれて、タイマーをかけるだけのお手軽ポンだ。まぁ、魚だけに限らず動物の肉はとりあえず焼いて塩をかけて食えばうまいからな。
「すでに家を出てるのね。え、一人暮らしの理由って魚?」
冗談で頷いてもリルマならそのまま納得しそうなので否定するしかない。
「そんなわけあるか。俺はリルマの心を読んだだけだ。悩みの原因、大体あってるだろ?」
「違う。わからないの?」
わかるわけがない。ちょっとした冗談に対して、意外と真面目に無茶なことを言ってくるやつだな。
人の心がわかる奴なんていない。わかるというやつは詐欺師だ。察することができる人間は優しい人、予想するのはその人物をよく知っている人となる。心がつながることは絶対にありえないし、繋がったと思うのはただの錯覚。
俺はリルマの事をまだあまり知らない。そしてリルマも、俺の事をよく知らないはずだ。
どれだけ持論を述べてもリルマの問いに答えられるわけでもない。
「……わからないな。何を悩んでるんだ?」
「パックのジュースって最後の方、ずずずって吸っちゃうでしょ? それをやらずに最後まで飲めないかなって」
そっちもずいぶんくだらない理由じゃないか。
大抵、悩むことなんて見方によってはどうして悩むんだろうってことかもしれないけどさ。下らないことに悩めるってことはいいことだよ。悩みや不満は人間の成長につながるから。
もっとも、リルマの悩みがどの程度の成長を促すのかわからないが。
「啓輔はどう思う?」
これまで悩んだことのない悩みだ。繊細なところがあるのかもしれない。下らないと一笑に付してもいいが、それだとコミュニケーションが取れなくなってしまう。円滑な人間関係は人生を豊かにしてくれるって誰かが言っていたからな、試してみる価値は十分ある。
「えーっと、詳しく考えたことはないから俺も考えてみるよ。それで、何か縛りはあるのか?」
「縛り?」
「そう。移し替える容器を準備しないとか、ジュースを凍らせては駄目だとか」
あとはゴルフクラブ攻略縛りとかレベル一縛り、ナイフオンリーもあるか。見事達成したとき一人の人間が変態の域へ一歩、近づくのである。
そして気づけば普通の状態だと満足できなくなる。自分に制限をつけ、それがなければやっていけなくなるのだ。そうなるともう、普通の生活には戻れない。
「別にそんなことしなくてもいい。学園生活において一般生徒からおかしいと思われない範囲でやってよ」
しかし、リルマは縛りの楽しさを知らないらしい。
「別に音がするのは普通だろう? 言うほど悪い事、変な事じゃない気がするぞ」
「よくないっ、恥ずかしいでしょ」
ああ、勢いよくすすって周りから何か言われたのかな。それなら大人しくすればいいだけなのだが、納得していただけそうにない。
「……さっきは一緒に考えてくれるって言ったのに」
そういってしょげていた。この前、俺の事を面倒くさいと言ったけれどリルマも多少あるんだな。
「あー、ほら、今のは一つの提案だから。そんなに気を落とすなよ……ちょっと待ってろ」
男だったら気にならないが、女の子だと気にしてしまうのかもしれない。
俺もくだらないことで恥ずかしいと思ったことがあったっけなぁ。先生の事を大声でお母さんと呼んだ時だなぁ。言わないようにって注意しようとすればするほど、深みにはまってしまうと言うね。
数秒考え、俺はさっそく意見を出すことにした。
「リルマ」
「何?」
「まず、ストローは咥えなくていいから目を閉じてジュースをストローで吸っているところを想像してみてくれ」
「え? まぁ、いいけどさ」
必要なことだと思っているようだ。
俺の指示通りに目を閉じ、少し唇を突き出す。
素直でよろしい、いい顔をしているじゃないか。
「……これがお前のキス顔か。なかなかかわいい、にょっ……」
言い終わる前に拳が顔にめり込んだ。
「あんたねぇっ」
「あらやだ、この子ったら怒った顔もなかなかそそるじゃない……ちょっとした冗談だ」
拳を構えるリルマの姿を見て俺は真面目に考える。
影食いが本気で俺にパンチしていたら、ざくろか落としたすいかの断面を思わせるような見た目になるのは間違いない。
鼻血だけで済んだのは本当に良かった。顔、というより頭をぐちゃぐちゃにされて生き返った人間を俺は知らないからな。
「……殴っちゃったのはごめん」
「落ち込んじゃった顔もなかなか……冗談だ。今のはリルマを元気づけるために冗談を言っただけだよ……本当だよ?」
「もういい、真面目に相談したのにそうやって茶化すんだ……」
リルマはため息をついていた。その間に頭の中で会議を開き、決を取った。
「……残りが少なくなったら四隅のどこかにストローをつける。そんでもって、ストローから息を拭けよ」
「なんで?」
「理屈は分からないが、そうするとジュースが自分からストローに入ってくる」
「それなら音がしないかな?」
さっきまでの絶望色は消えうせ、希望に満ち溢れつつあった。
「さぁ、そこまではやって見なければわからないな。実際に手元のそれはまだ入ってるんだろ? やってみたらどうだ。ここには俺とリルマしかいないから安心して出来るだろ?」
「笑わない?」
「笑わないよ、安心しろって」
「うん、わかった。じゃあ、やってみるね」
無邪気な姿は可愛かった。もうちょっと生意気垂れても悪くはないが、これはこれで頭が緩そうでいいね。
「ふーっ」
直後、パックのジュースが破裂して液体が俺と、リルマにかかった。
すさまじきかな、影食いの肺活量。
「……張り切り度合いは伝わってきた。これ、学園でやったら大人気間違いなしだぜ」
その名も、エクスプロージョン。肺活量に自信のある吹奏楽部も呆然とするに違いない。
「ご、ごめん。本当、ごめんね?」
殴った時よりも焦っていた。ふと、もしこいつとその彼氏がキスをして息を吹き込んだらさっきみたいに膨らんでぱぁんしちゃうのかなと思ってしまった。
「気にしてないよ」
これじゃあ、すすった時より周りから何か言われるだろうなぁ。
その後、吹くときに調整すれば何とかなることに気づき、事なきを得た。
「やった! ありがとー」
「大した事はしてないから」
ともかく、無事にリルマは目的を達成できたことになる。これで彼女は周りから言われることもなくなる……とは思えないな。
――――――
「ルマちん、変な飲み方するね?」
「あ、これ? ほら、普通に吸っちゃうと音がしちゃうからそうならないように試してみた」
「ふーん? 音はしないけど、なんだか変だね」
「……え、そ、そうかな?」
「うん、普通に飲んだ方がいいよ」
「そ、そっか」
「音がしてもさ、誰も気にしないって」
「うん……そうだね、そうする」
――――――
「ふーっ! いかん、肺が潰れる!」
「だろ、無理だろ?」
「僕も無理。かすかに穴が開いて終わり」
「それはそれで凄いな」
「ああ、無理だわ。つーか、啓輔、本当に女の子が破裂させたのかよ?」
「おうとも、世の中には不思議がいっぱいだな」
「……その子ってさ、胸が大きかったりするか?」
「ん? ああ、大きい」
「やっぱりかー、だよなー。たくさん空気が入りそうだもんな」
「……関係ないと思うけどな」