第十六話:寝てた?
時刻は午後十時半。俺は自室の床で目を覚ました。
風呂上りで寝転がっていたら、そのまま眠っていたようだ。
近くに置いていたスマホが振動している。どうやらこれが原因で目が覚めたらしい。
「……あぁ? リルマか?」
口元をぬぐう。涎が垂れて、きっと人に見せられないような姿をしているのだろう。ついでに目も擦っておいた。
「寝てた?」
相手の第一声中にあくびをかまし、軽くぼやけた脳内に酸素を送る。
「うん、まぁ、そうだな。寝ていたよ」
返事をするとそのまま静かになった。
体を動かし、関節をほぐしながら待ったが返事はない。
「なんだ、どうかしたのか?」
「う、ううん。なんでもない」
「それで、何だよ」
電話をかけてきたのは珍しいな。本当、どうしたのだろうか。
「ねぇ、本当に寝てたんだよね?」
妙な事を聞く奴だ。なんで再確認してんだ、瑠璃ちゃんは。
軽く寝ぼけていた頭を叩く。瑠璃ちゃんはもういないんだったな。おかしいな、さっきまで一緒に遊んでいた気がするんだが。夢だったのか。
「寝てたよ」
「そっか。まさか寝てたなんて思わないから」
どこか落ち込んでいるようだった。
「寝ているときに電話されるのって嫌じゃない? せっかく寝ているところを電話で起こしたのはちょっと悪かったなって……やっぱり、寝てたんだよね? ごめんね」
「だから、寝てたってば」
こいつ、何なんだ。どうでもいいことで負い目を感じてやがる。あと、俺が寝ていることへの確認回数が半端ないな。
「俺が寝ていたかどうかはもういいんだよっ」
妙なやり取りのおかげで、すっかり目が覚めてしまった。なんだかすげぇ大きなあくびが出そうになったが、我慢だ。
やっぱり眠いの? って聞かれるのも面倒だ。どうでもいいことだが、脳内にあくびをしている人間を想像するとあくびをしてしまいそうになるのはなんでだろうな。
「あくび、我慢してない?」
妙なところで勘が鋭い。
「……してない。要件を言ってくれよ」
「用事がないと電話しちゃいけないの?」
今度は彼女みたいなことを言う。あんたはいったいなんなんだ。
「じゃあよぉ、お前……いや、いいわ。理由があってかけてきたんだろ? 遠慮なく言っていいよ」
ここでつつくとさらに妙な事が起こりそうだ。
今日のリルマの様子はおかしい。なんだか不安定だ。
「羽津学園の校門前に来て。じゃあね」
「あ、おい」
一方的に電話を切られた。要件は非常に短いもので、どうでもいいやり取りの方が長かった。
「……もう、九時過ぎてるしなぁ」
リルマには来てくれって言われたし、ここは素直に行った方がいいだろう。
羽津学園に行くのは久しぶりで、懐かしさとともに元彼女の事を思い出す。残念ながらそんな暇はなかった。
交通安全のお守りを握りしめると、祖母の出歩くんじゃないぞが頭の中に響いた。ま、リルマと会うのだから大丈夫だろう。影食いに対しての心配ならば、リルマ相手ならする必要がない。脳内で途端に怖い顔をして見せる祖母を無視することにした。今晩あたり、夢枕に立っていそうだ。俺が寺生まれだったら幽霊となった祖母を撃退……うーん、無理だわ。あの人には勝てそうにない。
俺は財布とスマホをポケットにねじ込むと、冷たいドアを押して外へ出るのだった。
点々と輝く街灯を通りながら辺りを見渡す。俺の住むアパートの近くはあまり女性が一人で通るには好ましくない。ふとした時に、視界の隅に何かの気配を感じるものの、それらはすべて俺の気のせいだろう。誰かに見られていると言うか、観察されている気がする。何となく、女性である気がした。
