第十五話:お腹が空いた
宗也の家は表だけ見ると和風だ。内装も和風の部屋が多いだろうと勝手な思い込みをしていたこともあった。
リビングは洋風で、椅子に腰掛けて飯を食うスタイルだ。冬はこれにこたつ布団をつけたりするんだろうか。
食器棚の近くに比較的高めの食パンが袋に入っておいてあったりもする。
あのパン、今度買ってみようかな。
「何だか意外だね、畳にテーブルかと思ってた」
「祖父母の足腰が悪いのでこっちにしたんです。今は別のところに住んでいますが、遊びに来た時に不便が無いようにって」
「へぇ、なるほどね。そういえば家のあちこちも段差がなかった気がするよ」
バリアフリーってやつかね。
「はい、一度段差におばあちゃんが引っ掛かってこけたことがありました。だから、段差をなくしたんです。でも、段差がないってよく、気づきましたね」
かすかな尊敬のまなざしを後輩から受け、少し得意げになった。
ばあちゃんか。俺の婆ちゃんだったら段差なんて全く意に介さなかったな。崖をよじ登るパワーがあった。
そして地獄耳だ。頂上に行ったならちょっと口悪く言っても大丈夫だろうとくそばばぁといったら飛び降りて戻ってきた。
今考えたら恐ろしい話だ。だが、当時の俺は婆ちゃんから逃げることで精いっぱいでそこまで頭が回らなかった。その後の記憶はない。後日、母ちゃんに話を聞いたらお前は事故に遭って記憶喪失になったんだよと言われた。
だから俺は二度と、ばあちゃんの事を罵らないように決めたんだっけ。バリアフリーなんて考える必要すらなかったな。
「段差の件は大学の教授が講義の合間に教えてくれたんだ」
変なことは口走ってないよな。どうも、相手が年下の女の子だとほんの少しだけ緊張するんだよな。以前は彼女が居たから、それ以外の女子とほとんど縁がなかった。それに周りは男ばっかりだったからなぁ。
下品な話をすれば男ならそれなりに話せる(もちろん、人による)。相手が女の子、しかも年下と来たら扱い方に少しだけ悩む。そんな経験、なかなかない……リルマが脳内にちらりと現れては消えた。
俺の脳内で、小さな俺が手を挙げた。
「ぶらぶらの話をしよう!」
「そのネタはもうやった。ヘリコプターはどうだ?」
「それもやっただろっ。その進化形の、水圧で暴れるホース……」
「女の子にしていい話のわけないだろっ」
他の俺が突っ込む。
もっと様子を見よう、うん、戦略的な見送り。断じて、問題の先送りではない。
これがリルマ相手ならあほな話も出来そうだが、相手が知り合いの妹とはいえ、お嬢様っぽい感じだからな。宗也の妹じゃないのかもしらんね。
よくよく考えてみれば宗也もぼんぼんなんだよなぁ。こんな高待遇ニート待ったなしってたまに言うけれど、お金持ちならありえる選択肢だ。
ぼんぼんなんて天然ものか、養殖ものかと言われれば養殖ものだ。
「……将来的に厳しい自然へ放流されそうだ」
きっとしっかりしている妹さんがこの家を継ぐんだろうな。兄貴を追い出すって展開はさすがにないか。
よその家庭事情にこれ以上首を突っ込むわけにもいかないので、椅子に座り、出してもらったコーヒーを飲む。時間帯的にまだまだ晩飯を食べるのは早い。そもそも、料理が出来ていない。
エプロンをつけてやる気を出し、なにやら色々としている蛍ちゃんの後姿を眺める。その後姿を見ていると俺を振って消えた彼女のことを久しぶりに思い出した。
「……よくこうやって眺めていたもんだ」
つい、そんな事を口走っていた。
「彼女さんですか」
俺の呟きは蛍ちゃんに聞こえていたらしい。何のことか問わずに、直接的な事を聞いたところをみると勘が鋭い子なのだろう。
「ああ、そうだよ。俺、こうやって誰かが料理している姿を見るのが好きなんだ。あいつはよくやってくれたから。って、ちょっと女々しいか……悪いね」
自分で言っておいてなんだが、不思議なことに未練は一切無い。思い出なのだ。ああ、こんなこともあったなぁ、ただそれだけで気持ちが終わってしまう。振られたときのこと思い出せば俺の脳みそはリルマに出会ったことを優先させる。
変な話、彼女と一緒に居たイケメンの顔でさえ思い出せない。悔しいとか、寂しいとか、そんな感情が一切湧いてこない。少し前まではリルマへの恐怖心で満たされていた。
もちろん、いまではその恐怖心も無くなっている。純粋に思い出すのはリルマのことだけになっていた。不思議な話だ。俺たち二人の個人的なつながりなんてほとんどないはずなのにな。
黒の手帳が原因だろうか。そんなことを考えたこともある。しかし、俺が黒の手帳を見つけたのはリルマと出会った後だ。
「啓輔先輩?」
少しぼさっとしていたらしい。
「まぁ、思い出は思い出なんだよな」
いつか美化される日が来るのだろう。普通のままならな。今回は、リルマのせいか、ほかの要因化はわからないが美化されることもなさそうだs。
「蛍ちゃん、これからちょっと変な話をするよ」
「はぁ、わかりました」
少し困った顔をしつつ、話は聞いてくれるらしい。
「……俺が元彼女にフラれた現場にいただろう?」
「あ、はい。それがどうかしましたか」
料理の下準備をしている彼女に話すべきかどうか悩んだが、知っておいてもらう事にした。ついでに聞きたいこともあった。
「あの時、俺は君と、もう一人の友達と、そしてリルマを見た」
目を閉じて、邂逅を思い出す。変におびえて、震えたものだ。原因はいまもわかっちゃいない。例えるのならあれはあくびをしたときに飛翔するGがこちらに迫っている感じだな、うん。