夜道を歩く怖さを大人になるにつれ、人間はその怖さを忘れるものだ。曲がり角には何かがいるんじゃないのか、背後から聞こえるアスファルトをたたく靴の主は俺が目的なんじゃないのか。時折、点滅を繰り返す街灯に何となく懐かしさを感じてしまった。子供の頃に行った夏祭りの帰りを思い出す。
暗闇への不安や恐怖は克服するのだろうか。まぁ、暗闇の不安なんてオカルトチックな物だけではない。女性ならまた違う不安が出るかもしれないが、男を襲う輩はいないだろう。
足音の主を確かめるため、振り返る。そこには誰もいない。また歩き出すと、もう足音は俺についてくることはなかった。
気のせいだと考え、歩いていると無事にリルマとの待ち合わせ場所にたどり着いた。足音が消えた代わりに背中に感じていた視線も、リルマと合流することで消えてしまった。
おそらく俺の、気のせいだ。はっきりとした証拠を得られなければ人外を立証するのは不可能だから。
「あ、来たんだ」
「呼ばれたんだ。そりゃあ、来るさ」
「てっきり無視するかと思ったから」
おかしなことを言う。
リルマの顔を覗き込むと、俺はふと違和感を覚えた。どこかで見たことのある顔だった。変な話だが、俺とリルマが出会う前に、どこかで似たような顔を見た気がする。
この感覚は以前もリルマを見て覚えたものだ。懐かしさとでも言うのだろうか。
「どうかしたの?」
結局、思い出すことは適わなかった。まぁ、忘れるってことは俺にとって大して重要な相手でもないんだろう。
「いや、なんでもない……俺がリルマとの約束を破るわけないだろ。それで、用事ってなんだ?」
「あんたと……夜の散歩がしたくて」
「……へぇ」
こんな美人に直球で言われると嬉しいね、嘘だとしてもさ。どうせなら瑠璃ちゃんモードがよかった。
「俺と散歩ねぇ……」
目を見ようとすると露骨に背けられた。こいつはやっぱり嘘だな。
「よし、こうしよう。これから話すことは必ず本音で話すこと。いいな?」
「はぁ? 何でよ」
「じゃないと俺、全裸で帰るよ。警察に見つかったら全力で逮捕されに……いいや、ヘリコプターの記録を更新しに行く。勃ち往生とは、俺、右記啓輔の事だ」
「んー、それって啓輔が損をして終わるだけでしょ」
「じゃあ、リルマ・アーベルという友達と遊んでいてその罰ゲームだって言う。お前がいくら無関係だと言っても、俺はこの女に騙されたっていう。絶対に折れない」
俺はとてもいい笑顔で言ってのけた。
おじさん、俺、ヘリコプターを受け継ぐよ。技を昇華させて耐えきる。俺のハイプァートゥアイフーンを見せてやるぜ。
「ところでヘリコプターって何よ」
「実践していいのか? もし、俺らの行動が全国のお茶の間に流れていたらモザイク無しだからやばいぞ。PTAやDNA、DHAから抗議連続の山嵐だ」
「なんだか色々と違う気がする」
「で、見たいか?」
「いい。あんたって、意外とまともな人間だと思ったけれど実は面倒くさい人間ね?」
生暖かい眼で俺を見てくる年下の女の子、その名前をリルマ・アーベルと言う。
「俺ほど普通な人間はいないよ?」
目を輝かせてリルマを見たのだが、眼を逸らされた。面倒な人間に関わりたくない時はそうするのがベストだが、人と話す時はちゃんと目を見て話してほしい。
「それで、どうするんだ?」
「啓輔の言うヘリコプターは嫌な予感がするから見たくない」
「そっちじゃなくて、本音の話」
どっちに転んでも、俺に損はない。
「……わかった、やってやろうじゃないの」
本音を話すだけでいいのに、この子は何をここまで息巻いているのだろうか。あと、割と強引に話を進めようとすると聞いてくれるタイプなのね。
「それで、俺に用事って何さ」
「……啓輔がいると影が寄ってくる」
「うん」
「私からすると、影に対してのおとりに出来る」
「なるほど」
「だから、一緒にいてほしい。気を取られているうちに私が影食いできるから」
頭の中に浮かんだもの。コンビニの先っちょにあるブルーライト。別名、飛んで火にいるなんとやら。
いつの間に自分が約束の地になっていたのかは知らないので、余計なことは黙っておこう。
「もし、たくさん来たら……穏やかじゃないよな」
「うん、影に襲われて入り込まれるとおかしくなるから、そこらへんは覚悟してね」
「……そうか」
嫌な汗でも伝ってくれれば俺の本能が危機を感じてくれているとわかるのだが、あいにく心は穏やかだった。言葉だけでは実感がこもっていないからだな。
ただ、リルマの方は俺の反応が不安を感じていると思ったようだった。
「大丈夫、啓輔の事は絶対に守るから」
絶対に守るから、か。
言うねぇ、その言葉がどれほど薄っぺらく、そして難しいかわかっていないようだ。そんな誓いは容易く折れるさ、って、これだと俺が完全な悪役だな。
「そうかい、そりゃいいね」
リルマは最初から俺をこういう風に使おうと思っていたんだろうな。だから、俺についてくるかどうか選ばせた。利用しようって魂胆は別に気にしちゃいないんだが物足りないな。利用しようって事ならとことんしないといけない。
ま、いいさ。俺の答えは決まっている。
「あのさ、報酬は現金渡しがいい?」
「いらない」
「え?」
「断るってわけじゃない、協力するさ」
影食いをすると、影食い側の組織からいくらか金はもらえるとのことだ。俺はあくまで一緒にいるだけで、影食いをするわけでもない。
ついでに言うのなら、怪しい組織から金をもらうと縁がつくからな。切っても切れない縁を自ら作るのも賢いやりかたじゃない。いざっていうときにしがらみで動けなくなると面白くない。影食いについて調べたいのなら是非、つながるべきだろうが今はまだ無関係の方がいい。知りたいことは、リルマを通してが理想だ。
リルマの話を聞いていると、こいつ自身が影食いについても詳しくはない。しかし、報酬に関しては知っているらしい。ちゃっかりしてる。本家だか、組織だかに影食いの報告をすると報酬が払われるそうで、通帳の方にもカゲクイと半角カナで摘要に記されていた。つまり、ちゃんとそれは存在しているのだろう。
多少なりとも望んだ影食いとの接触は、思ったよりも地味なものだ。
「俺が協力するのはあくまでリルマに対してだからな。その都度、終わったら飲み物を買ってくれ」
「わかった、啓輔がそれでいいっていうのならね」
それに、金に目をくらむようになって深入りし始めたら怖い。ジュースをもらう程度でちょうどいい。もし、影食いになれたら面白いかもしれないが、話に聞いた感じじゃ、影食いとしての能力はいきなり覚醒しないそうだ。つまり、俺が影食いになることはほとんどありえないことになる。
危険な仕事になるかもしれないが、それはそれ、首を突っ込んでしまった俺が悪い。
「じゃあ、今日からさっそくお願いしていい?」
顔色をうかがう様子を見せるリルマに、心の中で苦笑する。こういうやり取りが苦手なのかもしれないな。
「いいよ」
「ありがとう。ついてきて」
二人で十分ほど歩き、やけに暗い工事現場へとやってきた。
「ここか?」
「うん」
「中に入るつもりか?」
中と言っても、今のところ車を止めるスペース程度しかない。
「ううん、入らない。ここで待っていれば向こうから出てくるから」
本当かよ。そう言おうとして、すぐさま変化があることに気づく。トタンのような壁の隙間から闇より黒い何かが湧いた。
壁を伝ってアスファルトにこぼれた影は、表面を波打たせながら徐々に盛り上がって人型へと変貌を遂げる。
完全な人型へと変わることなく、中途半端なままで何度か飛び跳ねる。次は俺に向かってやってきた。