「俺はリルマを見たとき、心の底から怖いと思った」
「怖い、ですか」
小首をかしげ、俺を見てきた蛍ちゃんに強くうなずく。
「ああ、なんだろうね。心臓を鷲づかみにされた気分だったよ……俺と似たような体験をしたって話、きいたことあるかい?」
片手間で聞くような話じゃないと蛍ちゃんは判断したらしい。俺の目を見て話を聞いてくれていた。Gのたとえ話はやめておいた。
しばらく頭を傾けて考えていたが、結局首を振った。
「……多分、無いと思います。学園でもそんな話聞いたことありません」
「んじゃ、もしそんな話を聞いたら教えてくれないか。俺も不思議で仕方がない。どうしてリルマが怖かったんだろうってね」
「わかりました……あの、この話、リルマちゃんにしないほうがいいですよね?」
その言葉に俺はうなずいた。
俺も本人には話していない。理由はいくつかある。その一つして余計な波風を立たせないからだ。それに、リルマに尋ねても答えはおそらく返ってきそうにない。
「そうだね、控えてほしい。リルマに話したところで解決するとも思えないんだ。それに」
「それに?」
「リルマが怖いなんていったら蹴り飛ばされそうだ」
「……あり得ますね」
あいつは変なところで怒るからな。ある程度怒った後、原因を見つけようと言い出すだろう。少し買いかぶりすぎかもしれないが。
「変な話はこれで終わりだ。これからは楽しい話をしよう」
「と、言うと?」
「そだねぇ、最近感じた不思議な事とか?」
「それって、楽しいんでしょうか」
「話し手次第だよ。というわけで、よろしくね、蛍ちゃん」
「私がするんですか……」
それからは取り留めの無い話をしていると時間があっというまに経っていた。蛍ちゃんは学園での話や友達の話をしてくれた。ちなみに、最近感じた不思議な話は大して面白くなかった。
「出来ましたよ」
蛍ちゃんが作ってくれたのはカレーだった。
てっきり、がっつりとした肉系のローストなんとかや、魚介ベースのうんたらスープが出てくると思っていただけに拍子抜けではある。
直球ど真ん中。料理の腕を振るう以前に、ほぼ日本人なら嫌いな人がいない食い物だった。カレーがダメならシチューか肉じゃがのようなものに変更されていたことだろう。
「どうぞ、食べてみてください」
シェフは自慢げに胸を張ってくれた。
「いただきます」
見た目は普通だ。カレーで見た目が普通って当然だな。カレーで奇抜な見た目と言うのも中々ない。
カレーには包容力がある。あくまで俺の持論だが、カレーの中にはよほどベクトルの違うもの以外は入っていても問題ない。少し変わったご家庭カレーだと思って食べてしまうだろう。
もっとも、ほかの料理となると違ってくるわけで、酢豚にパイナップルはご遠慮願いたい。食ってみるとそう悪くもないんだが、住み分けというものは大事だ。サバンナの大地にウーパールーパーがいるのは想像ができないのと一緒だ。
「ど、どうですか?」
「まだ食べてないよ」
「あ、すみません」
まず、見た目と香りを楽しむことにした。
薄く、靄の掛かったような表面から誘うような湯気、さらに食欲をそそるスパイスの香りを発している。目を閉じ、より感じやすくする。それは鼻を刺激し、そのまま脳へと働きかけて興味を持つように嗅いだものを魅了する。
うまそうだ、唾液が出た。
「……いただきます」
銀色の匙で白く輝く米と、ルーをおよそ五分五分で掬う。
口に入れ、具材を下の上で軽く転がす。さらっとしたルーがご飯にしみこんでいる。適度な粘っこいカレーが好きな人が食べたら水っぽいと表現して切り捨てるだろう。だが、実はぎりぎり一歩手前、引き際をわきまえた歴戦の将のように絶妙な感じを残せているのだ。また、ジャガイモや肉も比較的大きめ、ごろっとした感じ。それは育ち盛りのものならば満足するであろうサイズだ。おそらくいつもより具を多くよそってくれている。
さらに、先ほどの粘り気の少ないさらっとしたルーがここで意味を成す。じゃがいもがその良さを顕著に表している。
それは浸透、カレーの味がしっかりと具に行き届いているっ。荷崩れすることは無く、じゃがいもの味を楽しめる余裕も残しているのだ。そして、最後に程よい辛さ、無駄に尾を引かないっ。これまた引き際をわきまえているっ。おかげで、先ほどの味を、触感を楽しむために匙が進む。進むのだっ。
何度も何度も掬うっ、掬ってしまうのだっ。匙が止まらない。匙を止めることができないっ。
「ふぃーっ」
気づけば、空。あれほどあったカレーがなくなっているっ。最後まで味を楽しめる量、無駄に多い量ではない。すべてが胃袋へ収まることで、満腹感を満たすっ。感無量っ。
うまいものを食べると本能が喜ぶのだっ。満たされたことで脳にやってくる至福の喜び。怒涛のごとき、食べることへの幸せが襲ってくるっ。
また食べたい。最後に覚える、ワンモアへの期待値、上昇っ。
「いや、本当にうまかったよ。これ、お店を出せるレベルじゃないかな?」
「ありがとうございます。お世辞でもうれしいです」
「お世辞じゃないよ。蛍ちゃん、是非作り方を教えてくれ」
こうして俺は蛍ちゃんからとてもおいしいカレーの作り方を教えてもらった。とても有意義な時間を過ごすことが出来た。
後日このカレーを作ってみたのだが、あの味を再現することができなかった。俺の料理の腕が未熟なのはわかっている。それとも、俺に欠けている何かがあるのだろうか。