「これが影か」
なるほど、ホラーだ。奇妙に飛び跳ねて徐々に近づく様は一種の狂気を感じる。中途半端に人型をしていながら、意志の疎通は無理そうだ。これならまだ動物の方が心を通わせることが出来ると感じた。
「あれが人を襲うのか」
「うん、そうだよ」
右手を真っ黒に染めたリルマは影に近づいて素早く右手を突っ込んだ。数人の絶叫がこだました気がして、影は姿を消したのだった。
これがテレビの一場面ならテロップで世界にまた一つ、平和が訪れたとでも出ていただろう。
あっという間に終わった。その早業に俺は唖然としてしまう。以前、リルマに聞いていたわけだが、改めてみると何とも華やかさのない作業のようなものだった。
宗也の好きな異能を持った美少女の物語に似ているのに、あまりにもあっけなかった。もっと見せ場というものがあってもいいんじゃないのかと彼なら言うだろう。
俺がリルマに簿来られた時だが、リルマが言う通り、手こずった部類なのだろう。
「何か感想は?」
どこか楽しげに、そして嬉しげに金髪の少女が俺の方を見ていた。
「えっと、これで終わりか?」
「終わり。あっけないでしょ」
「ああ、一方的だった」
リルマがやった事はお触りだけ、俺に至ってはただ突っ立っていただけだ。
「相手は影だからね。触れるだけで終わる。影食いの力さえ使えれば誰でも倒せる」
「ふーん?」
祖母から耳にたこができるほど言われていた存在。影食いとはとてもあっさりとしたものだ。
「厄介なのは人から影が出始めているとき、あとは……影食いが相手の時かな」
「影食い同士で争うのか」
影食いリルマと名乗る以上、ほかの影食いもいるのだろうが、俺はこれまで会ったことがない。リルマは羽津市であまり影食いを見かけないと言っていたので、この地域には少ない可能性がある。
「まぁ、獲物を盗られたり、方針の違いでぶつかったときはね。私は無事に終わればそれでいいと思うから」
そういってリルマは首をすくめて見せた。無事にって割には俺を結構痛めつけてくれたけどな。
ああ、自分が無事に終わればってことか。
彼女にも、影食いにもいろいろとあるのだろう。
「私は影食いと一度しか戦ったことないけれど、影相手よりも、そっちの方が激しいかも」
「そうなのか」
影を吸収するのは、電気のスイッチを押すのと同じぐらい簡単なのだろう。
「さ、帰ろう」
「ああ」
リルマの隣を歩きながら、俺は影食い、そして影の事について考えていた。
「で、どれ?」
「あん?」
「今日の報酬。好きなの選んでよ」
気づけば夜道を照らす自動販売機の前に俺たちは立っていた。
「……んじゃ、これで」
適当に桃のねちっこいジュースを選ぶ。
「あ、それおいしいよね」
「……そうだな」
「私もそれ飲もうっと」
大して好きなわけではないのだが、まぁ、話は合わせておいた方がいいだろう。
プルタブを開けて口につける。
「あ」
「ん? どうかしたか?」
「それで売り切れ。これってここらへんだとこの自販機にしかないんだよねぇ」
一つため息をつかれた。
「……やるよ。まだ一口しか飲んでない」
「え、でも、これはあんたの報酬だけど?」
「気にするな。俺は大して何もしていない。突っ立っていただけだからな」
思っていたよりも危険じゃなかった。
「くれるっていうのなら、もらう」
そういって俺から缶をもらうと両手で持って飲み始めた。何かに気づいたようで、途中手を止めたが俺を上目づかいに見始める。
「なんだ? どうかしたのか」
「ううん、何も」
そう言ってまた飲み始めた。
手持無沙汰になったので周りを見渡す。
そこらかしこに闇は広がっている。この中に影がいるのかどうかリルマに聞きたがったが、彼女はただ缶に口づけを続けているのだった。